別離【弐】《ベツリ【ニ】》
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約束した玳絃は、それから毎日紳の邸に通った。
昼間は互いに務めがあるから終わってからになるが、できるだけ早く済ませて邸に行く。紳と悧羅にそのことを伝えると、必ず宮に戻ってから行くように、と言われた。そのまま行きたかったのに何故だろうと不思議に思っていたが、戻ると磐里と加嬬に2人分の食餌を持たされたので合点が行った。
姚妃の戻りは相変わらず遅く、玳絃が待つことが多かったけれど、待てることが嬉しい。身体が戻り切れていない姚妃のことが心配で、送り迎えもさせてくれと願ったが、それは丁寧に辞された。食餌も出来るだけ食べて欲しくて世話を妬くと苦笑されてしまう。
やれやれ、と小さく笑いながら、それでも差しだした物を食べてくれる姿に涙が出そうだった。食餌をしながらその日あったことを話し、茶を飲みながら思い出話をする。話す時には姚妃を膝に乗せたいと願ってみたが、隣に座るから、と笑って首を振られる。膝に乗せるのは諦めたが、目に見えて肩を落としたのが分かったのか、衣が触れる処に居てくれた。
姚妃が悧羅の腹に来てくれた時に始まり、生まれてくれた時のこと、幼い頃のこと。思い出を懐しんでいると刻など、どれだけあっても足りはしない。けれど子の刻前には必ず宮に戻されてしまう。刻が惜しくて、出来るだけ姚妃の側に居たくて紳の邸に玳絃も留まる、と言ってみたが拒まれてしまった。
「兄様、妹だよ?」
玳絃が何かを望む毎に宥めるように口にされるそれは、姚妃が貼った壁に思えた。
きっとその壁までが玳絃が長く望んできた『どこにでもいる兄妹の姿』なのだろう。何処までが自分に許されることなのか悩んでしまっていると、瞬く間に2月が過ぎる。
「そろそろ精気も獲りに行ってきてね」
そう言われはしたが精気を獲りに行けば、どんなに急いでも一刻はかかるし、獲れるとも限らない。獲れ、と言うのが姚妃の願いなら叶えなければならないが、今の玳絃の身体を充足すには2.3人から分けて貰う必要がある。都合よくヒトの子を見付けられればいいが、それは難しいだろう。さしずめ里の誰かと交換しておけば速いが、どうにもそんな気分になれない。悩みながら務めていると紳に昼餉に誘われた。
連れて行かれたいつもの店に先に座っていた忋抖を見つけて、同じ席に座る紳に長兄が苦笑している。
「何でおんなじ処に座るんだよ。まだ空いてるでしょ?」
「忋抖がいるなら一緒で良いじゃないか」
さっさと玳絃の分まで頼んで忋抖の頭を紳は撫でる。食べにくい、とますます苦笑する忋抖に紳は笑ったままだ。
「嫌だよ、父様は目立つんだから。一緒って奢らないよ?あ、玳絃は兄様が出してやるから、たくさん食べろ」
「罪作りな奴が何言ってんだか。なあ、玳絃」
目の前で繰り広げられる他愛もない光景に、玳絃も笑えてきてしまう。そういえばもう笑うことさえ忘れていたような気がする。
「で?浮かない顔だなあ、どうした、どうした?」
出された食餌を摂りながら尋ねられて、玳絃が嘆息しながら話すと、なるほどねえ、と紳と忋抖は苦笑している。
「『お願い』だって言われてるんだから叶えなきゃって思うんだけど、今はそんなことどうでもいいし。…枯渇してる訳でもないから」
箸を取ったは良いものの食べる気になれずに置くと、忋抖が自分の甘味を口に突っ込んでくる。仕方なく飲み込むと今度は食餌を突っ込まれた。
「兄様、食べたくないんだってば」
次々に入れられて思わず身を退いてしまうと、駄目、と叱られてしまう。
「とりあえず食べないと駄目。考えるってのも体力使うんだよ」
ほら、と出されて玳絃は大きく肩を落とした。奪われた箸を取り上げなければ、忋抖は食べさせ続けるだろう。空いているとはいえ他にも客は居るし、外から見ている民も多い。忋抖は紳が目立つ、と言うが玳絃から見れば忋抖とて変わらない。周りから見れば兄が弟にちょっかいを出しているようにしか見えないようで、皆から微笑ましく見られているのは擽ったいものがある。
「兄様、これ何気に恥ずかしいんだけど」
「可愛いがられとけば良いんだって。はい、次」
悪戯に笑って自分も甘味を口にしながら世話を焼いてくれる忋抖に根負けして、玳絃が口を開けると満足そうに笑いながら手伝い続けている。
「ええ、じゃあ俺もやりたい」
「はいはい、父様は俺と玳絃の分の甘味頼んでて」
「何だよ、酷いなあ。俺だって玳絃を甘やかしたいのに」
「俺で間に合ってます。なあ、玳絃?」
くすくすと笑い合う紳と忋抖の方が兄弟に見えてくる。普段から間に挟まれている悧羅はさぞや苦労していることだろう。とはいえ大事にされているのは嫌になるほど伝わってきて、胸の奥がほんのり温かくなってしまう。
「とりあえずは玳絃が獲りに行きたくないって処をどうにかしないとだなあ」
店主に頼んでいた甘味が届けられると、今度は紳が玳絃の口に運び出した。
「獲る気持ちになれないってのは分かるけどさ」
「どっかの誰かさんも2年近く獲ってないの気付かなかったらしいもんねえ」
新しい甘味を頼みながら忋抖に見られた紳が苦笑して見せた。
「…父様はさ、何で獲ろうって思えたの?」
「生きてなきゃいけなかったからね」
甘味を食べ終えさせられて、茶を持たされた玳絃が尋ねてしまうと、あっさりと紳は答えた。きょとりと首を傾げてしまう玳絃の前で、紳は忋抖の甘味をひとつ取り上げて口に放り込んでいる。
「俺は詫びてなかったからね。盾になりたくても近くに居なきゃ出来ない。強くならなきゃ声も聞けない。そのためには生きてなきゃいけないし、生きるために必要だった、それだけだよ」
本当にただそれだけだった。
悧羅を傷付けて、共に過ごしていた頃など見る陰もないほどに痩せさせて、手も届かない処に追いやってしまった。
せめて詫びるまでは生きていなければならなかったし、詫びるためには近くに居る強さが必要だった。
そのために精気を獲らなければならなかっただけだ。
誰でもいいから情を交わせば幾許かは賄えたとは思うが、どうしても悧羅以外に欲が湧かなかった。求めてきた女に擦り寄られても、欲が湧くどころか嫌悪と不快な思いを抱くだけで、むしろ気持ちが悪かった。とはいえ、情を結べなくなってもさして困りはしなかったし、本当に欲しい者に触れられないなら何の意味もない。
当時の近衛の隊長を下した後の悧羅との邂逅は、詫びるよりも先に紳に男としての欲を思い出させた。
悧羅しか欲しくない。
悧羅にしか触れたくない。
悧羅にしか触れられたくない。
手を離してから女など『欲しい』と思った事もなかったのに、一瞬で滾らされた時に痛感したのを覚えている。
声を聞け、姿も見れる位置に立てるようになって、より一層と募っていく紳の愚かで醜い感情をぶつけずに済んだのは、ヒトの子からだけでも精気を獲ることを善としていたからだ。
生きて詫びるために。
生きて盾になるために。
この先ずっと、触れさせて貰えることなど無かったとしても。
生きていなければならなかった。
紳の場合はそれだけだったが、今の玳絃は姚妃への呵責が大きすぎて、精気を獲ることや情を交わすことまで考え切れない、といったところか。
