2.学園で隣席のエドが心を和ませてくれる
翌朝、アリーシアは早起きして、叔母に言われていた雑用を黙々とこなした。
毎日がこうだ。身支度もそこそこに朝食の用意の手伝いをしたり、配膳をする。イザベラに言いつけられて、ハンカチにアイロンをかけることもあり、時間に余裕なんてない。
そして、慌てて朝食のパンとスープをお腹に収めて、改めて三階の自室に戻って制服を着替えた。もちろん支度の手伝いをしてくれるメイドはいなくて、一人でなんでもするのだ。
「お嬢様、そろそろお出かけにならなくては」
ぽっちゃりしたメイド頭のマルガが部屋に寄って、声をかけてくる。
「ええ、急がないとね」
彼女はこの屋敷で長く働いてくれている。母を早くに亡くしたこともあり、アリーシアにとって母代わりの存在だ。
彼女自身は仕事を言いつけたりしないが、叔父夫婦の手前、メイド扱いしなくてはならないときはつらそうだった。彼らの目がないときは、こっそり助けてくれるし、意地悪なメイドが仕事を言いつけたりしようものなら、すぐさま注意をしてくれる。
彼女にとって、今もアリーシアは『お嬢様』なのだ。
他にも、昔からいる使用人、特にマルガの夫である執事長ホルツはアリーシアを気遣ってくれている。
けれども、親切にしているところを見つかると大変なので、虐げられている場面に遭遇しても、見て見ぬふりをすることがあった。
でも、それも仕方のないことだ。それくらい分かっている。自分も屋敷を追い出されたら、路頭に迷うのだから、叔父一家の言いなりになる彼らの気持ちも理解できた。
教科書や筆記用具が入っている鞄を手に、階段を下りる。途中で、朝食室でまだゆっくり食事をしている叔父夫婦に挨拶をした。
「学園へ行って参ります」
叔父はでっぷりと太っていて、温和そうに見えるが、油断のならない目つきをしている。彼は黙って頷いた。痩せぎすの叔母はじろりとアリーシアを睨む。
「なるべく早く帰ってきなさいね」
「はい……。では」
彼女が早く帰れと言っているのは、別にこちらの身を心配しているわけではなく、雑用をさせるためだった。正直、使用人の数は足りていて、何もアリーシアがいないと家事が回らないわけではない。
ただ、彼女は嫌がらせのためだけに、雑用をさせたいだけだった。
玄関の扉のところには執事長のホルツがいた。彼はもう初老の年齢だが、長身で痩せているため、今もなかなか格好いい。
「行ってくるわ」
「気をつけて行ってらっしゃいませ、お嬢様」
ホルツは笑みを浮かべて扉を開けてくれた。
さすがの叔父一家も、アリーシアに正面玄関を使うなとは言わない。いや、いつか言いだすかもしれないが、まだ言われていなかった。
同じ学園に通うイザベラはもう馬車で出かけている。公爵家の馬車だが、何故か自分は徒歩通学をするように言われていた。貴族の令息令嬢が通う学園だから、誰もが馬車で送り迎えされる。
だから、徒歩で通うアリーシアにみんなが気づいていて、やはりそれは噂になっていた。
同情ならまだいい。どちらかというと、馬鹿にされているようだった。
学園では、少なくとも仕事を言いつけられることはない。同い年のイザベラとも違うクラスだ。だから、アリーシアにしてみれば、唯一、学園が安らげる場所でもあった。噂など無視すれば、なんともない。
いや、本当のことを言えば、気になるに決まっているが、気にしてもどうしようもなかった。とりあえず王都の道路がすべて石畳で、歩いていても靴が汚れなくてよかったと思うしかない。
学園に着くと、教室へ向かった。
同じクラスには二十人ほどの生徒がすでに着席している。席は決まっているわけではないが、自然とみんな同じ席に座るようになっていた。いつも後列の端が空いているので、そこに腰かける。
隣には同じ男子生徒がいて、あまり話したことはないが、顔馴染みではあった。
「おはよう」
彼から小さな声をかけられたので、アリーシアも小さな声で挨拶を返した。
「おはよう……」
