伊勢屋
江戸の夜は、漆黒ではない。
日本橋の袂に立ち並ぶ両替商の軒先には、提灯が灯り、金銀の相場を書き換える筆の音が絶えない。
金座の若き職人・五郎次は、一族の羽織を脱ぎ捨て、地味な紬の着物に身を包んでその喧騒の中にいた。懐には、例の鳴らない小判が忍ばせてある。
「……伊勢屋さん、折り入って相談がある」
五郎次が訪ねたのは、江戸でも指折りの札差であり、金座にも精通する老練な両替商・徳兵衛だった。
奥の薄暗い勘定所で、徳兵衛は小判を受け取った。
彼は五郎次のように石板に落としはしない。ただ、慣れた手つきで小判を人差し指に乗せ、親指の爪でその縁を軽く弾いた。
「……ほう」
徳兵衛の眉が、ピクリと動く。
「五郎次さん。あんた、これをどこで手に入れた」
「うちの作業場だ。打ち上がったばかりの百枚に一枚、こいつが混じっている」
徳兵衛は眼鏡をずらし、小判の表面に刻まれたござ目を凝視した。
「重さは慶長の一両。色は申し分ない。だが、重心がわずかに……ほんの数厘、中心から逸れている。職人が打つ時に地金が偏るなど、後藤の一族ではあり得んことだ」
徳兵衛は小判を卓に置いた。その目は、長年信用と対峙してきた男特有の鋭さを帯びている。
「これは『中抜き』じゃない。地金の『不純物』が原因だ。それも、ただの不純物じゃない。意図的に、金に近い別の金属が混ぜ込まれている」
五郎次は喉の渇きを覚えた。
「比重が近く、色が馴染みやすい金属……。鉛か、あるいは錫の配分を変えたのか」
「それなら、色揚げの工程で化けの皮が剥がれるはずだ。だが、こいつは黄金のままだ」
徳兵衛は声を潜めた。
「いいか、五郎次さん。今、江戸では妙な噂が流れている。幕府が財政難を埋めるために、金座に内密で『質の悪い小判』を作らせているんじゃないかってな」
「馬鹿な。一族はそんな命を受けていない!」
「あんたの耳に入っていないだけかもしれない。あるいは――」
徳兵衛が言葉を切った。
「一族の誰かが、幕府を飛び越えて、市場を壊そうとしている者と手を組んだかだ」
五郎次は、昨夜の計算を思い出した。
消えた「三両分の純金」。それ自体は微々たる額だ。だが、もしこれが「試作」だとしたら?
本番で数万枚、数百万枚の鳴らない小判が江戸に溢れた時、小判の価値は暴落し、米の値段は跳ね上がる。江戸の経済は、音を立てて崩壊する。
「伊勢屋、この小判に使われた地金がどこから来たか、洗えるか」
「……金座に入る金は、佐渡や伊豆から直送されるはず。だが、最近は古金、つまり古い小判を溶かして打ち直す分が増えている。その回収と運搬を請け負っているのは、あんたの従兄弟の辰之助さんじゃないか?」
五郎次の脳裏に、いつも涼しい顔で金座の倉を管理している辰之助の顔が浮かんだ。
辰之助は職人ではない。一族の中で、地金の流れと数字を管理する、いわば金座の心臓部を担う男だ。
「辰之助が……?」
その時、勘定所の外で、バタバタと慌ただしい足音が響いた。
「旦那! 大変です! 伝馬町の米問屋で、小判の受け取りを拒否する騒ぎが起きています! 『金座の金が腐っている』と、誰かが騒ぎ立てて……!」
五郎次と徳兵衛は顔を見合わせた。
まだ一握りしか出回っていないはずの鳴らない小判の情報が、あまりに早く広まりすぎている。
「誰かが、意図的に火をつけたな……」
徳兵衛が立ち上がった。五郎次は小判を握りしめる。
政治家たちの権力争いなどではない。これは、経済テロだ。
五郎次は、夜の日本橋へと駆け出した。
犯人は、自分のすぐ隣にいる。