「生きる、かあ」
ぼそりと玳絃が呟くと、小さく笑いながら紳も茶を啜る。
「生きてなきゃ声も聞けないぞ?護ってやることだって出来なくなる。焦んなくても良いさ。玳絃が生きるために必要なことなら、そのうち嫌でも出来るようになるから」
「そういうもの?」
「俺が言うんだから間違いないだろ」
頭を撫でてくれながら言う紳に、ほっと玳絃が安堵する前で忋抖がいつの間に頼んでいたのか、また新しい甘味を受け取って食べ始めている。
「父様もこう言ってるんだし、すぐすぐ枯渇するんじゃなければ、別に玳絃の気持ちが向いてからで良いんじゃないの?」
横からまた奪っていく紳にもう、と言いながら忋抖が玳絃に手を出すように指で卓を叩く。示された処に手を置くと手の首を掴まれた。
「うん、少しは戻ってきてるかな」
肉付きを検められながら掴まれた手から、緩やかに温かな忋抖の精気が流れ込んできた。
「兄様、いらないってば」
掴まれた手を退こうとすると、より強く掴まれて身体ごと忋抖の方に傾いてしまう。
「獲りに行きたくないんだろ?だったら受け入れとけ」
当たり前のように分けてくれる気持ちは有難いが、忋抖は悧羅にも分けているし、樂采に何かあった時のためにも残しておかなければならないはずだ。そう言うと今度は紳が分けると言い出してしまう。
「本当に大丈夫だから」
何度も伝えるが手を離してくれない忋抖を拒もうとすると、悪戯に笑われる。
「俺は枯渇したりしないし、父様は悧羅に取っておいて。拒んだりしたら口移しでやるからね、此処で」
微笑んでとんでもないことを言う忋抖に千切れんばかりに首を振ってしまうと、紳が声を上げて笑い出した。
「貰えるなら貰ってればいい。姚妃には忋抖が脅したって伝えとけば、とりあえず安心するだろ。嘘じゃないしな」
本気でやり出しそうな忋抖と面白そうな紳に一瞥を投げてみたが効きはせず、有難く受け入れることにしたことを姚妃に話すと、こちらもまた苦笑していた。
同じような日々が続いても姚妃の貼った壁は崩れる様子もない。話すことは山程あるがどうしてもあの日のことや、それに連なることを玳絃は口に出来ずにいた。姚妃が荊軻から書物を借りてくると、ゆっくりと読めるように縁側に座って書物を捲る姿を見て過ごす。言葉を交わさなくても、姚妃が見える処に居るだけで安心できた。目を閉じても紙を捲る音は、姚妃がそこに居ると教えてくれていた。
それでもこれで良いのかと、もやもやとしてしまう。
「良いんだよ」
悩み始めると見透かしたように、決まったように姚妃はそう繰り返してくれた。
姚妃の出発する日が、あと2月後に迫ると、ふいに宮に戻ると言いだした。出発の日までこうして過ごしていくのだとばかり思っていた玳絃は、何故ときょとりとしてしまった。
「え、何で?」
聞き返してしまった玳絃に、姚妃もまたきょとりとしている。
「なんでって。他の皆とも過ごしとかないと、このまま会わずに行ったら怒られちゃうでしょ?いつ帰ってくるか分からないんだから、皆と過ごしておかないと淋しいし」
「それはそうだけど」
当たり前のように言われては何も言い返せない。姚妃が見えない処に行くことを悲しむのは玳絃だけではないのだから、皆との刻も必要だろう。
それでも、『いつ戻るか分からない』、という言葉に玳絃の胸が痛む。
「身体つきも大分戻ったし、これなら磐里と加嬬にもあんまり叱られないと思うしね」
ふふっと笑う姚妃の見た目は確かに随分と良くなったとは思う。それでも元の姿からは一回りは小さいし、まだ顔色も良い方ではない。化粧で誤魔化しているが、目の下には隈があるし、疲れやすいのか大きな息を吐くこともしばしばだ。姚妃は気取られないようにしているつもりだろうが、両手をきゅっと握り締めることも多いし、近くに居れば姉兄たちも無理をしていることくらい、すぐに気付くだろう。しかも磐里と加嬬であれば姚妃が隠そうとしても気付くし、気付かれれば叱られないということは、まずありえない。
「持っていきたい書物も選ばないといけないし、母様にも色々聞きたいし。忙しくなりそう」
心配してしまうが指折り数えて見せる姚妃は、余程楽しみなのか小さく笑い続けている。幼い頃に土産を開ける前や、出掛ける約束をしていた時に見せていた表情だ。
「姚妃、楽しみなの?」
「うん、とっても。何が見れるかとか何が知れるかとか、考えるだけで楽しい」
「そっか」
その楽しみにしている場処に玳絃は共に居ることは出来ないのに。無邪気な顔に玳絃の胸がまた少し痛んだが、表情に出さないように微笑むしかない。
これがもともと玳絃が望んでいたあるべき姿だから。
そう自分に言い聞かせて、宮に戻った姚妃を見守って過ごす。ただ姚妃の部屋をどうするのかと密かに案じていたのだが、悧羅によって何の跡形もなく戻されていた。それでも、あの部屋では、と思ったのだが姚妃がそのままで、と言ったらしい。
「姚妃は一度言うてしまわば変えぬでの」
そう言って悧羅は微笑んでいたが、姚妃があの部屋でどう過ごしているのかが玳絃は心配で堪らない。
また何かあったら、とも案じてしまうが未だにあの日を思い出してしまって、玳絃はあの日以来あの部屋には近付けていない。何かあった時に踏み込めるかと聞かれれば、行くとは言えるがきっと脚は竦むだろう。
不安に思ってはいても案じているようなことは起こらず、驚くほど穏やかに日々が過ぎていく。
変わったことと言えば紳の邸に出向かなくなったことくらいで、邸に居た時よりも姚妃の戻りは早くなり、眠るまでは皆で以前のように紳と悧羅を囲んで過ごす。ただ、他の姉兄たちが姚妃を取り合ってしまうから、玳絃のすぐ隣に座ってくれることは少なくなった。
宮に戻っただけなのに、玳絃ができなくなったことは増えていくばかりだ。
食餌を口に運んでやることも、湯上がりに髪を乾かしてやることもない。姚妃はきちんと自分で乾かしていたし、偶に水気が残っていると灶絃がやってくれる。手を繋いでやることなど勿論無くなって、このまま何が出来るわけでもなく出発まで過ごすのか、と思えば何処となく苦しくもあった。けれど、何がそう思わせるのかは心当たりが多すぎてひとつに絞れない。
何がしたいのかも分からず鬱屈としていると、それはまた唐突に始まった。
「姚妃ちゃん、今日はぼくと寝てね」
朝餉の場で言い出した樂采に姚妃が是を示すと、場が賑やかになる。誰もが姚妃が出発するまで共寝をしたいと言い出し、明日は自分だと取り合いの口論が始まって朝餉どころではなくなってしまう。
「もう、順番だよ。ぼくから始まったら次は媟雅ちゃん。それで良いよね、姚妃ちゃん?」
樂采の一声で始まった共寝に姉兄たちは歓喜していたが、素直に喜べない玳絃は苦笑するしかない。とりあえず自分は本当の最後で良いとだけ伝えて、瑞雨たちに順を譲っておいた。
「いいの?」
「俺は3年ずっと一緒だったからね、お前らに譲る」
「やった!」
皆が訝しまないように言葉を選んで伝えると、顔を輝かせて喜ぶ瑞雨と憂玘、湖都が羨ましくもあった。
流れに乗れば姚妃と共寝は出来るし、そうしたいとも思う。
だが、同時にそうしてはならないと自分に言い聞かせた。
