産声
江戸、日本橋。
「金座」の屋敷内に響くのは、怒号でも政の議論でもない。
コン、コン、コン、コン――。
規則正しく、それでいて心臓の鼓動を急かすような、硬質な金属音。
たがねが金の地金を叩き、小判の表面にござ目を刻んでいく音だ。
「……甘いな」
一族の若き職人、五郎次は、手元の小判を火箸で持ち上げ、窓から差し込む西日にかざした。
表面の黄金色は、まばゆいばかりに輝いている。だが、五郎次の目は騙せない。
「後藤の看板を背負って、この程度の色揚げで納められるか」
江戸の通貨、慶長小判。
それは、金と銀を混ぜ合わせた合金だ。そのままでは銀の白さが混じり、鈍い色をしている。それを「黄金」に変えるのが、一族に伝わる秘伝の化学だった。
作業場には、ツンと鼻を突く酸っぱい匂いが立ち込めている。
五郎次は、梅酢と塩、そして数種類の鉱物を調合した「色揚げ液」を煮立たせていた。
「おい、五郎次。また勝手に調合を変えたのか」
背後から声をかけたのは、叔父の甚兵衛だ。一族の中でも古参の、頑固な職人である。
「叔父貴、今の幕府の指定通りの配合じゃ、数年で銀が浮いてきます。それでは江戸の商人は納得しねえ。金座の小判は永遠に黄金でなきゃいけないんだ」
「馬鹿野郎」
甚兵衛が低い声で叱りつけた。
「俺たちが作っているのは芸術品じゃねえ。『信用』だ。幕府が決めた通りの重さ、決めた通りの純度。余計なことをして価値が上がっちまえば、それはもう通貨じゃねえんだよ」
経済とは、残酷なまでに画一的であることを求める。
一枚が優れていれば、他の九十九枚が偽物に見えてしまう。それが通貨の恐ろしさだった。
その時、作業場の隅で検品をしていた丁稚が、短く声を上げた。
「……あ」
「どうした」
五郎次が駆け寄り、丁稚の手から、今しがた打ち上がったばかりの小判を奪い取った。
見た目は完璧だ。重さも寸分違わない。
五郎次はそれを、床に置いた石板の上に、指先で弾くように落とした。
――ポスッ。
鈍い、湿った音がした。
本来、本物の金貨であれば、高く澄んだ「キーン」という音が響くはずだ。
「……中に、『空洞』があるな」
五郎次の顔が強張った。
熟練職人が打って、空洞ができるはずがない。これは、誰かが意図的に「芯」を抜いたか、あるいは地金そのものに何かが混じっている証拠だ。
「叔父貴、これを見てくれ。地金がおかしい」
甚兵衛が小判を手に取り、その顔色を変えた。
「……まさか。江戸へ入る地金は、全て厳重に管理しているはずだ」
もし、一族の中に「金を抜き取り、安い金属を混ぜている者」がいるとすれば。
それは単なる盗みではない。徳川の経済の根幹を腐らせ、一族を根絶やしにする大逆罪の始まりだった。
五郎次は、作業場の棚の奥から、自作の「算盤」と「帳面」を取り出した。
彼は職人であると同時に、数字の狂いを見逃さない計数の天才でもあった。
「地金の搬入量と、打ち出した小判の総数……。帳尻は合っている。だが、わずかに煤の量が多い」
金を溶かす際に出る不純物の重さが、昨日よりわずかに増えている。
誰かが、金の代わりに「何か」を燃やしたのだ。
「誰がやった……?」
五郎次は、黄金色に光る作業場を見渡した。
共に汗を流す、血の繋がった一族の男たち。
その中の誰かが、江戸の経済を揺るがす偽りの金を打ち始めている。
夕暮れの日本橋。
金座の重い門の向こうで、今日もまた千両箱が運び出されていく。
その中に混じった「鳴らない小判」が、江戸の街に毒のように回っていくのを、五郎次は予感していた。




