第四話 社会人の孤独と記憶
第四話 社会人の孤独と記憶
四月。
新しい生活が始まった。
和は大阪市内の出版社に就職し、毎朝満員電車に揺られながら通勤していた。
大学のキャンパスとは違う、乾いた空気。
人の声は多いのに、どこか孤独が漂うオフィス。
「上月さん、この原稿チェックお願い」
「はい」
仕事は嫌いではなかった。
文章に触れるのは好きだし、編集の仕事はやりがいもある。
けれど、ふとした瞬間に胸の奥が空っぽになる。
——湊は、今どうしているんだろう。
その問いが、仕事の合間にふと浮かぶ。
浮かんでは、そっと胸の奥に沈める。
連絡先は交換していない。
卒業式の日、あえて交換しなかった。
交換してしまえば、期待してしまう。
期待すれば、また傷つく。
だから、あの日のまま、終わらせた。
……はずだった。
*
仕事帰り、和はよく書店に寄るようになった。
理由は自分でも分かっていた。
——湊が好きだった場所だから。
世界の不思議コーナーに立つと、大学時代の記憶が蘇る。
湊が語った未解決事件、都市伝説、星の話。
彼の声、横顔、癖。
全部が、まだ胸の奥に残っている。
「……忘れなきゃ」
そう呟いても、忘れられない。
ある日、書店の棚に並ぶ本の中に、
大学時代に湊が話していた本を見つけた。
『世界の謎と未解決事件』
和はその本を手に取り、ページをめくる。
湊がホワイトボードに書いた事件名が並んでいる。
——ディアトロフ峠事件。
——マレーシア航空370便。
——タマム・シュッド事件。
ページをめくるたびに、胸が締めつけられる。
「……湊」
名前を口にした瞬間、涙がこぼれそうになった。
和は本を閉じ、深呼吸をした。
「大丈夫。私は大丈夫」
そう言い聞かせて、店を出た。
*
一方その頃、湊は京都のIT企業で働いていた。
新しい環境、新しい人間関係。
慣れない仕事に追われ、毎日があっという間に過ぎていく。
「佐伯くん、この資料まとめてくれる?」
「はい、すぐに」
湊は仕事をこなすが、心はどこか落ち着かなかった。
——上月さん、元気にしてるかな。
ふとした瞬間に、和のことを思い出す。
観測会の夜、裏庭での会話、卒業式の日の表情。
「私は……湊の恋人じゃないから」
あの言葉が、胸に刺さったままだった。
湊は恋人と別れたことを、和に言えなかった。
言えば、期待させてしまうと思った。
期待させて、傷つけてしまうと思った。
だから言わなかった。
でも、言わなかったことで、和を遠ざけてしまった。
「……俺、何やってんだろ」
湊はデスクに肘をつき、深くため息をついた。
和の連絡先は知らない。
卒業式の日、聞こうと思った。
でも、聞けなかった。
——もし、あの時聞いていたら。
そんな“もし”が、湊の胸に静かに積もっていく。
*
六月。
梅雨の雨が降り続く季節。
和は仕事帰りに、また書店に寄っていた。
傘を閉じ、店内に入ると、湿った空気が少しだけ和らぐ。
世界の不思議コーナーに向かう。
そこは、和にとって“記憶の場所”になっていた。
棚の前に立ち、ふと気づく。
——湊が好きそうな本が増えている。
『世界の奇妙な事件100選』
『宇宙の謎と最新研究』
『未解決事件の深層』
和はその中の一冊を手に取った。
ページをめくると、
湊が大学時代に語っていた事件の解説が載っている。
「……湊、これ読んだら喜ぶだろうな」
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
——もう、湊はいない。
——私の人生には、もう関係ない。
そう言い聞かせても、心は納得しない。
和は本を棚に戻し、店を出ようとした。
その時だった。
店の入り口のベルが鳴り、
誰かが傘を閉じて入ってきた。
和は何気なくそちらを見た。
そして、息が止まった。
——湊。
黒い傘を閉じ、少し濡れた髪を手で払う湊が、
書店の入り口に立っていた。
和は動けなかった。
心臓が激しく脈打つ。
湊は店内を見渡し、
世界の不思議コーナーへ向かって歩き始めた。
和のいる方向へ。
和は息を飲んだ。
——来ないで。
——でも、来て。
そんな矛盾した気持ちが胸の中で渦巻く。
湊は棚の前に立ち、
和がさっき手に取った本に手を伸ばした。
その瞬間、
和の手と、湊の手が触れた。
二人は同時に顔を上げた。
「……あ」
湊の目が驚きで見開かれ、
そして、ゆっくりと柔らかくなる。
和は声が出なかった。
雨音が遠くで響く。
書店の静けさが、二人を包む。