姚妃はそれを望んでいないのだから。
共寝が始まると皆、姚妃を独り占めしたいのか、さっさと部屋に戻るようになった。必然的に玳絃が姚妃と居れる刻も少なくなってしまうが、誰かと一緒なら、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
側に居るのが玳絃でなくとも、姚妃が護られていれば良い。
そう思えはするのに姿が見えないと落ち着かない。
手持ち無沙汰でいるのも何なので、姚妃が見えなくなれば妲己と鍛錬に出て遅くに戻る。また眠りが少なくなる、と妲己に叱られたが鍛錬に打ち込んでいれば何も考えずに済むし、短くとも泥のように眠れたので、むしろすっきりとするくらいだ。
ひたすらに打ち込んだ後に湯を使って妲己と眠る。
繰り返し、繰り返し。
心で燻るナニカが何であるかも分からずにいても日々は巡っていく。
本当の最後の日が近付いてくると、また逃げるように鍛錬を増やしてしまう。何度諌められても止められない玳絃に剛を煮やした妲己に咥えられて湯に放り込まれたのは、出発が7日後に迫った日だった。
「もう!何すんだよ、妲己!」
衣も何もかもそのままで湯に落とされた玳絃が立ち上がりながら言うと、体躯を大きくしたままの妲己が低く唸った。
“我の言をお聞きになられぬなど。大概になさいませと申し上げておりましょう”
低く唸り続けている妲己は、声を荒げることはしないが体躯を戻すこともしない。静かにそれでも酷く怒っているのが見えて、思わず玳絃はその場に座ってしまった。
これはまずい。
玳絃は妲己に叱られたことはあっても、怒られたことはない。生まれた時から当たり前のように側に居て護ってくれている妲己は、いつも多少の事なら目を瞑ってくれる。紳や悧羅に内緒で宮を抜け出したことや、磐里と加嬬に悪戯を仕掛ける時だって、いつもその大きな体躯で庇ってくれた。哀玥のことを、子どもたちに甘い、と言って良く笑っているが1番甘いのは、誰が何と言おうと妲己だろう。
「妲己には敵わない」
紳と悧羅にそう言わしめるほどに、妲己はいつも玳絃たちの1番の理解者で味方でいてくれた。
“若君方がお健かであられれば、なにより”
尾を掴もうが、飛び付こうが、毛を抜かれようが笑って受け止めてくれていた妲己が本気で怒っているところなど初めて見た。
「妲己、…怒ってる?」
静かすぎる怒りを浴びせられて、身を竦めてしまった玳絃が湯殿の縁からそっと覗くが低く続く唸りは止んでくれない。
“憤らぬなどと思うておいでか?”
低い声と共に毛も逆立てているのが見えるが、玳絃を見る目は今にも泣き出しそうな色を孕んでいる。
“御身体をお壊しになるおつもりか?御心をお壊しになるおつもりか?”
「…そんなつもりはないよ」
哀しそうな黄金色の眼から目を晒してしまうと唸りが大きくなる。
“真にそのようなおつもりでないと仰せならば、我の目を見て申せましょう”
「……っ……」
身体も心も壊すつもりなど無かった、と言っても妲己が信じられないのも分かる。宮に連れ戻された刻から、妲己はずっと玳絃の側に居てくれているのだから、今、玳絃がどのような塩梅であるのかなど言わずとも1番良く知っているだろう。確かにあの日から無茶をしているのは自覚してもいたけれど、何かしていないと立てなくなりそうだった。
ただ、心の何処かで壊れてしまえれば楽なのに、と渦巻いていたのは否めない。
言葉に詰まって俯いてしまった玳絃に唸りの代わりに大きな嘆息が降ってきた。
“玳絃若君は我を泣かせとうあられますのか?”
下を向いたままで首を振ると、頭にふわりと尾が乗せられたが、妲己の尾は大きすぎて湯に浸かってしまっている。暑さに弱い妲己は、水よりも湯の方を嫌うのに構うことなく尾を幾本も頭に乗せて優しく包んで隠してくれる。その仕草だけでどれだけ心配させてしまっていたのかが知れるというものだ。
「…ごめんなさい…」
呟くように出した声に、置かれた尾がゆっくりと撫でるように動いた。
“少しばかりごゆるりとなさいませ、と申し上げておりましょうに。我がお側におります故、ご案じなさいますな”
「…濡れるよ?妲己、湯は嫌いだろ…」
頭の上で動く尾に隠れたままで言うと、呆れたように残っていた尾を湯に入れて動かして見せてくれる。
“お気になさらずともよろしゅうございますが、若君が洗うて乾かしてくださいますなら、より堪えられましょうな”
くっくっといつもの笑い声が聞こえて、玳絃も大きく息を吐いた。怒りが解けたわけではなく説教は免れないだろうが、妲己に詫びるためには体躯を洗うくらいでは足りないのは分かる。
「喜んで洗わせていただきます」
“ほほう。ならば大きさはこのままでよろしゅうございましょうや”
「それは元に戻してよ」
尾が取り払われて湯から上がった玳絃が衣を脱ぐと、妲己も体躯を戻してくれた。湯は嫌いだとあれほど言っていたのに、玳絃を心配して一緒に使ってくれる。妲己の優しさは嬉しいけれど、同時に申し訳がないとも思う。
「…ごめんね、妲己」
体躯を洗ってやりながら詫びると、まったく、と鼻を鳴らしている。
“己ばかり責められて、己が心を見ようともなさらぬのは紳譲りでございましょうや。紳も申しておったでしょう。若君は間違うてなどおられませぬ”
「…そう思えたら良いんだけど。何が正しくて、何が間違いで、どう動くのが1番姚妃のためになるのかが分からなくなってて」
妲己を洗い流しながら嘆息すると、さっさと身を清めろと言われてしまう。言われるままに清める間に妲己は自分で手拭いを持ってきて器用に尾で水気を取り始めている。清め終わると今度は湯に突き落とされた。
「もう!」
湯の中から顔を出した玳絃の頭は、肩まで浸かれと前脚で押されてしまう。諦めて言うとおりにすると、100数えるように、と幼子に伝えるように言われてしまった。
“我が申せますのは姚妃姫君の、ではなく若君も、ではなかろうかと思うておりまするが。若君の御心を悩ませておるものは何処から始まっておるのでございましょうな”
「それが分かれば良いんだけどね。もう刻ないのに。妲己、100数えたよ」
“あと200”
「…増えた…。湯当たりする…」
うー、と唸りながら数えて妲己の周りに鬼火で風を作ってやると自分で良いように乾かしているが、毛は乱れてしまう。自分の寝支度を整えた玳絃が毛を整えようとすると、さっさと湯殿から出るように身体を押された。
押し出されるように湯殿から出て妲己と共に自室に向かって、ふと玳絃は、あれ?、と足を止めてしまった。部屋の前の縁側に寝間着姿の悧羅が座っているのが見えたからだ。
「母様?」
呆気に取られている玳絃を余所に、妲己は足早に悧羅に近寄って擦り寄り始めている。
「おやまあ妲己、何やら良い芳がするの」
“若君に洗うていただきました”
「それはよろしゅうあった」
微笑みながら妲己を撫でて毛並を整えてやっている悧羅に玳絃が寄ると礼を言われた。
「それは良いんだけど。なんで母様がこんなところにいるの?」
きょとりとしてして問うてしまうと、悧羅にふわりと笑われた。こんな夜更けに上衣も羽織らず、ひとりで悧羅が居ることなどないのだから、不思議に思って尋ねるのは当たり前だと思うのだが。
