#38
今、崇宏の腕の中には瑠依がいる。
泣き疲……いや、怒り疲れた瑠依は崇宏の腕の中でぐったりとしていた。
「あのー瑠依ちゃん。非常に申しあげにくいのですが、今夜泊めていただけますでしょうか」
「はぁ?」
「えっとー。実は俺、まっすぐここまで来ちゃったから円に両替してなくってー。無一文だったりします!」
「馬鹿なの? どうやってここまで来たのよ」
「洋介――って瑠依ちゃんどうせ覚えてないでしょ?」
「あんたがあたしの浮気を疑った人でしょ? 覚えてるに決まってるじゃないの」
「うん、もうただちに忘れていいよ。その洋介くんに空港まで迎えに来てもらったんだけどさ。両替するまでお金がないので、できれば数日泊めていただけるとうれしいかなー?」
テヘッと笑う崇宏を心底呆れた顔で見上げた瑠依は、腕の中から抜け出るとリビング脇のふすまをあけ、無言で布団を敷いた。
そしてそこを指差す。左手の薬指には小さな宝石がキラリと光っている。再会したら必ず渡すと決めていた指輪は、計画通り瑠依の指にはめることに成功した。崇宏の意図を瑠依がどう受けたのかは微塵も感じ取れないが。
「あんた、そっちの部屋で寝て」
「え!? 一緒に寝ないの!?」
「なんであんたと一緒に寝なきゃいけないのよっ!」
「やだ。一緒じゃなきゃやだ」
「あのねぇ。別れた男を、しかも突然帰ってきた馬鹿な男を、泊めてやろうというあたしの優しさがわかんないの!?」
「今は別れてない。俺、瑠依ちゃんの。瑠依ちゃん、俺の」
瑠依は拳を振り上げた。それをかろうじて受け止め、もう一度腕の中に閉じ込める。震えているのが確実に怒り具合からだろうということは、馬鹿な崇宏にも理解できている。
「もう置いていかないからごめんなさい」
「許さない。なんなのよ。待たなくていいって言ったくせに! いいやついたら結婚していいって言ったくせに! 急にいなくなって急に帰ってきてなにが俺のよ! 馬鹿にすんじゃないわよ!」
「うんうん。ほんと、ごめんなさい。そういえば瑠依ちゃん、浅島と会ってたってどういうこと?」
「浅島!? 誰よそれっ!!」
「ん。知らない人でいいや」
崇宏は瑠依を抱き上げ、ベッドに下ろして覆いかぶさった。
睨み上げる瞳は殺意に満ち溢れているが涙で濡れている。そっと頬を撫でるとぽたりと零れ落ちた。あとどれくらいこの涙は出てくるのだろう、と崇宏は思う。
そして実は6年間ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「瑠依ちゃん、俺以外の人となんかした?」
「しないわよっ! 悪かったわねっ! どこまで馬鹿にすれば気が済むの馬鹿男っ!」
殴りかかろうとした瑠依の腕を抑えつけ、唇を覆う。文句はすべて呑み込み深く舌を絡めた。瑠依の瞳から次々と零れ落ちる雫を指先で拭い、額を合わせる。
「瑠依ちゃん、俺以外の人とキスした?」
「……なんなのよもう……あんたのせいでノリのことだって」
「……ノリ、ですか。誰ですかそれ」
「あんたの友達なんでしょう!?」
「瑠依ちゃん、それが浅島くんです……。えーなに? 浅島くんとはキスしたの?」
「もーやだ。ノリはずっとやさしかったのに! ずっとそばにいてくれたのに! なんであたし、崇宏が好きなのぉ?」
涙腺が決壊したように、瑠依の瞳からは涙が溢れている。なのに崇宏はホッとしていた。
再会してからずっと怒っているか泣いているかばかりで、本当はもう嫌いになられたのではないかとビクビクしていた。“忘れない=好き”ではないことくらいわかっているから余計にだ。ようやく瑠依の口から好きだという言葉が聞けて、安堵するとともに脱力した。
急に倒れ込んできた崇宏に瑠依は驚く。
「崇宏!?」
「あー……ごめん。安心したら力抜けちゃった……」
「なに、言ってんの……?」
