70 【sideレオナード】栄光への道
アグスティア公爵から届いた封書を、王太子レオナードは執務室で静かに開いた。
中身は招待状と、ポスター。
「公爵家主催のチェス大会……?」
筆跡が、あまりにも似ていた。あの、愛しい彼女に――
己の愚かさで死んでしまった、婚約者――アンリエッタ・アグスティアに。
「アンリエッタが、これを……? いや、違う。君はもうこの世に――」
それに、この招待状に書かれているもう一つの署名は、『ローズ』――バラのように美しいアンリエッタを思い起こさせる名だが、別人だ。
(彼女はもういない。僕の手から零れ落ちた、唯一無二の存在。あの夜、愛するあなたと微笑んだ幻影――僕は、なんて愚かだったんだ……)
最後に現れ、真実を教えてくれた、聡明で優しい彼女。
己のせいで、彼女を永遠に失ってしまった。
(……いや、違う。すべてはエミリアの策略だ。僕を惑わせ、騙し、アンリエッタを失わせた……あの女を、二度と許すまい)
だが、この招待状から漂う香りは、懐かしい彼女のもので――心が、ざわめく。
そして、ポスター。
こちらに描かれている赤いドレスの勝利の女神――あまりにも、アンリエッタに似ている……
だがどこか、悲しそうで。
レオナードはそっとアンリエッタの幻影に手を触れた。
「ならば、行こう。君の幻影が、私を誘うのなら……」
下々に混ざるなど王族のすることではないが、それが公爵の試練だというのなら応えてやろう。
――それに、チェスは得意だ。
あのアンリエッタさえ、チェスでは自分に敵わなかった。
そう、これは、王太子レオナードのために用意された、復権の機会。
臣下が頭を垂れるなら、許してやるのが王の務め。
「チェス大会に参戦すると、アグスティア公爵に伝えよ!」
レオナードが命令すると、側近たちは苦い顔をした。
その中の一名――常日頃から目障りな男が口を開く。
「ですが、罠かもしれません……参加は見合わされた方が……観覧だけに留めてもよろしいのでは」
――保身に傾き、大局の見えない愚か者ども。
「罠だと? これは、公爵直々の招待状だ。正規の客人として招かれている以上、手出しはされない……公爵も、王族に手を出すほど愚かではあるまい」
それにこれは、好機でもある。
確かにアンリエッタの一件以来、アグスティア公爵家との関係は最悪だ。
だが、大貴族と言えど、一族だけで王国に敵うはずがない。
それは向こうもわかっているだろう。
「これは……和解の兆しだ。アグスティア家を取り込む、絶好の機会だ」
あの家と関係を悪化させたままでは、戴冠後の国家運営も危ぶまれる。
ここで自分が招待を受け、公爵領に直接行くことで、向こうから感謝と謝罪がくるだろう。
それを広い心で受け止めてやるのが、王族の務め。王太子の務め。
「――せめて、国王陛下の裁可を得てから――」
「くどい! 私を誰だと思っている! 貴様は首だ!! 二度とその顔を見せるな! ――全員出ていけ!」
室内にいた全員を追い出し、レオナードは大きくため息をついた。
愚か愚か愚か。
どうして自分の周りには、あのような愚かものしかいないのか。
レオナードの隣に立つに相応しかった聡明な人はただ一人。
だが、彼女は――もういない。
レオナードは窓の外――青空を見つめる。
(……君の想いに報いるためにも、僕はアグスティアと手を取り合う。天から微笑んで見ていてくれ……アンリエッタ)
◆◆◆
――大会開催の三日前、レオナードはアグスティア領に訪れた。
用意された迎賓館は格式があり、王家の使節を迎えるには申し分ない。
玄関ホールに一歩足を踏み入れた瞬間、視界に華やかな色彩が飛び込んできた。
――懐かしい、紅い髪が。
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」
朗らかな声とともに、ドレスを纏った女性が優雅に一礼した。整った顔立ちと、淑やかな立ち居振る舞い。
そして、どこか覚えのある気配――
「チェス大会にご参加くださり、ありがとうございます。わたくし、この大会の実行責任者を務めております、ローズと申します。ご滞在中、ご不便がございましたら何なりとお申し付けくださいませ」
その声音は心地よく、練り上げられた作法と礼節を伴っていた。
(……なんということだ)
レオナードは言葉を失い、まじまじと彼女の顔を見つめた。
(まるでアンリエッタの幻影が、血肉を持って現れたようだ……)
眼鏡の下の、凛とした瞳、透き通るような肌、軽やかに揺れる髪。そのひとつひとつが記憶の奥底に焼き付いている姿と重なる。
「美しい……」
思わず口をついて出たその言葉に、ローズは小さく目を見開いた。
そして、照れたようにそっと顔をそむけた。
(恥ずかしがっているのか……可愛らしい)
だが、それは単なる容姿の酷似ではなかった。
(美しいだけじゃない。優しげで、穏やかで……アンリエッタとは違う。そう、ローズ嬢はもっと、従順そうだ)
思考が、ゆっくりと形を成していく。
ただの偶然で彼女が目の前にいるとは、とても信じられない。
――そう、これは運命ではないか?