「玳絃に共に寝てくれぬか、と頼みにきたところであった」
「は?」
きょとりと首を傾げてしまうと悧羅は困ったように微笑みを深くしている。
「紳は今宵、姚妃と共に休むと言うてのう。寝所を追い出されてしもうて行く処がのうなってしもうた」
「はい?」
ますます首を傾げる玳絃に、悧羅もますます苦笑しながら立ち上がって玳絃の部屋の戸を開けた。
「忋の兄様は?」
「忋抖には樂采がおろう?あれも子との一時を大事にしやるでな。時にはひとり寝もよろしいかと思うたが、どうにも寒うて。哀玥も睚眦にも樂采と共に居りたいようじゃ。妲己とて玳絃から離れとうないと拒まれてしもうた」
「ええ?」
くすくすと笑う悧羅の身体にぴったりと侍っている妲己を見ると、ふんっと鼻を鳴らしている。
「どうしても妲己と休みとうあるならこちらに参れとまで叱られてしもうた。であれば来ぬわけにはいかぬであろ」
「だっきい、何てこと言ってんだよ」
頭を抱える玳絃の頬に悧羅の手が触れたが、その手はひやりと冷えていた。月の傾きから見るにとうに丑の刻は廻っているはずだ。玳絃が外に出たのは戌を過ぎた辺りだったと思う。悧羅の言うことが本当であれば一体、どれくらい待っていてくれたのだろう。悧羅と共寝が出来るなど子どもたちなら誰だって取り合うのだし、逑に遠慮したのだとしても、ひとり身の者は玳絃だけではない。
共寝の相手など、玳絃でなくとも良いのに。
部屋に入って待たれていても悧羅であれば喜びこそすれ、疎ましくは思わない。それなのに縁側で待ち続けてくれるなど、どれだけ心配させてしまっていたのだろう。
「とりあえず入ろう。母様の手、冷たいよ」
嘆息しながら悧羅の手を取って部屋に入ると、妲己はさっさと寝所に入って体躯を伸ばしてしまう。
「その代わり、何かあっても知らないからね?」
布団に招き入れながら言うと、悧羅は可笑しそうにくすくすと小さく笑いながら腕を広げている。
「紳と忋抖に叱られとうあるならば、それもよろしゅうあるが。はてさて母である妾が玳絃を滾らせられるかは分からぬのう」
「…母様は別者なんだよ。でもあの2人に叱られるのは勘弁。どんな目に合わされるか分かんないじゃん」
おやおや、と笑う姿に肩を竦めて見せるが、悧羅はぽんぽんと自分の胸を叩いて玳絃を待っている。諦めて腕に収まると、妲己が布団を整えてくれた。
「おお、温い温い。ようやっと妾も休めるの」
くすくすと笑う悧羅は楽しそうだが、ぎゅうっと抱き締められた玳絃の顔は悧羅の胸に埋められてしまう。
痩身過ぎるくらいの悧羅ではあるが、だからといって身体が魅惑的でないことはない。悧羅という女がそうなのか、もしくは妖の中でも美しいとされる鬼の長だからであるのか知りはしないが、男を堕とすには十分なのだということを、この母は知らないのだろうか。
玳絃の片手だけで容易く腕に収めてしまえるほどに、細い身体。
少し力を入れれば折れてしまいそうなほどの腰。
長いしなやかな手足に豊かな胸。
とどめに甘く芳る悧羅の匂いまであっては、男としては堪ったものではない。
これまでも共寝はしていたが昼であったし、互いに衣を纏っていたから気にもしていなかった。
薄い寝間着1枚では、肌が直に触れ合っているのとあまり変わらない。
いくら母とはいえ共寝の相手が悪すぎだ。
そんな気にもなれない筈だったのに、玳絃の奥からじんわりと熱が滾ってきてしまう。
悧羅の芳に包まれるのが1番安堵するのは確かだが、このままでは理性も血の繋がりも、全て見ないものにして組み敷いてしまいそうだ。
「母様、すっごく嬉しいんだけどこれはちょっと障がありすぎるから、俺がぎゅってしていい?」
抱きついても良いものか迷った玳絃の手は行き場を失くして悧羅の背後に投げ出されたままだ。
「おや?妾は玳絃を甘やかしとうあるというに。何ぞ障があるのかえ?」
悪戯に微笑んだ悧羅が脚で玳絃の身体を擽ってくる。どう考えても面白がっているのは分かるが、覚悟も無いのに流されでもしたら紳と忋抖に殺されてしまう。
「逆でも、しっかり甘えられるって」
よいしょと悧羅の腕から出て、代わりに玳絃が悧羅を包むと胸に擦り寄ってこられた。くすくすと笑い続けながら、脚を絡ませてくる姿はどう見ても揶揄っているようにしか見えない。そうでなければ誘われているとも思えてしまう。
「揶揄ってるでしょ、母様。そんなことばっかりして遊んでたら、本当に襲われるよ?」
これ以上揶揄われないように抱きしめる腕に力を込めてみたが、悧羅は愉しそうに玳絃に絡ませた脚を擦り合わせている。
「大きゅうなった倅と共に眠るるなど喜ばしゅうて。妾を手籠にしようなど思う男など、もう居らぬでの」
「うわあ、…母様って自分の価値を本当に分かってないよね…。父様と忋の兄様に同情しちゃうかも」
もう、と嘆息して玳絃は目を閉じる。さっさと寝てしまわなければ、どんなに律しても自分の意志とは関わりなく、悧羅を組み敷いてしまいそうだ。
「妲己、俺が母様に手を出そうとしたらしっかりと止めてよね」
妲己に頼んでみたものの、此方からも面白がって笑う声がした。
とにかく、寝よう。
寝てしまえばどうにかなる。
そう思って目を閉じているのに、するりと頬を撫で上げられて胸に擦り寄ってこられては目を開けざるを得なくなる。
「母様、揶揄うのやめてってば。本当に知らないよ?俺だって男なんだからね」
はあ、と大きく息を吐いて悧羅の手を掴んだが顔を包まれてしまう。
「揶揄うてなどおらぬよ。なれど妾の愛らしゅうある玳絃は何をそのように悩ましゅうにしておるのかと思うてのう」
ふふっと笑う悧羅の顔はただただ心配そうに玳絃を見上げている。子を案じるだけの眼差しで見上げられていては、玳絃も滾る熱など考えている場合ではなさそうだ。観念して腕の力を緩めると、細い指が唇をなぞって言葉を出すように促された。
「…姚妃の倖って何なのかな」
ぼそりと呟いた言葉に悧羅の目が細められる。
「どう考えても妹っていうのは変わらないんだ。でも見えない処に行かれたら手が届かないでしょ。護らなくていいって言われてもその線が俺には分からないんだ」
ゆっくりと頬を撫で続けてくれる悧羅は微笑んだままで、玳絃の言葉を聞いてくれている。
「あんな思いさせちゃったから、姚妃が本当の唯一を決めれるまでは側に居ようって決めてたんだけど、…出来なくなっちゃった。妹としてが嫌ならっても言ったけど、それは駄目なんだって」
はあ、と大きく嘆息してしまうが悧羅は頬を撫で続けてくれる。
「勝手にこの先もずっと姚妃を護らせて貰えるって思ってたからさ。どうしていいか分からなくなっちゃってるんだ」
ぽすりと顔を枕に埋めると、また思考がぐるぐると廻りだす。
何が倖なのか、何がしたいのかも分からない玳絃には姚妃が何を望んでくれているのかも分かってやれない。
倖になってくれと言われてもなり方も分からない。
笑っていてくれと願われても、腹の底から笑うことなど出来そうにない。
お前のせいでこんなに苦しんでいるのだと、罵ってもらえた方が万倍も楽だ。
「…ほんっと、わっかんない」
呻いてしまうと悧羅がくすくすと笑い始めた。
