67 ダリオンの様子がおかしい
執務室で父から了承を得たアンリエッタは、胸を張って廊下に出た。
そこには、まるで待っていたかのように、ダリオンが静かに佇んでいた。
「ダリオン、チェス大会を開催することが決まったわよ」
朗報を伝えると、彼はほんの少しだけ眉を上げる。
「まさか本当にやるとはな……」
部屋に向けて歩き出すアンリエッタ
後ろをついてくるダリオン
「あなたは優勝セレモニーのエキシビジョンで戦ってもらうとして……わたくしも祝福の女神として表彰式にサプライズで登場することになったわ」
ダリオンの歩みが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……祝福の女神?」
「ええ。優勝者の頬にキスをしてあげるの。死んだはずの公爵令嬢が、華麗に舞い戻るのよ」
ダリオンは数秒間、言葉を失っていた。
その青い瞳に、音もなく波紋が広がる。
「……誰が?」
「わたくしが」
「……誰に?」
「優勝した人に」
――空気が、変わる。
ダリオンの纏う気配が、わずかに、しかし確実に鋭くなった。
「君が……他の誰かに唇を寄せるのを、おめおめと眺めていろと?」
「頬よ!? ほっぺた! 伝統的な祝福の形式!」
「……そうか」
アンリエッタの部屋にたどり着く頃には、ダリオンはすっかり無言になっていた。
そして、室内に入る。テーブルには、目隠しチェスをした時のままの盤面が残っていた。
「……そのチェス大会、参加する。一個人として」
「えっ……?」
思わず振り返る。
聞き間違いかと疑ったが、ダリオンの表情は真剣そのものだった。
「勝てば、祝福は私が受けることになる。そうだろう?」
「そ、それはそうだけど……」
相手が辞退しない限り、祝福は行われる。誰が優勝しても――たとえそれがダリオンであっても。
――だが。
「あなたが一般参加したら、わんわん騎士とのエキシビジョンスペシャルマッチはどうなるの?!」
「……わんわん騎士……?」
「い、いえ。なんでもないわ」
なんとなく不穏な気配を感じて口をつぐむ。
「……もしかして、それは私のことか……?」
「ち、違うわ。いまのところは違うわ! 公式マスコットの中の人――とかじゃないわ!」
アンリエッタのめちゃくちゃな言い訳が部屋に響く。
ダリオンは一度深く息を吐き。
「……優勝者とのエキシビジョンなら、君がすればいい」
「わたくし?」
つまり、勝利の女神として祝福を授けた後に、優勝者とスペシャルマッチーー確かに企画としては悪くはない。
「復活した君が、私と対局する。その方が盛り上がるだろう」
「……あなた、本気で優勝する気?」
「当然だ」
「……あなた、目立つの嫌がっていたじゃない。今大会は王国全土から見られるのよ?」
だから、ダリオンには顔を隠して協力してもらうつもりだったのに。
「……フルフェイス兜、する?」
「しない」
「着ぐるみも……」
「しない」
はっきりと断言してくる。
青い瞳がまっすぐにアンリエッタを映した。
「……君が表舞台に出るのなら、私もその隣に立つ。顔が映ろうと、名が広まろうと構わない。君と共に生きるものとして、それぐらいの覚悟はとっくにできている」
「ダリオン……」
「そして、君の唇は誰にも渡さない」
「ちょっ――」
――ちょっと待って。いま、さらりと何を言ったこの騎士は。
「ダリオン、落ち着いて――」
「もう決めたことだ」
言って、自分の部屋に入っていく。
アンリエッタは茫然とその背中を見送るしかなかった。
「……どうして、急にあんなにやる気になってるの……?」
◆◆◆
――チェス大会開催が決定し、アンリエッタはすぐさま実行責任者として動き始めた。
公爵令嬢アンリエッタはまだ死んだことになっているので、当然、別人――ローズとして活動することになる。
正体をお披露目するのは、チェス大会の最も盛り上がっている瞬間――優勝者決定直後の、表彰式。それまで仕掛けが露呈することがあってはいけない。
アンリエッタがまず行ったのは、正体を完全に隠すことだった。
そして――
「できたわ――認識阻害メガネ!」
自室で、ウィングストーカーの翅素材を素材にした、超軽量メガネを錬成する。
フレームも細く、レンズも薄い伊達メガネ。アンリエッタの顔立ちに合うように、バランスも調整している。
「かけている間、わたくしの顔を印象に残せないようにする錬金物よ。おしゃれと機能性の両立、完璧ね」
アンリエッタは認識阻害メガネをかけたまま、呼び鈴を鳴らしてメイドのセラを部屋に呼ぶ。
「――いかがなさいましたか、お嬢……様?」
セラは不思議そうな顔でアンリエッタを見つめる。
まるで、そこにいるのがどう考えてもアンリエッタなのに、アンリエッタと断定できない――そんな戸惑い方だった。
検証成功。メガネを外す。
「わたくしよ」
にこっと笑うと、セラは詰まっていた息を吐いた。
「こ、これがお嬢様の錬金術……なのですね」
「ね? これだと変装も完璧でしょう? さて、そろそろダリオンが騎士団訓練から戻ってくる頃合いね」
アンリエッタは再びメガネをかけて、ダリオンが部屋に戻るのを待つ。
まるでタイミングを計ったかのように扉がノックされた。
「――アンリエッタ、入るぞ」
「ええ、どうぞ」
返事をすると扉が開き、ダリオンは一瞬だけ動きを止め――
「……また、妙なものを作ったな……だが、よくできている」
それだけ言って、奥の部屋に向かう。
「ちょっと待ちなさい! どうして一瞬でわかったのよ!」
メガネをかけたまま詰め寄ると、ダリオンはアンリエッタをじっと見て。
「言っただろう。君は雰囲気からしてもう目立つ」
「そ、そんな……」
長年一緒にいたセラすら騙せたのに?
「それに、私が君を見失うはずがない」
ダリオンはそう言って、部屋に入っていった。
アンリエッタはセラと共にドアが閉まるのをただ見つめる。
「……愛、ですね」
セラがぽつりと言う。
「か、勘が鋭いだけよ……!」






