第六話 レトロ喫茶店の午後
第六話 レトロ喫茶店の午後
書店を出ると、雨は小降りになっていた。
アスファルトに残る水たまりが街灯の光を反射し、
夜の街を淡く照らしている。
和と湊は、傘を差しながら並んで歩いていた。
距離は近すぎず、遠すぎず。
大学時代と同じようで、でもどこか違う。
「……懐かしいね、この道」
湊がぽつりと言う。
「うん。よく通ったよね」
「上月さんと、こんなふうに歩くの……何年ぶりだろ」
和は胸がざわつくのを感じた。
湊の声は、大学時代と同じ柔らかさを持っている。
その柔らかさが、和の心を静かに揺らす。
「……三年ぶりくらいかな」
「そんなに経つんだね」
湊は少し寂しそうに笑った。
「もっと最近のことみたいに感じるのに」
和は返事ができなかった。
返事をすれば、胸の奥にしまっていた感情が溢れそうだった。
*
レトロ喫茶店「アカシア」は、大学の近くにひっそりと佇んでいた。
木製の扉、古いランプ、深い色のカウンター。
大学時代、サークルの帰りに何度も寄った場所。
湊が扉を開けると、
カラン、と小さなベルが鳴った。
店内は薄暗く、
ランプの柔らかい光がテーブルを照らしている。
ジャズが静かに流れ、
時間がゆっくりと進んでいるようだった。
「……変わってないね」
和が言う。
「うん。落ち着くよね、ここ」
二人は窓際の席に座った。
雨粒がガラスに当たり、静かな音を立てる。
湊がメニューを見ながら言う。
「上月さん、いつもカフェオレ頼んでたよね」
「覚えてるんだ」
「覚えてるよ。上月さん、甘いの苦手なのに、
ここのカフェオレだけは好きって言ってた」
和は驚いた。
そんな細かいことまで覚えているなんて。
「湊って……そういうところ、変わらないね」
「上月さんのことは、なんか覚えてるんだよね」
その言葉に、和の胸が静かに震えた。
*
注文を終えると、
二人の間に少し沈黙が落ちた。
でも、その沈黙は不快ではなかった。
むしろ、心地よい。
湊がカップを手に取りながら言う。
「上月さん、仕事……大変?」
「うん。忙しいけど、なんとかやってるよ」
「上月さんなら大丈夫だよ。
昔から、ちゃんとやる人だったし」
「そんなことないよ。私は……不器用だから」
「不器用じゃないよ。
上月さんは、丁寧なんだよ。
人の気持ちとか、言葉とか……ちゃんと見てる」
和はカップを持つ手が震えそうになるのを感じた。
——どうして、そんなふうに言うの。
——そんな言葉、聞きたくなかったのに。
「湊は……変わったね」
和は小さく言った。
「そうかな?」
「うん。前より……優しくなった気がする」
湊は少し笑った。
「優しくなったんじゃなくて……
大事なものを失いかけたから、かも」
和は息を飲んだ。
「……恋人のこと?」
湊は目を伏せた。
「うん。別れたんだ。卒業してすぐ」
和は言葉を失った。
「……そうだったんだ」
「上月さんには言えなかった。
言ったら……期待させるかもしれないと思って」
その言葉が、和の胸に深く刺さる。
「期待なんて……しないよ」
「でも、上月さんは優しいから。
俺が何か言ったら、きっと……困らせると思った」
和は視線を落とした。
——困るのは、私の方だったのに。
——言ってほしかったのに。
「……湊は、ずるいよ」
「うん。ずるいよね。
俺、自分でもそう思う」
湊は苦笑した。
その笑顔が、どこか痛々しかった。
*
雨が少し強くなり、
窓に当たる音が大きくなる。
和はカップを見つめながら言った。
「湊は……今、誰かいるの?」
湊は少し驚いたように和を見た。
「いないよ。ずっといない」
「どうして?」
「……怖いから」
「怖い?」
湊はゆっくりとうなずいた。
「誰かを本気で好きになるのが、怖い。
その人を傷つけるのも、傷つくのも。
だから……逃げてた」
和は胸が締めつけられた。
——湊は、ずっと怖かったんだ。
——私と同じように。
「上月さんは?」
湊が尋ねる。
「私も……いないよ」
「どうして?」
和は少し笑った。
「……忘れられない人がいるから」
湊は息を飲んだ。
その表情が、痛いほどに真剣だった。
「……誰?」
和は答えなかった。
答えられなかった。
沈黙が落ちる。
雨音だけが二人を包む。
湊が小さな声で言った。
「上月さん……また会ってくれる?」
和は迷った。
会えば、また心が揺れる。
揺れれば、また苦しくなる。
でも——
「……うん」
気づけば、そう答えていた。
湊はほっとしたように笑った。
「ありがとう。
上月さんと話すと……やっぱり落ち着く」
和は胸の奥が温かくなるのを感じた。
——この再会は、偶然じゃない。