「ほんに玳絃は愛いのう。まるで紳のようじゃ」
「俺には父様みたいな覚悟はないよ。今だって怖くてあの部屋の近くにも行けないんだから。情けなくって涙が出ちゃいそう」
あの日灼きつけられた光景は玳絃の脳裏から離れることがない。
ふとした時に、眠っている時に、姚妃を見るたびに思い出されるそれは、玳絃の罪を容赦なく突き付けてくる。
玳絃が見ようとしなかったから、こうなったのだ、と。
何度も、何度も。
繰り返し、繰り返し。
忘れるな。
忘れてはならない。
忘れることなど許さないとでもいうように。
忘れられる筈もないことなど、玳絃が1番よく知っている。
「のう、玳絃。倖とは何であろうか」
「…それが分かれば悩んでないよ」
撫でられていた手が止まって悧羅がほんの少し身体を起こしたのが分かるが、玳絃は顔を上げることができない。
「そうだの、倖など手にするまで分からぬものだ」
さらりとした悧羅の髪が顔を擽ると、ふわりと腕に包まれる。
「姚妃とて玳絃を苦しゅう思わそうとして、あのようなことをしたわけではないに」
ぎゅうっとまた顔を胸に埋められるが、今度は熱が滾ってはこない。背中を叩いてくれる手と悧羅の芳で、ただ、ほうっと安堵してしまう。
「姚妃は玳絃を苦しゅうさせとうなかっただけじゃ。己が居らぬようになれば、いつかはそのようなこともあったと懐かしゅう思えることにもなろうし、見えぬ処に居れば忘るることもできるようにやるやもしれぬであろ?」
「…居なくなる方が嫌だよ。見えなくなったらそれこそずっと後悔する」
すりっと擦り寄りながら悧羅に抱きつくと、そうだの、と笑いを含んだ声がする。
「ならば生きておってくれさえすらば、それで良いのではないかえ。姚妃が願うておったような在り方でなくとも、傍に居るのが玳絃でなくとも、の」
「…そうなんだけどね」
悧羅の言っていることは分かる。
玳絃も、ずっとそれを考え続けてきたしそうすることが1番良いことだと頭では分かっている。
「だけど姚妃が唯一を見つけるまでは側に居たかったんだよ」
はあ、と嘆息すると息が肌を擽るのか、悧羅はますます小さく笑っている。
「見つけたら預けるつもりだったのに、早すぎる」
「兄としてかえ?」
「兄としてだよ。偽るなって言われちゃったから偽れないもん」
より悧羅に擦り寄ると抱き締めてくれる腕に力が入った。片手を廻して悧羅に縋り付くと、より強く抱き寄せてくれる。
「それは致し方あるまいよ。偽っておってもいつかは明るみに出やる。その時に傷付いてしまうは誰であろうか」
「…姚妃」
応えた玳絃の髪が優しく梳かれた。気持ちを偽ることは本当に容易いことだ。それで姚妃が笑ってくれるのならそれで良いとさえ思っているし、それくらいしか詫びる手立ても思いつかない。
けれどその奥に、また姚妃を傷付けてしまう未来が見えているから思っていても手を伸ばせないだけだ。
「玳絃も、であろ?」
「俺は、…傷付くくらい何でもないから」
あれほどに姚妃を傷付け続けていた玳絃が、自分は傷付きたくないなどと言える訳がない。むしろ心が壊れる程に傷付けてもらわなければ姚妃に詫びたことにさえならない。
偽って身体だけでも差し出して、傍に居ることで姚妃が少しでも救われるのであればそれでいい。
そう思うのに悧羅が頭を振ったのが分かって、顔を上げると困ったように微笑んでいるのが見えて玳絃は言葉を失ってしまう。
「玳絃、それはならぬよ」
両手で顔を包んでくれる悧羅と同じくして、妲己も玳絃の背中に侍り直して体躯を乗せてくる。
「玳絃も姚妃も、もう十分に傷を負うた。これ以上を妾は是と申せぬ」
「だけど」
「ならぬ、と申しておるに。玳絃も姚妃も倖にならねばならぬ。腹を痛めて産ませてもろうたというに、紳から貰うた宝が倖になってくれねば妾は泣いてしまうがよろしいか?」
微笑んだままで困ったように首を傾げる悧羅に、玳絃はふるっと頭を振った。
姚妃が腹に宿った時、悧羅は身体を起こすことさえ出来なかった。血の気もなく自分も危ういと言われても、紳がくれた宝を必ず紳に抱かせるのだと、気怠い中にあっても泣き言ひとつ玳絃たちの前で溢さなかった。
腹が大きくなって身体を起こすことが出来るようになると、いつも愛おしそうに蹴られる腹を撫でて話しかけていた。
産んでくれた時、子どもたち皆で産み場に居れたが長い痛みに叫び声ひとつ上げず、案じる玳絃たちに微笑んで礼を言ってくれていた。紳の腕に包まれて姚妃を産む母はずっと、なんと倖なことだろう、と言っていた。
自分たちの時もそうだったのだと咲耶が教えてくれて、紳がくれる倖ならどれだけでも、と笑ってくれるこの母に産んでもらえたことが誉に思えた。
この母を泣かせるようなことだけは決してしてはならない、とも強く思った。
母が命を賭けて産んでくれた妹を、何が何でも護っていくと、そう決めたはずだった。
「泣かせとうないと思うてくりゃるなら、必ずや倖になっておくれやし。姚妃が倖であろうと玳絃がそれを捨ててしもうては、妾の身は切られてしまう。其方らが倖になれぬなら妾の気が触れて、何もかもをも壊すやもしれぬえ?」
「…でも…っ」
「なれども何もなかろうよ」
ふふっと笑う悧羅の顔が緩やかに滲んでくると、おやおや、と悧羅が涙を拭いてくれる。痛いほどの母の想いが身に余ってしまう。
「玳絃の心に巣食うておるものは何であろうか。何をそのように悔やまねばならぬ?」
尋ねられたことに対する答えなど、玳絃は分かっている。
あの日、初めに姚妃の想いを知らしめられた刻をやり直してやりたい。
受け入れてやれなかった。
向き合ってやれなかった。
姚妃の行いに腹を立て、決死の訴えにも応えてやれなかった。
軽蔑の目ばかり向けて、姚妃の言うことにも耳を貸さず、想いを終わらせることも、前を向くことさえ手伝ってやれなかった。
なにより、あんなことで姚妃にしてもらった、と言わしめていることが嫌で申し訳なくて堪らない。
「…応えてやれば良かったって、思ってる。妹だって思いは変えられないけど、たった1回だって、ちゃんと向き合って慈しんでやってたら、姚妃も気持ちを切り替えられたんじゃないのかなって思うんだ」
悧羅の手を逃れて胸に抱きつくと、背中が優しく叩かれる。
「あの時に怒るばっかりじゃなくてちゃんと話して、そうしてやれてたら、前をみれてたんじゃないかって」
忋抖の言う通り血の繋がりなど些細なことなのだろう。
現に忋抖のことが知らしめられても民からは慶ぶ声しか聞こえなかった。
紳を案じる声はちらほらと聞かれたけれど、いつもと変わらずに誰の前でも悧羅を慈しむ紳は、何も変わらないと示してくれている。
忋抖も立ち位置だけは変わったけれど、子だという事実は当たり前のことだから、と受け入れている。
「産んで貰えてなきゃ、きっと会えてもなかったよ」
片割れの灶絃が唯一を姉の啝咖だと言い切ったときは、流石に驚いたが額付いて許しを乞う背中には一片の迷いもなかった。
「血の繋がりが何だ、そんなもので諦められるくらいなら、逃していた」
灶絃から出された言葉は、あの日玳絃が姚妃に突き出されたものだった。
あの背中を見た時に玳絃の考えも少しだけ変わったのは否めない。