「瑠依ちゃんが誰かのものになっちゃってなくてよかった。会いたかったんだ、ずっと。瑠依に触れたかった……」
「あんた……泣いてんの?」
「うん。ごめんね。ちょっと泣かせて」
瑠依を抱きしめたままの崇宏の肩が震えていた。ずずっと鼻を啜る音が聞こえる。
瑠依はそっと崇宏の身体に腕を回し背中を撫でた。
まさか泣かれるとは思わなかった。元々情けない男ではあったけれど、瑠依の前で涙を見せたことはほぼない。泣きそうな顔は何度も見たが。
なぜかとても申し訳ないような気持ちになった瑠依は、宥めるように何度も背中を撫でているうちにようやく気持ちが落ち着いてきた。
帰ってきたのだ。世界一の大馬鹿男が。
大きなリュックと愛しい馬鹿は、6年前に姿を消したあのころと中身はまるで変わっていない。瑠依を抱きしめる腕も、触れた唇も、溢れすぎな想いも、変わっていない。
変わったのは――。
「瑠依……」
「ん?」
「抱いてもいい?」
ゆるゆると起き上がった崇宏はぐいっと涙を拭い、瑠依の頬を撫でる。
変わったのは、自分だ。瑠依はこのまっすぐな瞳をあのころのまま見つめ返せない。
「もう一回だけ、俺のこと好きになって」
もう一回もなにも、瑠依が愛したのはこの馬鹿たったひとりだ。
唯一好きになれたノリのことがなければ、きっと瑠依はここで頷いただろう。素直に頷けないのはなぜだろう、と瞳を伏せる。
崇宏は馬鹿だけれど、いつだって瑠依の感情の流れを察知するのが早かった。返事のしない瑠依が今、なにを迷っているのかもきっとわかっているのだろう。
律儀に返事を待ち続ける崇宏とようやく視線を合わせると、泣き出しそうな瞳に瑠依の姿が映り込んだ。
これから先も自分はずっとこの男が好きなのだろうと思う。なのにどうして瞳の中の自分は泣いているのだろうか。
泣きたいことなんて何度もあった。なのに一度だって涙は流れなかった。
こんなにもずっと、会いたかった。なのにどうしてほかの人を好きになれたのだろう。
長い沈黙のあと、崇宏はまっすぐ瑠依を見つめたままもう一度掠れた声で呟いた。
「もう一回だけ、俺のこと好きになって……」
自然と瑠依の腕は崇宏の頭を抱き寄せていた。
共に時間を刻むことができなかった6年ではあったけれど、瑠依は、どこまでも情けなくてどこまでもまっすぐでどこまでも馬鹿な崇宏が好きだ。それを確信した。
「あんたは一生あたしだけ愛して」
「うん……」
唇が重なると瑠依は崇宏をぎゅっと抱きしめた。離れていた時間を取り戻すように、寂しかった時間を補うように、今度は手放さないように。ふたたび零れ落ちた涙は崇宏の唇が残らず吸い取っていく。それが移動するたびに崇宏は呟いた。
瑠依、大好き。愛してる。嫌いにならないで。離れていかないで。
それはこっちの台詞だ、と瑠依は思う。けれどいちいち頷いてしまうのは、その声が泣いていたからだ。
首筋を吸い上げざらりとした感触が撫で下りていく。手のひらが素肌を滑り膨らみに沿ってやわらかく包まれた。その瞬間、脳裏にノリの顔が浮かんだ。
瑠依は思わず崇宏の手を掴んだ。
怪訝な表情をうかべて顔を上げた崇宏を見て瑠依は自分の行動に驚いた。これではノリのときと同じではないか。
一瞬見えた陰りに瑠依は慌ててその手を離す。
なにを迷うことがあるというのか。ずっと待ち続けた男に触れられるのを拒むとはどういうことなのだと自分のことながらも失望する。
「瑠依ちゃん」
「ごめん、そうじゃなくて……」
「ごめんなさい。ちょっと調子に乗りました」
「だから、そうじゃなくて!」
「んと……なんにもしなくていい。ぎゅってしてていい?」
躊躇いがちに伸びてきた手のひらはそっと髪を撫でる。崇宏と過ごした年数が少しずつ甦ってくる。
記憶と同じあたたかい手。どんなときもこの手は瑠依にやさしかった。
ただ。
今、心の中にいるその手も。