彼の名はエド・ラスティド。長い灰色の髪をうなじの辺りでくくっていて、前髪が目にかぶさるほど長く、顔立ちがよく分からない。ただ、身長は高かった。
このクラスは生徒同士の仲がよく、授業以外ではおしゃべりをしていて、けっこう騒がしい。だが、エドとアリーシアだけが誰とも喋ることなく、黙っていた。
クラスの中で浮いた存在というのか、誰からも声をかけられることはない。まるで透明人間にでもなっているようで、たまに居心地が悪いと感じるときもあった。
でも、彼らが自分に声をかけないのも分かる気がする。
この学園で自分はどこまでも異質な存在だ。制服はみんなと同じだけれど、髪があまり手入れをされていないのはすぐに分かるはずだ。何よりも痩せていて、自分でもやつれている感がある。
周りの貴族令嬢と比べたら見劣りするのは確かで、声をかけて友人になろうとは思わないだろう。
そして、エドもまた普通の貴族令息とは違う。王都から遠く離れたラスティド男爵家の子息だと思うが、アリーシアと同じで何か家の事情があるのかもしれない。
真面目に授業は受けているものの、いつも自信がなさそうにうつむいてばかりだった。小さな声でぼそぼそと喋るくらいしかせず、他の令息みたいに大声で明るく笑ったりしないから、誰からも相手にされないようだった。
つまり、自分達は同じような雰囲気を持つ人間で、アリーシアはいつの間にか彼に仲間意識みたいなものを持つようになっていた。
もっとも、エドからしたら、自分とは違うと思っているかもしれないけれど。
アリーシアは彼に話しかけてみた。
「魔法実技の課題、やってきた?」
彼はちらりとこちらを見る。いや、目元があまり見えないが、顔をこちらに向けたから、恐らくそうだと思う。
「一応……」
ぼそりと呟く。
「君は?」
「わたしは……あまりできなくて。授業はどんどん進むけど、魔力が少ないから追いつかないのよ」
何しろ実技が必要な授業なのだ。もどかしいほど、ほんの少ししか魔力がないアリーシアからすれば、本当に難易度が高い科目だ。
他の科目なら、頑張ればなんとかできる。といっても、課題を出されるのは本当につらい。授業が終われば早く屋敷に帰らなくてはいけないし、帰ったら雑用が待っている。課題に取り組む時間はあまりなかった。
それどころか、別のクラスのイザベラが自分の課題を押しつけてくることがあった。それはそれで勉強にはなったものの、時間が取られるから困る。
今回出されたのは、魔鉱石に魔力を込める課題だ。しかし、魔鉱石に込めるほどの魔力がないのだから、全然上手くいかなかった。それでも、今日提出することが求められている。
アリーシアは思わず溜息をついた。
すると、エドがぽつんと言った。
「焦らず初歩からしっかりやるといいよ」
彼からアドバイスをもらえるとは思わなかったので、少し驚いた。だけど、少しでも対等に言葉を交わせる相手がいるというのはいいものだ。いつも命令ばかりされているから、こんなことでも嬉しかった。
「ありがとう。……そうよね。追いつこうと焦り過ぎていたかも」
アリーシアが礼を言うと、彼は黙って頷いた。
彼は無口な人だ。でも、ちゃんと相手はしてくれる。
それだけでもいいの……。
せめて人間扱いされたい。見下されたくない。命令なんかされたくない。
「わたし、魔法実技に関しては試験の点数もよくないから、期日までにレポートを提出しないと卒業もできないのよ」
もうすぐ卒業式だ。卒業できないと留年ということになるが、そんなことになったら、本当に婚約を破棄されることだろう。ユスティスからすれば、これほどいい口実はないから、すぐに飛びつくことが考えられる。
婚約破棄されたら、自分は屋敷から追い出されてしまうかもしれない。
でも……卒業しても、本当に自分はユスティスと結婚できるのだろうか。彼の態度は婚約者に対するものではないようだ。アリーシア自身、もう彼と結婚なんてしたくない。