血に拘り続けて想いも果たせず、唯一も取り溢すことを善とするのなら、鬼の本能に情を交わすことを刻まなくても良かったはずだ。
一度、荒廃した里がここまで大きくなったのも、民たちが子を産み育ててくれたからだ。今でこそ相手を選べるが、800年前には選ぶことすら出来なかったろう。
それら全てを否定しようなどとは思っていない。
血の繋がりなど確かに些末なことだ。
それは分かるが玳絃はそれを大事にしたいのだと、言えていたら変わっていただろうか。
紳と悧羅に繋げて貰った兄妹という縁を絶ってまで、玳絃は姚妃を欲しいとは思えないのだ、と。
そうきちんと伝えられていたら、何か変えられていただろうか。
ありがとう、と言えていたら少しは救えていただろうか。
姚妃の100年を今だけ受け入れるから、明日からは前を向けと言ってやれていたら、今頃恋仲の者でも見つけてくれていただろうか。
どうしてもそれだけを悔いてしまっている。
あの時に戻れるなら軽蔑する前に詫びるだろう。
こんなことをさせるまで苦しませてごめん、と。
「…母様はさ、その時に何を1番悔やんだ?…兄様を受け入れるって決めた時に、何が1番苦しかった?…兄様は子だろ?何も思わなかった?」
これは聞いてはならないことだ。
けれど今の玳絃の気持ちを分かるのが紳であるように、姚妃の気持ちが分かるのは恐らく悧羅だけだ。背中を叩く穏やかさは変わらないが悧羅が苦笑したのは伝わってきた。
「そうさの、あの時の妾は生命を絶てるとまでは思うておらなんだな」
「…そうなの?」
すりっと擦り寄った顔の奥で悧羅の心の臓の音が聞こえる。
「長であるが故、民を捨てるはならなんだ。妾が戻らねば妲己が見つけてくれようし、咲耶も居ったでな。どのような姿になろうとも生かされるであろうとは思うたの」
くすくすと笑う声に混じって、さも当然と言うように妲己が鼻を鳴らしている。ぱさりと尾の音まで聞こえたのは妲己が悧羅を叩いたのだろう。
「ただ子袋さえ潰してしまえればよろしかった。紳の子を産めぬのならば要らぬものでしかなかったでの」
「…うん」
子袋が残っていれば夜伽を為さねばならない以上、いつかは悧羅は子を為しただろう。子を為せていたならば、それはそれで慈しめたとは思うし、そうしなければならなかったことも分かっていた。それでも許されずとも紳の子でなければ産み落としたくなかった。するりと手を伸ばして悧羅の腹の疵を玳絃が触ってくる。ざらりと引き攣れているのが分かるのかそっと掌で玳絃は覆ってくれた。愛らしい男の姿につい小さく悧羅は微笑んでしまう。
母として甘やかし尽くしてやりたいが、まずはこの小さく大きなことに囚われている男の心を軽くしてやらねばならない。
「悔いたは紳を知らぬことであったな。夜伽のたびに、知らぬ男に触れられるたびに、何故、紳に触れてもろうておらなんだかと悔いた」
思い出したくもない事柄に少しぶるりと震えた悧羅に玳絃が声をかけると、大事ない、と余計に抱きしめられた。
「忋抖とて、長う泣かせ続けてしもうた。子であることを悩ましゅう思わせておったでの。子としての顔と欲を押し殺さんとする顔と。壊れてしまうが故に手を伸ばせぬ顔はもう見とうなかった」
腹に置いた手に悧羅の手が重なる。忋抖も玳絃も他の子どもたちも、皆始めはここに居たのだと教えるように手を包まれる。
「子であることは変えられぬが。子の分を越えようとも忋抖は忋抖じゃ。なれど、妾の者になりましょうと言うてくれておっても、それがほんに忋抖の倖であるのかなど妾には知れようはずもなし。如何に紳にそう望まれようとも是と長らく言えなんだ。故に紳までも泣かせてしもうたしの」
「父様が言い出したってのは意外だね。母様が見てらんなくて父様に言ったのかと思ってたよ」
腹の疵から背中に手を動かすと、さらりとした陶器のような肌の質感に変わる。またゆっくりと滾ってくるのを隠したのが分かったのか、悧羅もくすくすと笑い続けているが仄かに甘い香がゆらゆらと漂ってきて、玳絃の理性を緩やかに沈めようとしてきた。
「紳が望んでくれねばそのままであったろうよ。忋抖は沈み尽くし引き上げようにも手が届くことすらなく、妾も悔いたことだろうて。何故あの刻に手を引かなんだか、と」
弄り続ける玳絃の手を拒みもせずに、悧羅がより抱きしめてくれる。止めなければ、とは思うのだがしっとりと吸い付かれるような肌は心地好すぎて手を離すどころか、触れたい欲が勝ってしまう。
「玳絃と同じく妾も囚われておったのやもしれぬ。血だの母だの、との。妾はただ産ませてもろうたに過ぎぬのだが、忋抖はそれでよろしかったと言うてくれる。子として傍に居れたが故に手が届いたと、倖だと言うてくれる。紳とて妾の唯一であることは変わらぬし変えるつもりもない。何より紳だけではのうて忋抖の腕も心地好すぎてのう。あれが他に行くのは堪えられぬ。…血など、小さきことに囚われておっては知らなんだな」
「…ふーん…、そんなに悦いんだ?」
悧羅を今触っているのは自分なのに、紳や忋抖の手を思い出されているのが何となく玳絃には面白くない。背中を触っていた手で襟をずらすと、はだけた寝間着から豊かな胸が溢れてきたが、擦り寄って顔を埋めても悧羅は好きにさせてくれている。
「とても。紳にも忋抖にも壊してくりゃれと願うてしもうて呆れられておるやもしれぬ。…のう、玳絃、妾はほんに欲が深うあるであろ?紳を縛るだけでのうて、忋抖をも妾がおらねば生きてゆけぬと言わしめるほどに絡めとってしもうたのだから」
ふわり、と甘い香が少しずつ強くなってくると暫く、とだけ残して妲己の重みが消えた。滾ってくる熱に呑み込まれるように、悧羅の声も遠くで響く。
「父様も兄様も倖だよね。母様に縛られ続けてもらって何時だってこうして触れるんでしょ?」
ぐらりと揺れる意識の中で、滾る思いだけがとめどなく溢れてきてしまう。目の前にある胸の先をそっと摘むと、僅かに悧羅の身体が震えた。駄目だ、と何処かで警鐘が鳴るが止められない。
「妾は、そうであって欲しいと願うた。これでよろしかったとも思うておる」
母だ、と自分に言い聞かせるが止められない。
「…うん、そうだね」
してはならない。
踏み入ってはならない。
これから先は、玳絃がずっと悩んできた、血の境だ。
そう思うのに強い甘すぎる香は玳絃から思考を奪う。息を吸うごとに身体を巡って、見える肌を、しなやかな肢体を自分のものにしたくて堪らない。
滾る己と堕ちてしまいたい衝動と、身体の何処かで鳴り響く警鐘と、それらすべてに抗おうとすると息も乱れてしまう。ぎゅうっと目を閉じて抗う方を選ぼうとすると、背中に手が這った。
「…己が欲しゅうあるものなら手を伸ばさねば、倖など掴めぬよ」
ただ触れられただけなのに、そこからまた熱が滾る。するりと撫で上げてくる手が玳絃の寝間着をずらすと、肌が合わさってより悧羅を近くに感じれる。
「欲のまま、玳絃のまま、為したいと思うならば為せば良い」
甘い香は、もうむせ返るほどに強い。声に誘われるように瞼を上げると、目の前に白い肌がある。
そろりと舌を這わせると、抑えていた息も熱く纏って吐き出してしまう。
腕にいるのは、母なのに。
