83 選択
アグスティア城の大広間には、黄金の燭台と天井のシャンデリアが、夜の訪れを祝福するように輝いていた。
大会後の祝賀会には、貴族、軍人、商人、国外からの使節までもが招かれ、きらびやかな衣装とグラスの音が交差している。
だが、その主賓であるはずの王太子レオナードの姿は、どこにもなかった。
(欠席……ね。あれほどの醜態を晒したのだから、立ち直れないのも無理はないわね)
控え室の奥から大広間を覗く。アンリエッタは主賓が揃ったら入場予定だ。もちろん――今大会の優勝者であるダリオンと共に。
今日のダリオンは新しく仕立てた黒の礼服姿である。だが、当然のように剣は身体から離さない。
「……ねえ、ダリオン。剣は置いておかない? あなたは今夜の主役なのよ?」
「それはできない」
――この男はどんな状況であろうとも、アンリエッタを守ることはやめないらしい。
あまりにも確固たる声だったので、アンリエッタはそれ以上の説得を諦めた。
そこへ、セラが珍しくそわそわしながら現れた。
「……お嬢様。王太子殿下より、ローズ様に面会の申し出が……」
「――いま? そして、ローズに……?」
アンリエッタはわずかに眉を顰める。
「はい。応接の間にてお待ちいただいていますが、いかがいたしましょうか」
「わかったわ。パーティーが始まる前に、片づけておきましょう」
アンリエッタはくすりと笑い、認識阻害メガネを取り出し、かけた。
◆◆◆
応接の間に入ると、王太子レオナードは椅子に深く腰掛け、落ち着かない様子で待っていた。
「お疲れさまでした、王太子殿下」
アンリエッタはローズとして軽やかに頭を下げる。
レオナードは嬉しそうに椅子から立ち上がり、ローズに向けて微笑む。
「ローズ嬢! 会いたかったよ! 君に勝利を捧げることは叶わなかったが、この愛は本物だ。どうか私と一緒に来てほしい」
――愛。
ああ、なんて薄っぺらい愛!
「ふふっ……あははは!」
「ロ、ローズ嬢……?」
「……失礼。この程度の変装で、わたくしがわからなくなるなんて」
椅子に座り、眼鏡をそっと外すと、レオナードの目が大きく見開かれた。まるで、初めて真実に触れた子どものように。
「――ア、アンリエッタ!! ローズは、お前だったのか……?!」
腰を抜かしたように椅子にへたりこむ。
その驚きはどこからどう見ても本物だった。
(まさか、本気で気づいていなかったなんて……いえ、都合のいい妄想の方を、自分の中で真実にしたのね)
いまや自分にとって都合の悪いアンリエッタと、まだ利用価値のあるローズを、完全に別人として認識することにしていたのだろう。
アンリエッタとの関係が破綻しても、ローズを手中に収めれば、まだ何とかなるかもしれないと。
甘い。甘すぎる。
もしもローズとアンリエッタが別人だったとしても、そんな都合のいい未来は訪れない。
「……見たいものしか見ない。玉座にある者がその視野では、国を見誤りますわよ?」
――もう、とっくに手遅れだけれども。
この王太子はそれに気づいているだろうか。
買収工作の露呈、無様な敗北――それが王国中にリアルタイムに晒されたというのに。
――もはやこの男に神性を見出す民はいない。
――盤上の王は倒れ、現実の王太子もまた敗れ去ったのだ。
「僕が悪かった、アンリエッタ……」
「…………」
「何もかも許す。だから戻ってきていい……! 君こそが、僕の妃に相応しい!!」
椅子から立ち上がり、必死に手を伸ばす王太子レオナード。その言葉はたしかに彼なりの誠意だろう。だが、アンリエッタは一瞥をくれることすらしなかった。
「――お話になりませんわね」
この期に及んで、まだ自分の本当の過ちにも気づいていない。
いっそ憐れみさえ覚える。
自己弁護、周囲の擁護、忖度――それらが、たった一人の王位継承者を、虚構の王に仕立て上げようとしている。
だがもうアンリエッタには関係のないことだ。
先に切り捨ててきたのは彼なのだから。
「お帰りください。王太子殿下。王都へは、無事に送り届けますわ。主催者の責任として」