とはいえ、婚約は王命に等しいものだから、簡単にやめるわけにはいかないのだ。
学園を無事に卒業できたら……どうしよう。本来なら、お妃教育が始まって、その教育の進み具合によって結婚式の日が決められることになっている。結婚すれば、あの屋敷からは逃れられるが、夫がユスティスでは、幸せな生活が待っているとは言い難かった。
自分がこれからどうなるのか分からなくて、不安で仕方ない。卒業が怖いと思っているのは、きっとこの学園では自分だけだろう。
ふと、隣の彼が言った。
「魔法薬の実験レポートだろう?」
「え、どうして知ってるの?」
今まで彼と碌に話したこともないのだ。レポートのことも、もちろん打ち明けたのは初めてだ。
「いつも休み時間に魔法薬関連の本を読んでいるから」
「ああ……。本を読んで知識はあるのよ。ある薬の製造方法について仮説も立てている。でも……実験が苦手で」
魔法薬を作るにも魔力が必要だ。しかし、わずかな魔力でできた薬では、きっと正しい実験結果が得られないだろう。それが悩みの種だった。
「……手伝ってやろうか?」
「えっ……本当に? いいの?」
手伝ってもらいたいと思って話したわけではなかったが、エドが手伝ってくれるなら嬉しい。彼のことをよく知っているわけではなかったけれど、魔力はそれなりにあることくらいは知っている。魔法実技試験では、平均的な点を取っているはずだ。
「ああ。いいさ」
「ありがとう! 心から感謝するわ!」
彼が魔力を込めてくれれば、きっと上手く薬が作れる。それで実験ができそうだった。恐らく自分で実験してレポートを提出すればいいので、魔力は別人のものでも構わないだろう。
そもそも、アリーシアの魔力が少なく、実技もまともにこなせないことは、教師もよく知っているはずだ。
とはいえ、魔力提供がエドだということは、ちゃんと書いておかなくちゃ。
「そういえば、イルディオン公爵家は代々、特殊な魔法を使うと聞いたことがあるけど……」
「そうね。だけど、残念ながら、わたしは使えないの。魔力が少ないから」
自分の家系が特殊な魔法を使うことは、もちろん幼い頃から知っている。ただし、どのような魔法なのかは、他人に知られないようにしていた。知っているのはイルディオン公爵家の直系の人間と、傍系の人間、そして国王だけだ。
だからこそ、国王がわたしを王太子妃にしようとしているんだわ……。
王家の人間と婚約の話が持ち上がったのは、アリーシアが知っている限り、何度もあった。しかし、父が断っていたのだ。父が亡くなった途端、また婚約の打診があり、叔父がその話を受けてしまった。
叔父は母方だから、イルディオン公爵家の魔法については何も知らない。他の貴族のように、何かすごい魔法を使うらしい、という噂を聞いたことがあるくらいだろう。けれども、叔父はそのことを信じていないようだった。
実際、残っている公爵家の人間といえばアリーシアだけだし、自分は魔力がほとんどないから、そんな特別な魔法なんてなかったのだと思われても仕方なかった。
父も兄も……優しかった祖父も優れた魔法使いだったのに……。
どうしてわたしはそれを受け継がなかったのか。幼い頃から魔法の使い方だけは学んでいたものの、肝心の魔力が少なくてはどうすることもできなかった……はず。
あれ? 本当にそうだったかしら?
記憶の隅に、自在に魔法を操っていた場面があったようななかったような……。
今の自分には魔力がほとんどないのだから、子供のときに魔法が使えていたはずはない。きっと兄が魔法を使っているのを見ていて、その記憶があるだけだろう。
なんにしても、エドが実験を手伝ってくれたら、無事に卒業できるだろう。先のことは分からないが、今はただ目先のことだけで精いっぱいだ。
本心ではユスティスとなんて結婚したくない。
そう思うだけで、今はまだ何も考えられなかった。
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