第一話 ミステリーサークルの午後
第一話 ミステリーサークルの午後
大学三年の春、キャンパスの桜はほとんど散り、風に乗って最後の花びらがゆっくりと地面に落ちていた。
その日、ミステリーサークルの部室には、いつものように古い木の机と、読み込まれたオカルト本の匂いが漂っていた。
「世界の不思議って、結局“人間の想像力”の話なんだよな」
そう言ったのは、彼——佐伯湊だった。
柔らかい声で、けれどどこか論理的な響きを持つその話し方が、女性——上月和の胸にいつも静かに残った。
和は、彼の向かい側に座りながら、ノートにメモを取るふりをして、実は彼の横顔ばかりを見ていた。
湊は、世界の未解決事件や都市伝説を語るとき、少しだけ目が輝く。
その瞬間が好きだった。
「でもさ、湊。想像力だけじゃ説明できないこともあるでしょ」
サークルの後輩が言う。
湊は笑った。
「もちろん。だから面白いんだよ。説明できない“余白”があるから、人は惹かれる」
その言葉に、和の胸が少しだけ痛んだ。
——説明できない余白。
それは、彼と自分の距離そのもののように思えたから。
湊には恋人がいた。
同じ学部の、明るくて、誰からも好かれる女性。
和はその存在を知っていたし、湊が彼女を大切にしていることも知っていた。
だから、踏み込まない。
踏み込めない。
けれど、サークルで過ごす時間の中で、湊がふと見せる“素の表情”だけは、どうしても忘れられなかった。
*
その日の活動は、世界の未解決事件についてのディスカッションだった。
湊はホワイトボードに「ディアトロフ峠事件」と書き、淡々と説明を始める。
「不可解な点が多すぎる。足跡が残っていたのに、外傷の説明がつかない。放射線量の異常……」
和はその声を聞きながら、ふと気づく。
湊は、話すときに少しだけ右手の指を机にトントンと叩く癖がある。
緊張しているわけではなく、思考が深まると自然に出る癖。
——そんな細かいところまで、覚えてしまっている自分がいた。
「上月さんはどう思う?」
突然名前を呼ばれ、和は少し驚いた。
「え、あ……私は……」
言葉が詰まる。
湊がまっすぐこちらを見ている。
その視線に、胸がざわつく。
「……説明できないことがあるから、怖いし、惹かれるんだと思います」
やっとの思いで答えると、湊はふっと笑った。
「そうだね。上月さんは、そういう“余白”を大事にするタイプだよね」
その言葉が、和の胸に静かに落ちた。
——どうしてそんなことまで分かるの。
そう思ったけれど、口には出せなかった。
*
活動が終わり、夕方のキャンパスを歩く。
春の風が少し冷たく、空は薄いオレンジ色に染まっていた。
「上月さん、帰り道こっち?」
湊が声をかけてくる。
「うん、同じ方向」
二人で歩くのは、これが初めてではない。
けれど、いつも少し緊張する。
湊は自然体で、和はその自然さに戸惑う。
「今日の議論、面白かったね」
「うん。湊の説明、分かりやすかった」
「そう? 俺、話しすぎてないかなって思ってた」
「そんなことないよ。湊の話、聞いてると……なんか、落ち着く」
言ってしまってから、和は少し後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない。
しかし湊は、少し照れたように笑った。
「ありがとう。上月さんにそう言われると、嬉しい」
その笑顔が、胸の奥に深く刺さる。
——どうして、そんな顔をするの。
恋人がいるのに。
和は自分の心が揺れるのを感じながら、歩幅を少しだけ小さくした。
*
サークル棟の前で、湊がふと立ち止まる。
「上月さんってさ、なんか……不思議だよね」
「え?」
「他の人が気づかないところに気づくし、言葉にしないことをちゃんと感じ取る。そういうところ、俺……好きだよ」
その“好き”は、恋愛の意味ではない。
分かっている。
分かっているのに、胸が熱くなる。
和は笑ってごまかすしかなかった。
「ありがとう。でも、湊の方が不思議だよ。論理的なのに、夢を信じてるみたいで」
「夢を信じるのは悪いことじゃないでしょ?」
「ううん。素敵だと思う」
二人の間に、春の風が通り抜ける。
その風が、和の心の奥にある“言えない想い”をそっと揺らした。
*
その日の帰り道、和は空を見上げた。
薄暗くなり始めた空に、一番星が光っている。
——この気持ちは、きっと叶わない。
でも、消えない。
湊の横顔、声、癖、笑い方。
全部が、和の胸に静かに積もっていく。