「――その後のことは、アグスティアには無関係ですので……くれぐれも、お気をつけて」
アンリエッタはゆるやかにドレスの裾を払うと、ダリオンの手を取り、静かに立ち上がった。
開かれた扉へと歩を進める。振り返ることはない。もはや未練も、名残惜しさもなかった。
◆◆◆
応接の間をあとにし、ふたりは大広間へと続く深紅の絨毯の上を歩いていた。
隣を歩く騎士は、ふと呟くように言った。
「君は、女王になるつもりか?」
「だったらあなたは王配ね」
当然のことを返すと、ダリオンは一瞬息を詰まらせる。
アンリエッタは笑みを深めて、続けた。
「前にも言ったけれど、いまの王家を潰すつもりはないわよ。古びた王冠に興味はないもの。それに、神に選ばれし王様にしかできない仕事っていっぱいあるのよ」
王冠の台座だけではなく。
国の伝統や外交の正統性を担保するという役割がある。
「でも、王の権威は弱るでしょうね。そうしたら次は貴族会議制かしら?」
「……貴族会議制?」
「ええ。王様には、玉座の上でにっこり微笑んでもらって……お父様が議長になるの。領主たちの声を束ねて、意思決定する。地方の発言力も上がるし、いろんな意見を取り入れられると思うの。面白いと思わない?」
想像するだけで、わくわくしてくる。
「いずれは、知恵と志ある者すべてが国の行く末を語れるようになるのかもしれないわね。そう、血筋ではなく――意志の力で」
これこそ新時代の国のかたちではないだろうか。
「君の発想には、本当に驚かされる」
「だって、自由なクイーンだもの」
◆◆◆
大広間に入ると、祝賀の宴が幕を開ける。
ダリオン・ヴァルフォードの栄誉と、そして――アンリエッタ・アグスティアの復活を祝う場として。
「まさかご健在だったとは……」
「いや、それよりも――美しい……」
「女神だ……女神が舞い降りたようだ……」
あちこちから聞こえてくる貴族たちのざわめきは、歓喜と欲望がないまぜになったものだった。
男たちが次々と近づいてくる。礼儀正しく頭を下げ、言葉を尽くしてダンスを申し出てくる。
だが、アンリエッタは――
すべての申し出を振り払うでもなく、ただ静かに、背を向けた。
そして、後ろに控えている騎士に向かって手を伸ばす。
「――騎士様、わたくしと踊ってくださらない?」
その言葉に、ホールが静まり返る。
女性からダンスを申し込むなど、前代未聞。
舞踏会では、女性は常に誘われる側である。それが常識だ。
踊りたい男性がいる場合、仲介役にお願いして、誘ってもらえるように状況を整える。それが常識だ。
アンリエッタの行動は完全に社交界のマナー違反。
視線が一斉に集まる中、ダリオンは迷いなく前に出た。
「……喜んで」
軽く頭を下げ、アンリエッタの差し出した手を取る。
手袋越しでも伝わる温もりに、アンリエッタの唇がわずかに綻んだ。
音楽が流れ出す。
宮廷舞踏のリズム。貴族の嗜み。
ダリオンはアンリエッタの腰に手を添え、ゆっくりとステップを踏み出す――が。
「ふふっ、ちょっとぎこちないわね。せっかく教えたのに、練習していなかったの?」
――ステップは覚えている。だが、明らかにぎこちない。優雅さからは遠い、騎士のステップだ。
「――踊ることになるとは思ってなかった」
「どうして?」
問うと、ダリオンはわずかに視線を逸らす。
――騎士である自分が、舞踏会でアンリエッタと――公爵令嬢と踊るなんて、信じていなかったのだろう。
だから、誘ってくることもなかった。
本当に真面目で、大胆なくせに遠慮がちで。
「――ダリオン。わたくしのパートナーはあなただけよ。これからも、ずっとね」
アンリエッタはそう言ってから、何かを伝えるように唇を動かした。
――音のない言葉を聞き取ろうと、ダリオンが顔を寄せてくる。
アンリエッタは踊りながら爪先立ちになり、ダリオンの首に腕を回す。
考えうるすべてを未来の中から、はっきりと道を選び、顔を引き寄せ――
その唇に、キスをした。