「……あなたも、アグスティア家の人間なのか?」
「はい、遠縁となりますが。いまは、公爵閣下の下で大会の運営を任されております」
確信が、胸の奥に湧き上がる。
(……やはりこれは運命だ。やり直しのチャンスだ)
あの日、失ったはずの未来。決して振り向くことのなかった高慢な女に代わり、今度は自分に微笑みを向ける女性が目の前に現れた。
しかも、アンリエッタよりもずっと扱いやすそうだ。
(――公爵。私はその意図をしかと汲み取った)
アンリエッタに似た若い女をあてがってくるとは、向こうもそういうつもりだろう。
これを機に、アンリエッタのことを忘れ、共に王国の未来を築いていこうという、アグスティア公爵からのメッセージを、レオナードはしかと受け取った。
◆◆◆
――その夜の歓迎会は、アグスティア城の謁見の間で行われた。
参加者は特別招待を受けた貴族たち。
――もちろん、ローズもいた。控えめなドレスで、隅の方で。一人の騎士と共に。
その奥ゆかしさがまた良い。アンリエッタはいつも自分こそが女王といった態度で君臨していた。
深紅の絨毯の中央を堂々と歩き進んだレオナードは、一直線にアグスティア公爵の元へ向かう。
「――アグスティア公爵。この場を借りて、提案したいことがある」
周囲に緊張が走る中、レオナードは更に一歩踏み出し、ローズに手を向けた。
「――ローズ嬢を、私の妃として迎え入れたい!」
――沈黙。そしてどよめき。
ローズの傍にいた黒衣の騎士が音もなく片膝を引き、指先が腰に下げた剣の柄にわずかに触れる――
(……なんだあの騎士。空気を読め。いまは大事な交渉の場だぞ)
普段なら即刻捕らえるところだが、ここはアグスティア。器の大きさを見せるためにも、余計な波風は立てたくない。
だから、見逃してやった。
(……哀れな男だ。おそらくローズ嬢に恋慕しているのだろうが、所詮は騎士風情。何もできまい)
そしてプロポーズされたローズは、驚いたように目を丸くし――そして、そっと顔を伏せた。
喜びに震えているのだろう。王太子にプロポーズされて嬉しくない女はいない。
そして、公爵も愛人として用意した親類の娘が王太子妃として迎えられるとなれば望外の喜びのはず。すぐさま養女に迎え入れ、体裁を整えるだろう。
――やけに無表情なのが気になるが。
(やはりアグスティア公爵はただ者ではない……僕の突然の申し出にも動じぬとは……まさか、読んでいたか?)
そんな中、当のローズは柔らかに微笑み、ふわりとスカートを揺らしながら一礼する。
「光栄でございます。王太子殿下」
完璧な所作に、完璧な声。
「しかし……わたくしの一存で決められることではありませんので……お返事は、大会のあとにでもよろしいでしょうか?」
――ローズは大会の実行責任者。王太子からのプロポーズより自分の仕事を優先させる姿は気に入らないが、恥ずかしがっているのだろう。
「――では、私が優勝したらあなたから祝福をいただきたい」
祝福――頬への接吻。
それをもってプロポーズの返事とさせてもらう。
「……ええ、もちろんです。ご活躍、お祈りしておりますわ」
――レオナードは笑った。
舞台は完璧に整った。
あとは下々の者を蹴散らすだけ。
未来も栄光も女もすべて自分のものだ。
――この機会を用意してくれたアグスティア公爵に、レオナードは礼として笑みを向けた。