舌が這い上がるのに合わせて震えているのは、悧羅のものか玳絃のものかも分からない。細い身体を抑えて引き付けると手に収めた胸が見えた。取り払う代わりに口に含んで舌で転がし始めると、聞こえた吐息が玳絃の自制など音を立てて崩していく。
母であるはずなのに、これは違う。
そんな気持ちになどなれないはずであったのに、脚を擽る素足が玳絃の滾り切ったモノを押した。
まるでこれが欲しいと言うように。
今、玳絃が腕に包んで堕とされようとしているものは、紛れもなく、母だ。
けれど、これは母ではない。
ただのひとりの女だ。
「…ごめん。…ちょっとだけ触らせて」
強請るように絡められていた脚を膝で広げて弄っていた手を当てると、いつでも受け入れる支度は出来ているようで、それがまた玳絃に突きつけてくる。
血など何の意味がある、と。
そんなものどうでもいい。
そんなものよりも、今は目の前の女が欲しくて堪らない。
「…ははっ、無理、限界…、欲しい」
我慢できずに含んでいた胸に噛み付きながら、勢いよく指を入れるがあまりに狭い。入れた指を絡め取り絞り上げてくる中に入ったら、さぞや悦いだろうがそれよりも悧羅の悦がる姿が見てみたい。奥までいれた指で中と外を同時に弄ると堪えるように息を呑む音と、小さな甘い声が聞こだす。ほんの僅かな堪えるような甘い声は、玳絃の箍を外すには十分だ。ちらりと視線を上げると唇を噛んで声を漏らさないように耐えながら少しだけ反り返る姿が飛び込んできた。
「…やっ、ばい」
紅い唇と漏れ出る声を口付けて塞いだら、どんな顔をするのだろう。
息も出来ないほどに口付けて、声も出せないほどに舌を絡めたら、どんな眼で見てくれるのだろう。
貪るように口付けたいが、何処かでそれはしてはならないと止める声もする。口付けの代わりに手を伸ばして唇を噛むのだけは解かせた。
傷付く姿を見たくなかったからじゃない。
傷を付けるのは自分でありたかったから、だ。
「傷付けたら殺される。こっち噛んでて」
開かせた口に指を入れ込むと、熱くなってきた吐息と喘ぎが聞こえる。甘い香も一段と強くなって弄る手を速めながら身体を舌でなぞると、指に吸い付かれた。
ぞわり、と背中を走る震えが玳絃に思い出させる。
情を交わす愉しみを。
悦くして堕とす悦びを。
欲をぶつけて、甘く鳴かせて、縋られ、繋がり尽くして得られる、悦楽を。
「ほんとごめん。止められないかも」
ゆっくりと唇と舌で身体をなぞりながら降りるが腹の疵が見当たらない。一瞬、何故とは思ったが今は悧羅を味わいたくて、弄り続けている処まで降りる。膝で開かせていた脚を肩に預かって捉えたそこをゆっくりと舐め上げてみると口に入れている指が噛まれた。
「…っ、ひぅ…っ」
閉じようとする脚を肩で持ち上げると、よりはっきりと見える。玳絃の指を根本まで呑み込んで、それでも尚足りないと訴えるようにひくついていた。労わるように嬲ると悧羅の手が頭に縋り付く。
「あっまいねぇ。こんなの初めてだ。これは溺れる」
「った、いげん、そこ、で話して、はっ」
止めるような恥じらうような声とは裏腹に悧羅の腰は浮いて蠢いた。話すたびに指に舌が当たって玳絃を沸かせ続けてくる。
「ここ好きなの?いっぱいしてもらってる?」
固くなった外殻を舌で突きながらちらりと見ると、顔を紅く染めてふるふると首を縦に振っていた。
「…ほんっと、やばい。堪んないってば」
外郭を舌で剥いて中も一緒に弄ると悧羅の手が玳絃を押し付けてくる。
「あれ、堪えちゃうの?見せてよ、どうして欲しい?」
わざと押し付けられた処に当てないように舐め上げると、当たるように腰を動かしてくる。頭も抑えつけられて求められているのは嬉しいが、煽られ尽くしたのだから、もう少し意地悪をしても許されるだろう。
「言わないと、ずっとこのままだよ?」
弄るのを指だけに変えて、息を吹きかけると焦らされるのが耐えられないのか、ますます頭を押しつけられる。
「早く。俺もお預けはキツいんだって」
ゆっくりと周りだけを舐めると、強く、と小さな声がした。
「…強うに、して?」
甘美な声は艶かしく耳から入って玳絃の身体を駆け抜けて、何かを壊した。
「…あーあ…、これはほんとに無理」
強張る悧羅の口に更に指を入れ込むと熱い吐息が絡わりついてくる。少しくぐもった声を聞きながら避けていた処に強く吸い付くと喘ぎと共に身体が跳ねた。噛まれたままの指に舌が絡まって、堪えようとするたびに、果てて身体が仰反る毎に歯が食い込むが、まるで全身を慈しまれているような気にもなる。
「見せて、聞かせて」
一度果てさせてしまえば、あとは容易い。
悦くなる処を見つけてひたすらに嬲り続けて行くと、悧羅の身体は幾度も反り返り、強張って跳ねていく。耳に届く喘ぎと共に中に入ってくれ、と焦らすな、と願われる。叶えていいなら玳絃とてそうしたい。
乞われるまま欲に従って貫ぬいて抱き潰せたらとも思うが、やはり何処かで、まだ駄目だと声がする。
己は滾り切って痛いくらいなのに、これ以上に進むにはまずは許しを得なければならない。
「…あー、もう。入りたい…、入りたいのになあ…」
あーあ、と嘆息しながらもう一度だけ悧羅を果てさせてから顔を離す。
「…た、いげ、ん…?」
蕩けた眼差しで見られては応えてやりたいのは山々だが、肩を竦めてみせておいた。乱れてしまった互いの寝間着を整えて、ぽすりと布団に横になると悧羅を抱き寄せる。
「母様って甘いんだねえ。これは溺れちゃうの分かる」
大きく息を吐いて燻る熱を鎮めようとすると、悧羅も小さく息を吐きながら玳絃に身体を預けてくれた。
「…よろしかったのかえ?」
滾り切ったモノをするりと撫で上げられて苦笑する玳絃を見ながら、悧羅はそれを触り続けてしまう。
「先にしなくちゃいけないことがあるもん。俺がちゃんと出来たら、ご褒美でってことで。…なんで惑わし止めて、それも離して貰えると助かるなあ」
苦笑を深めてしまう玳絃に、悧羅も、おや、と悪戯に笑うがより強く掴んでくる。
「玳絃の望む褒美とやらを妾が差し出せればよろしいが。瘧を払うて進むのならば叶えてやりとう思うがの」
血に囚られているから出来なかったのではない。
目の前で悦がっていたのが、母だからではない。
母という立場ではあるが、この女は悧羅だ。
悧羅の前ではすべてが無意味になる。
子であることも親であることも、血も繋がりも、何もかも。
だけどそれは悧羅だからであって、玳絃が姉妹を女として見れるということではない。
情は交わせても、それを越えて捨てることまでは出来はしない。
させられるのは悧羅が悧羅であるからだ。
「…だから惑わしたんでしょ?お陰様で分かったけど、母様は本当に別者。俺でも駄目になれるけど、姉妹はやっぱり違うってのも分かっちゃったんだってば、…もうっ!」
滾り切ったモノの先を、ぐりっと擦られて必死に堪えると、ますます手の動きが艶かしくなる。
「ほんとに駄目だって…ばっ!」
ぐりぐりと扱かれて限界が近くなる。引き剥がそうかとも思うが身体は正直すぎて、逆に悧羅を強く抱きしめてしまう。
「…入るかえ?」
「それは、許しを貰ってからでないと、…駄目だっ、てっ!」
「なんとまあ、惑わしに抗ごうてまでとは。頑ななこと」
