73 微笑と討伐
試合開始の鐘が鳴る。静まり返った講堂に、両選手の椅子が音もなく引かれた。
「今日は全力で挑ませていただきます」
レグルス王国の麗しき貴公子、カミーユ卿が優雅に微笑む。白い手袋に包まれた手で軽く礼を取り、その物腰はまさに王族にも劣らぬ気品。
だがその向かい――
「…………」
返される挨拶は、沈黙。
ダリオンは鋭い眼光をそのままにカミーユを見据え、眉ひとつ動かさない。
(ダリオン! 顔が怖いわ、落ち着いて!)
変装して観客席に座るアンリエッタは、思わず心の中で叫んだ。普段の彼はあんなに落ち着いているのに、今は違う。明らかに怒っている。
まるで戦場で仇敵と相対したかのような迫力だ。
その険しさに、応援席の乙女たちもざわざわと騒ぎ出す。
「ねえ、あの人、今日なんか……怖くない?」
「でもそれも素敵……!」
「けどカミーユ様も応援したいし、困るぅ~!」
あちこちから聞こえてくる声に、アンリエッタは少し複雑な気持ちになる。
(――問題なさそうね)
むしろいつもとのギャップに萌えられている。
今日の対戦は、物腰柔らかな王国の騎士と、無口で無骨な騎士のような冒険者。どちらが勝っても絵になる試合になる――はずだった。
『――当試合は白がダリオン選手、黒がカミーユ卿となります。それでは、試合開始となります』
盤上の駒が動き出した瞬間、空気は変わった。
ダリオンの一手目から明らかに、処理速度が違う。
カミーユはあくまで優雅でゆったりとしているのに、カミーユの駒が置かれた次の瞬間にはダリオンの駒が動いている。
その指先は獣のように鋭敏で、無駄がない。
『お、おっと!? カミーユ卿、序盤から押されています! ダリオン選手、これは本気ですね……!』
実況席のルドルフが驚愕の声を上げる。
――実況の声は防音処理によって選手たちには聞こえていない。
お互い、聞こえるのは卓上の音と相手――そして立会人の気配のみ。
『ここでナイトが……ああっ、狙い通りだった!? なんという先読み!!』
解説板の盤面には、カミーユの駒があっという間に包囲されていく様が映し出されていた。
「お嬢様……ダリオン様、怒ってますよね?」
隣に座るセラの囁きに、アンリエッタは曖昧に頷く。
「……そんな気がするわね……なんだか、ものすごく……怖い……駒の動きが速いし……」
ダリオンの棋風はどちらかと言えば防御型。
なのに今日は、まるで詰ませることしか頭にないかのような攻撃型。優雅な駆け引きではなく、討伐そのもののテンポだった。
「何をされたんです? まさか本当に『お願い』を?」
「…………」
答えられない。
アンリエッタは視線を泳がせたまま、小声で尋ねる。
「……ねえ、セラ。『自分にだけ微笑んでいてほしい』って、どういう意味だと思う?」
「それはもう、お嬢様がダリオン様の『勝利の女神』という意味でしょう」
思わず吹き出しかけるが、堪える。
「そんなお嬢様に負けるようにお願いされるなんて、ダリオン様もお気の毒に……」
「そこまでの意味はなかったのよ?! 演出的に、興行的に、その方が盛り上がると思っただけで――」
「お嬢様、それは八百長というものです。二度とされないように」
ぐうの音も出ない。
「反省してます……」
「謝るのでしたら、私にではないでしょう」
「もう謝ったし……」
「ちゃんと、しっかり、謝ってください」
「はい……」
チェス盤の前では、カミーユ卿が冷静に手を進め続けていた。だがその手は次第に、追いつめられる獣のものになっていく。
『次の一手は――ああっと、チェックメイト!! ダリオン選手、全勝で予選通過です!!』
電撃戦のような速攻に、会場に拍手とどよめきが巻き起こる。
『――カミーユ卿も、最後まで紳士的な態度を崩しませんでした……しかし、勝利は完全に圧で決しましたね……! お疲れ様でございました……!』
チェス盤の向こうで立ち上がったダリオンは、観客席に目を向ける。
その視線が――アンリエッタを捉えた。
誰にも気づかれぬほど微かな、それでいて確実な――視線の交錯。
周囲の乙女たちが「私を見てる?」とざわめいている中、アンリエッタはごくりと喉を鳴らした。
その目が言っている。
――これが答えだ、と。
(まずいわ……本当に怒ってる)
アンリエッタはじわりと背筋に汗をかきながら、椅子の背にもたれかかった。
(ああああ……ちゃんと謝らないと……)
◆◆◆
――観戦後、本部に戻ったアンリエッタの元へ、スタッフたちがそれぞれ報告を持ってくる。
「――お嬢様、速報です。ダリオン様の最終オッズは1.1倍になりました。男性人気も高まっているようです」
「うわあぁあ……」
アンリエッタは頭を抱えた。
(なんでこんなに……あの無愛想男が……)
頭を抱えている間にも、次の報告が続く。
「忠犬騎士くんマスコットの売り上げも好調です。なんでも『推しに似てる』とかで、大量買いが発生しています。追加生産を急いでいますが、このままですと本戦中に売り切れるかもしれません」
「そ、それはダメ。できるだけたくさん作って。何なら大会終了後も売り出していって。いっそ予約も受け付けて。なんなら王都にアグスティア公式ショップを出店してもいいくらいよ」
「は、はい! 検討いたします!」
スタッフが敬礼のような姿勢で駆けていくのを見送ったアンリエッタは、ふぅと長いため息を吐いた。
「……まさか、ここまでとは……。わたくしの騎士……人気が出すぎじゃない……?」
呟きには微かな嫉妬と、誇らしさと、そして――
(ほんと、罪な男ね)
そうしている間にも、セラから次の報告が来る。
「本部に各選手へのファンレターと要望もたくさん来ていますよ」
「要望?」
「主に選手のことをもっと知りたい、といったものですね。たとえば、好きな食べ物、好きな人のタイプ、休日は何をしているか……」
「なるほど……たしかに、そういう情報があれば選手への親近感も湧くでしょうし、応援の熱も高まるわね」
アンリエッタは顎に手を当て、すぐさま次の施策を決定する。
「予選突破選手へのインタビュー、お願いしましょう。予選中の映像素材を再構成して、本戦の選手紹介に使えるようパワーアップさせて」
「……また忙しくなりそうですね」
セラが軽くため息をついたが、アンリエッタは涼しい顔で言い放った。
「そのための予備日よ。明日を無駄にはしないわ」
「――ではそのインタビュー前に、ダリオン様の機嫌を直しておいてくださいね。インタビュアーがかわいそうなことになりますので」
「はい……」






