2、ヒエイ
五月の陽光まぶしい誰もか完璧にヤル気の出ない月曜日だった。二時間目に突入したその時間、晃は三年一組のベランダに座り込んで、朝練で使い果たしたエネルギーをチャージしていた。教室内から郁夫が
「井伏は保健室行ってまぁす!」
と叫んでくれたのが聞こえてきた。この中学校ではこの程度のことは日常茶飯事だ。晃が特別に問題生徒というわけでもない。持ちつ持たれつ、代わりばんこの世界だ。教師も些事は見て見ぬふりをする、そういうバランスで成り立っていた。今年高三になる晃の姉の井伏真紀が通っていた頃はそうはいかなかったそうだ。隙のない生徒指導体制のもと、教師側の足並みに乱れなく、県内でも名の通った中心校だった。ところがそこに生徒による反抗勢力が発生、教師側との全面戦争になったとか。
「まったく、一時は授業もままならなくて、わたしたちパンピーは迷惑したわよ」
と荒れた中学校時代の話をする真紀はいつもどこか自慢気だ。バンピーと言ってるが真紀はれっきとした生徒会の副会長だった。今は昔の物語、そこから学んだ成果が現在この学校の姿というわけだ。
晃はベランダに座り込み、外壁の切れ目からぼんやりと中庭を眺めていた。中庭の反対側はこちらの校舎と大玄関で繋がっている管理棟で、職員室がある。庭の中心には通称「心の池」と呼ばれている畳二畳ほどの池があり、まわりがちょっとした庭園になっている。そしてまさにその時だった。池を囲むロータリーにいきなり彼は現れた。晃はぎょっとして思わず身を乗り出した。その現れ方が、まるで空間を鋭利な刃物で切り裂いて、そこから出てきたように見えたからである。かげろうのような現象だろうか。次に晃の中に入り込んできたのは彼の立ち姿の美しさだった。
長身だ。まっすぐな軸を移動させながら歩いて来る。ちょっと前髪をたてた短い髮、顔はおかしなことになんの印象も伝わってこない。晃は最近見るようになった高校のパンフレットの制服のモデルみたいな奴だなと思った。
この時間に登校する生徒は二種類だ。心身に事情を抱えて、保健室か相談室に通う生徒と「奴ら」と呼ばれる鮮やかな髮と特殊なシルエットを持つ制服で「武装」した生徒逹だ。前者は放っておかれる。後者は生徒指導担当の教師逹に出迎えられ、身だしなみチェックと言う議題で雑談がらみのだらだらとした指導の後、大概は帰ることになる。学校に入れずに帰す教師逹の話術も、またその意図を酌んで「じゃ!」と手を挙げて帰って行く「奴ら」も大したもんだと晃はいつも感心している。もちろん中庭に現れた「奴」はそのどちらでもない。やがて、彼は晃のいる校舎に背中を向け、職員玄関の入り口のドアノブに手をかけた。そして、次の瞬間、あろうことか真っ直ぐ後ろ上に首をひねり、晃を見た。あたかも「分かってんだぜ」といった感じで少し表情を歪ませたかと思うとさらっと中に入っていった。
度肝を抜かれたのは晃である。弾みで屈んだだまま後ろに飛び退き、ベランダにあったバケツを派手な音をさせてひっくり返した。教室から禿げた頭を出した国語のてっちゃん先生に「お帰りなさい」と言われ、渋々教室に入ると郁夫に「バァ~カ」と足を掛けられた。
そして、晃がその日一日抱えていたモヤモヤは帰りの学活に晴らされる。てっちゃんが彼を連れて教室に入ってきたのである。
「えー突然だが転入生だ。ちょっと色々あって中国から来たばかりだ。名前はチョウヒエイ君。ヒエイと呼んでやってくれ」
ここでお約束通り、てっちゃんは腹が出ているせいでウェストに引っ掛からないで下がってしまうズボンをベルトごと掴んで引き上げながら黒板に「金飛影」と書いたのである。普段めったに静まったことのない教室が静まりかえった。飛影は頭ひとつ分てっちゃんより上から教室をさらっと見渡すと「キムです、よろしく」と低く呟いた。晃は『馬鹿かこいつは』と胸の中でつぶやいた。たった今、飛影は教室の大半を敵にまわした。異質な者、隠そうとしない自信、空気を読まない態度、これはこの学校ではいじめのターゲットの三本柱だ。学校という蜜蜂の箱の中では嫌われる条件に他ならない。
