80 決着
――レオナードは完全に固まっていた。
動かないまま持ち時間は減っていく。次の手を打たなければならないのに、手が震えて虚空を切るのみであった。
「馬鹿な……馬鹿な、馬鹿な、馬鹿……おい、何かの間違いだろう?!」
立会人である忠犬騎士くんに吠えてかかる。
しかし忠犬騎士くんは静かに首を横に振るのみだった。
「――審判、動きません。試合続行です。それにしても、これはいったい……」
「トラップ、ですわね。騎士は見えにくいところに逃げ道を残していましたが、殿下がそれに気づかず、見誤って飛び込んだのです」
「つまり――?」
「詰めが甘かったですわね」
そして「チェックメイト」とまで叫んでしまった。
試合で「チェック(王手)」だの「チェックメイト」だなどと宣言などする必要はないのだが、言わずにはいられなかったのだろう。
それにより、大恥をかいてしまった。
傲慢の代償としてはあまりに重い。
――それは、民衆の王家に対する信仰に疑念を抱かせ、神の代行者たる神性を剥ぎ取り、ただの一人の人間だと気づかせる切っ掛けになるのだ。
レオナードはなんとかルークを動かす。強襲の形で、更に攻める。――だが、それも罠だった。
次の瞬間、残っていたナイトが跳躍し、敵陣に睨みを利かせるポジションへ。
――ここしかない、という正着の場所へ、ノータイムで。
レオナードが苦し紛れのように守りを固めようとするも、その次の瞬間またダリオンが攻め込む。
まるで、士気を挫かれ撤退を始めた敵軍を追い詰めるように。
「な、なんと……ダリオン選手、先ほどまでとは打って変わって、まるで嵐のような指し手です!」
「……踊らせる時間は終わった、ということでしょう。相手に時間を与えずに、正着を指しています。まるで――この先どうなるかすべてわかっているかのように」
高鳴る心臓の音に重なるように、力強い駒の音が響く。
「まるで、騎士の剣戟です。もしかしたら――序盤から、既に見えていたのかもしれません。このために、持ち時間を使って構築していたのでしょう」
あるいは、時間の使い方さえ罠だったかもしれない。
わざと時間を使って消極的なふりをして、相手を勇み足にさせて。
――そして、刺した。
アンリエッタの身体が、ぞくりと震える。
きっとこの試合を見ている大勢の人間と同じように。
(あなたは本当に、戦場に生きる騎士なのね……)
ダリオンの指し方は、戦場そのものだ。
誇り高い騎士であり、あらゆる手段を用いて戦う冒険者だ。
序盤の長考という情報戦――戦略的包囲という陣形戦――罠と、隙を置かない動きで主導権を奪う心理戦――そして、殲滅戦。
──すべては、ひとつの勝利のために構築された戦略だった。
「……殿下は中央を支配しているように見えて……実際には、騎士の包囲網に踏み込んでしまっていますわね」
「見せかけの突破口に誘導されていた、ということでございましょうか……!?」
「そうですわね。罠は気づかれないうちに張られていたのです。そして罠に入り込んだ獲物は――」
――狩られるのみ。
それでもレオナードはなんとか戦いを続けている。厳しい手を打たれても、持ち時間を削ってなんとか逃げを打つ。だがまたノータイムで追いつめられる。
――当然だ。
レオナードが考えている時間で、ダリオンもまた考えているのだ。
相手の時間を奪い、自分のものにする戦略。
白の王が逃げ、黒のナイトが追う。それを支援するように、黒のクイーンが後方から展開する。
――そして。
――気づいた時には、王太子のキングに逃げ場はなかった。
「――チェックメイト」
ダリオンの、この試合初めての声が、白の王の終焉を告げた。
静寂が訪れた。
――一瞬の、完璧な静寂。
そのあと、地の底から湧き上がるような咆哮が、会場を包み込んだ。
熱狂。
大歓声。
街が揺れた。いや、国が揺れていた。
「ダリオン選手、逆転の一手! いや、これは逆転ではない! 最初から構築された勝利です――!」
中継を通じて、実況の叫びが王都中に響き渡る。誰もが立ち上がり、叫び、叫び、歓声の波を打ち鳴らす。
(――やっぱり、あなたはわたくしの騎士だわ)
アンリエッタは胸に手を当てたまま、目を潤ませながら微笑んだ。
「なんと見事な決勝戦! 勝者、無名の騎士・ダリオン! これぞ伝説の一戦です!」
王太子は、顔面蒼白のまま動かなかった。
指先が震え、キングの駒から離せない。
一度触れた駒は絶対に動かさなければならない。それがこの大会の公式ルールだ。
だが――逃げる場所など、どこにもない。
「……ばかな……ばかな……っ。チェックメイトのはず、だったのに……っ」
絞り出すような声。
そして指先からキングが滑り落ち――白の王が、盤上で倒れた。
ダリオンはそれを見届け、静かに立ち上がる。
ゆっくりと背筋を伸ばし、置いていた自分の剣を取り、敗者に背を向けて対戦台から降りる。
「ダリオン選手、勝利の立ち上がり! アグスティア杯の覇者にして、王太子を打ち破った伝説の男がここに――!!」