悪戯な声と共に玳絃の身体に悧羅の脚が乗った。ひたり、と滾り切ったモノを悧羅に当てられて息を呑んでしまうと、これでも?、と耳元で甘く囁かれた。どくん、と跳ねる心の臓と貫きたい衝動をどうにか耐える。
「だからあ!褒美にしてってば!あと、本当に殺されるから!」
「…味見、でも良いのではないか?」
むう、と頬を膨らませる悧羅に玳絃は肩を落とすしかない。
悧羅がそういう性分でないことなど玳絃でなくとも知っている。
身体を開くのは紳と忋抖にだけだと決めていることも、分かっている。
それでもここまでしてくれるのは、玳絃に教えてやりたいからだろう。
血など妖にとって本当に些末なことなのだと。
姚妃にしてやりたいと願うことを出来た時に、玳絃が傷付かないよう、先んじて大丈夫だと言っておきたいのだろう。
その気持ちは有難いのだが、踏み込めば多分戻れない。
紳と忋抖のように、きっと絡め取られて動けなくなる。
「殺されるし、母様だって賄い切れないでしょうが。味見じゃ口付けらんないの。はい、分かったら脚、降ろしてね」
ぽんぽんと背中を叩いてやると一瞬きょとりとした悧羅が、次には声を上げて笑いだした。こちらは必死に堪えているというのにいい気なものだ。呆れながら乗せられた脚を降ろしていると、また滾り切ったモノを掴み直される。
「母様、いい加減にしない、と…っ」
強く掴まれて当てがい直されたソレの先が、悧羅の中に僅かに入らされた。
「…これでも、まだ堪えるのかえ?」
「駄目だってば!」
腰を落とされようとして慌てて悧羅の身体を引き上げて、寝間着を整える。今度は脚が出てこないようにしっかりと巻き込んで、自分の脚で抑えてから、悧羅も動けないように腕に収めたのだが、どういうわけか手だけは玳絃のモノを掴んで離してくれない。
「妾にここまでさせておるというに、堕ちぬとは。妾も廃れたかのう」
「そんなわけないでしょ?母様は何してたって男を堕とすんだってば。もういい、分かったから。母様だったら血とか関係ないって、よーく分かった。なんで、本当に限界、勘弁して」
不満そうに頬を膨らませる悧羅に懇願すると、ならば、と手が動き始める。
「…もう、無理だっ、てっ!」
「堪えておっては身体によろしゅうない。妾を抱きとうなくば、とりあえず、じゃ」
「話聞いてた!?誰が抱きたくないなんて言ったよ?堪えてんだ、って!」
艶かしく動く手に抗えず息を止めて悧羅にまた縋り付くと、ぐりっと捻られた先から欲を吐かされてしまった。
「…あーあ…、もう…、最っ悪…」
ぐったりと身体を投げ出してしまうと悧羅も胸に身体を乗せてくる。
「ほれ、楽になったであろ?」
「そういう問題じゃない。こんなんだったら我慢なんかしなきゃ良かったよ、もう!」
ごろりと身体を返して、もう一度悧羅を抱き寄せると、背中にどすりと重みが乗った。
「…妲己、遅い…」
“はて、何のことやら我にはとんと分かりませぬな”
何かしでかしたら止めてくれ、と願っていたはずなのに何処に行っていたのやら。鼻を鳴らしながら玳絃の背後で体躯を伸ばした妲己に呆れていると、悧羅に呼ばれた。
「ようと分かったであろ?玳絃がそうしてやりとうあるならば、言うてみればよろしかろう。それで何が変わるというわけでもあるまいが、姚妃には玳絃の他に誰が言うたとしても、救いにはならぬであろうしの」
諭すような声音に頷いていると、涙が溢れてきてしまう。
「血を尊ぶは玳絃の善き処。なれど囚われすぎてしもうては苦しゅうなる。己が内にしっかとした信さえあらば、悔やむことなどありはせぬ」
悧羅を抱きしめて涙を見られないように隠すが、つい、消さないでと、呟いてしまった。
「気張りすぎじゃ。案じずとも玳絃の是も無く消したりなどせぬよ。少しばかり心を休めねば、しばし妾とゆるりと致そうや」
いきなりでは何のことを言われているかも分からないだろうに、何故か悧羅に伝わったということは、姚妃が何かしら願っていたのかもしれない。
「また悪戯するかもよ?」
ぽんぽん、と背中を叩く音と悧羅の温もりが玳絃の全部を包み込む。
「悪戯で済ませとうないのではなかったかえ?褒美と申すなら、紳と忋抖にしっかと言うてみるがよろしかろう」
「…殺される…。でも溺れてみたい…。俺が溺れたら、どうするの?」
「案じずともよい。手は離さぬし、何より玳絃は堕ちてくれなんだでのう」
ぽんぽんと背中を叩かれると、とろり、と微睡んできてしまう。
「…堕ちたかったよ、でもまだ…」
虚になる中で悧羅を呼ぶと、此処におる、と抱きしめてくれる。
「…母様、疵、触っててもいい?」
願う玳絃の手が取られて、悧羅の腹に当てられた。衣の上からで良かったのに直に触れる疵は、ざらりと引き攣れて悧羅の想いを玳絃に知らしめてくる。
先刻は触れられなかったのに今はそこにある。
子としては触れても、男としては触れない。
そうするための覚悟と許を、まだ玳絃は誰からも貰えていないのだ。
「…母様は、俺でも開いてくれる?」
悧羅にそれを求めて縋りつくなどしてはならない、とは思うが堕とされるなら悧羅がいいとも思ってしまう。あれほどに囚われていた血のことも悧羅に受け入れてもらえるなら、どうでもいい。
起きた時の紳と忋抖が怖いが、一度湧き出た思いに抗えるかどうかも、これが恋情なのか、ただの欲なのかも、今は考えたくない。
「開かせるかどうかは玳絃次第ではなかろうか。…悦くはしてもろうたよ。ほれ、お眠りやし」
額に触れると、すとん、と眠った玳絃に苦笑しながら悧羅と妲己は目を合わせる。
“…まったく、似らずともよい処まで紳譲りとは…”
「愛いであろ?」
くすくすと笑う悧羅と眠る玳絃の布団を妲己が整えた。
“愛らしゅうあるは存じておりますよ。…紳のみならず忋抖若君まで顔を青くなさいましょうが”
尾でふわりと悧羅を撫でると、玳絃の腕の中で、まだ面白そうに小さく笑っている。
「なれど抗われてしもうたでの。…ほんに褒美をやらねばなるまいよ」
“お強うなられた。やはり我の育て方がよろしゅうあったのでしょうや”
くっくっと笑う妲己に悧羅も苦笑するしかない。子どもたちが妲己に育ててもらったのは事実だし、妲己が居てくれなければ7人も子を持てることなどなかっただろう。
“若君の褒美には我が口添え致しましょう。…さあ、主もお休みを”
「其方が居ってくりゃるなら、妾も玳絃も泣かずに済むであろ」
ふふっと小さく嘆息する悧羅に妲己は目を細める。
“主の倖は我がお護り致しましょう。御子方も…、忋抖若君も”
低い声と柔らかな尾に撫でられながら、小さく聞こえた声に悧羅は目を閉じた。
“やむなし…紳も。彼奴は護られずとも良かろうとは思いまするが…”
鼻を鳴らす妲己に、悧羅が素直じゃないと呟くと尾が顔に乗せられた。さっさと寝ろということらしいが、妲己の照れた顔が見てみたい。顔を上げようとすると尾で押し留められてしまう。
「妲己も妾の倖なのだが」
“…存じておりますとも…”
くっくっといつもの笑いの中に穏やかな声音がある。ふわりふわりと尾で叩かれてしまうと悧羅の瞼も落ち始めて結局、悧羅は妲己の顔を見れずに寝かしつけられてしまった。
お楽しみいただけましたか。
読んでいただきありがとうございます。