飛影は横に長い表情のない三白眼で無遠慮に教室を眺め回し、晃にだけ分かる長さで視線を止めた。『みつけたよ』と囁かれたような気がして晃は身震いした。しかし、この予想から繰り広げられるはずの胸くそ悪い展開を見せることは無かった。一つには時期があった。三年の五月である。1ヶ月後に学校総合体育大会が控えていた。八割方が運動部に属するこの学年は、『最後の大会』の旗印のもと、どの部もそれなりに集中的な活動をしていた。朝練があり、放課後の練習も延長になる。以前あれ程騒がしかった授業も居眠りで静まり返っていた。こんな半端な時期にいきなり乱入してきた異邦人は、あらゆる負の感情の標的になっても不思議は無かったが、そのエネルギーのベクトルは飛影に向かわなかったのである。一、二年のころだったらこうはいかなかったなと晃は思った。過去二年間、この学年にはありとあらゆるタイプのいじめが発生した。ターゲットも多彩だった。所謂いじめられっ子タイプからリーダーに至るまでだ。それはテロに似ていた。いつ誰が巻き込まれても不思議はなかった。
もうひとつには飛影とクラスの間の緩衝材になる人物の登場である。学校委員の富沢だった。富沢聡はずば抜けた学力を有し、小学生の頃から有名人だった。学力のせいだけではない。その「奇行ぶり」でである。とにかく空気が読めない。教師に対してさえ、とんでもない言動をぶつけた。小声で言うべきことを面と向かって質問する。彼はときにはみんなの代弁者であり、時には「地雷」と化した。まさに「異物」である。では彼はいじめの対象になったか・・・否である。まず、その卓越した頭脳から繰り出す言葉の力に誰もが屈服せざるを得なかった。もう一つは彼はそういうわけでいつも「ひとり」だった。そして、それを苦にしていないように見えた。必要とあれば誰にでも話しかけ、誰の話にも応じ、あげくひとりにされても意に介さなかった。彼は今年も学級の代表委員を引き受けた。クラスに富沢がいると便利だよなという声をよく聞く。だれもやりたがらない代表委員だの行事の実行委員を二つ返事で引き受けて、誰よりも完璧にこなす。
富沢はてっちゃんに「委員長、面倒みてやってくれや」と言われると、そこからひたと飛影に付きっきりになった。それはいつものように自分の責任範囲と認識したせいだろうが、どうやらそのせいばかりではなさそうだった。
「飛影君、僕は君に日本語を教えるから、代わりに君は中国語を教えてくれよ」ちょっと小太りの富沢は結構な声量で飛影に話しかけていた。知識欲に火が付いたのだ。早速、中国語のテキストを持ち込んで、あらゆる時間帯で語学講座の場面を作り出していった。やると決めたらとんでもない集中力を発揮する男だ。しかし、周囲を真に驚かせたのは富沢の表情の変化だった。専売特許だった無表情が崩れたのを目の当たりにすることになった。はしゃいだ笑顔が頻繁に飛影に向けられるようになった。飛影はというと、富沢の質問攻めにたどたどしい日本語と中国語でごく自然に粘り強く応えていた。一ヶ月たつ頃には、だれもが気づいていた。富沢は「ひとりで平気」などでは無かった。おそらく長い間、とほうもなく長い間、誰かとつるむ事を切望していたのだ。
そして、もうひとり、飛影に近づいた人物がいた。あろうことか川島紗絵だった。紗絵は晃の彼女と誰もが疑わない、隣りの二組の体育委員だった。ふたりはいわゆる「幼なじみ」であり、母親同士が親友で地元、当たり前のように昔から行き来があり、晃は幼心に紗絵を親戚の子と認識していた。母親同士の交流は節操もけじめもなく。ふたりは其処に巻き込まれる形で一緒くたに育った。ともに食し、ともに寝、ともに風呂に入りという具合だ。母親同士が遊びに行くと決まって晃の家に晃の姉の真紀を頭にした子供ワールドが展開されていたのだ。
小学生の高学年になり、姉の真紀も中学生で何かと忙しくなると様子は自然と変化してきた。当たり前の展開ではあるが、互いの行き来は下火になっていった。しかし、相変わらず母親同士は遊び仲間であり、紗絵の「あきぃ」という呼び方も変わらなかったので、自然の成り行きでこれといった事実もないままに二人は「公認の仲」ということで中学生になっていた。
家も近く逃れられない環境のもと、晃も紗絵の「あきぃ、一緒にかえろぅ」攻撃をあえてかわす事無く受け入れてきた。その紗絵が最近飛影と一緒に帰っている姿が頻繁に見られるようになり、ちょつとした「スキャンダル扱い」になっていた。




