76 癒しの時間
解説席を下りたアンリエッタは、ふぅと息を吐いて、仮面を外した。
そこにセラが飲み物を持ってやってくる。
「お嬢様、お疲れさまでした。次の試合の解説はどうされますか?」
「……本当に疲れたわ。今日はもう終わり」
ソファに沈み込みながら、唇を尖らせる。
「本当はもっと騒ぎたかったし、応援したかったのに! あの姿だときゃあきゃあ言えないのよ!」
あくまで公平な『祝福の女神』として座っていなければならないので、「ダリオン頑張って」なんて色んな意味で言えない。
――公平、だったつもりだ。
「じゃあ次の解説は、ダリオン様にお願いしてみましょうか」
セラの言葉にアンリエッタはびっくりして飛び起きた。
「ダメ! プレイヤーに何をさせる気?! 試合のないときは彼をゆっくりいたわってあげたいの! 解説するにしても、わたくしの隣で二人きりでしてほしいの!」
「それは解説ではなくデートです」
「いいじゃない……恋人なんだから……」
アンリエッタはどことなく恥ずかしいものを感じながら、よく冷えたレモンティーを飲む。
「次の解説は、お父様とかいいんじゃない?」
「……公爵閣下は、貴族の方々に囲まれていますので……」
「だからこそよ。お父様もゆっくりチェスを観戦したいはずよ。ルドルフと一緒なら、リラックスできるはずよ」
「……とても重厚なチェス中継になりそうです」
「でしょうね。これは昔のどこの戦いの陣形を再現しておる、とか言いそうね。それはそれで需要があるんじゃない?」
――チェスに詳しくない人間は眠くなるかもしれないが。
次の試合は王太子レオナードの試合である。どんな中継でも、話題性は抜群すぎる。多くの人間が見届けるだろう。
そしてその試合でアグスティア公爵が語る――というのは、貴族たちにとってインパクトが大きい。
娘を失ったアグスティア公爵が、王太子を見て何を語るのか――注目度も話題性も抜群だろう。
「それにわたくし、他の人たちの試合なんて……特に王太子殿下の試合なんて……毒を吐く気しかしないわ」
「そうですね。では二戦目の試合解説は公爵閣下にお願いしてみましょう」
――話が早い。
「多分大丈夫よ。お父様、この大会の成功を一番願ってくれているから」
「ですが、ダリオン様と殿下以外の方々の試合は、祝福の女神様が解説をお願いします。視聴率100%を目指すのですよね?」
「――わ、わかったわ。ちゃんと語るわよ。『物語』をね」
◆◆◆
第二試合――レオナード王太子。対するは、予選七位の若き子爵令嬢エルネスタ。
王族と貴族、美男と美女の華やかなる対局の幕が上がる。
客席の多くは貴族で埋め尽くされ、そこかしこに金糸の刺繍が瞬いている。
スクリーン越しに見える世界はさながら舞踏会のような空間だ。
その試合を、アグスティア公爵ジグフリートが、重厚な声で静かに解説する。
『この陣形は、百年戦争の折に生まれたものだ。……左翼のビショップ展開が鍵となる。殿下は、こうした戦術史に通じておられるのだろう』
威厳と風格に満ちた声は、年配の貴族たちにとって格別の響きを持ち、若い者たちには眠気と重圧を、そして敬意を与えていた。
――それはまさしく、貴族のためのチェス。
静かで、雅で、格式高く。
まるで画面越しに薔薇の香りが漂ってきそうだ。
アンリエッタはその様子を、ダリオンと一緒の控室で観戦していた。
――正直、眠い。とても。
様々な疲れが一気に押し寄せてきたかのように、瞼が重い。
「ねえ、ダリオン……よかったらでいいんだけど……」
アンリエッタは青いドレス姿のまま、ソファの隣に座るダリオンの腕に頭を預け。
「膝枕、お願いしていい?」
そっと、囁く。
ダリオンは一瞬だけ動きを止め、軽く身体を開いた。
「……おいで」
短く、優しい言葉に、胸がきゅっとなる。
アンリエッタは静かに身を預け、そっと彼の脚に頭を乗せた。
ダリオンの手がゆっくりと動き、アンリエッタの頭を撫でる。
大きくてあたたかい手に、緊張がほどかれていく。
包み込まれるような感触に、アンリエッタは安心して目を閉じた。
「君は、無理をしすぎだ」
「んー……でも、手ごたえは悪くないの……」
このチェス大会、何もかも手探りだけれども、うまく進行している自負がある。
「もう少しだから、頑張るわ」
――すべての試合が終わり、極上のサプライズが始まるまで、あと少し。
アンリエッタは膝枕されたまま、スクリーンを眺める。
映し出されているのは、レオナード王太子と子爵令嬢エルネスタの一戦――貴族同士の洗練された駆け引きだが、どこか味気ない。
「どうかしら、二人のチェスは」
「堅実な社交的チェスの応酬だな」
淡々とした声で言う。
「黒の動きが悪い。実力差以上に、雰囲気に圧されているのだろう」
「そりゃあ、相手が王太子殿下だもの。どうしても委縮しちゃうでしょうね」
――委縮。
自分の言葉が、棘のように胸に刺さる。
もしかしたら、かつて自分もしていたかもしれない。
婚約者である王子の、唯一得意なチェス――アンリエッタは彼にずっと勝てなかったが、もしかしたら心のどこかで勝とうとしていなかったかもしれない。
――その方が丸く収まるのだと、勝手に思っていたのかもしれない。
それに気づくと、自嘲が零れ出た。
「……勝つより、負ける方が得られるものが大きいのよ」
苦く笑って言った言葉に、ダリオンは少しだけ黙し、それからスクリーンの表示を消した。
音が途絶え、映像が消える。
控室には、ふたりきりの静けさだけが残った。
「……いいの?」
「見るべきものはない」
あの場で行われているのは社交のチェス。
ダリオンが興味を惹かれるものは一切ないのだろう。
アンリエッタはくるりと身体を捻り、ダリオンの身体側に頭を向けた。
「――ねえ、ダリオン。あなたからみてわたくしのチェスってどんな感じ?」
「強い。――だが、少し窮屈そうに見える時がある」
「……そう」
大きな手が、再びアンリエッタの頭をそっと撫でる。
「君はもっと自由になれる。クイーンだからな」
――クイーン。盤上で最も自由で、最も強力な駒。
その言葉が、心の奥深くにじんと染み渡る。
「ふふっ、そうね。でもわたくしは、盤上には収まらないわよ」





