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エピローグ


 出港準備に追われる船。

 そのせわしなさから離れた島の象徴、塔の門前にて、ノクスとエセルスはにらみ合っていた。


「……狂犬が」

「うるせぇな。ぶっ殺すぞ」


 エセルスの侮蔑に対し、ノクスは粗野な口調で吐き捨てる。ノクスとて、仮にも王のそばにも控えていた騎士だ。礼儀正しい言葉遣いが出来ないわけではないが、目の前の優男に対して、わざわざ労力を割いてやる気はない。


 相手も、同じなのだろう。

 普段はさも人畜無害そうに笑っているくせに、今は嫌悪を隠そうともしない。


 嫌いなのはお互い様なのだが、セレネはエセルスを信用すると言った。

 だから、ノクスは強引な排除を諦めたのだ。

 ひとえに、それがセレネの願いだったこそだ。

 本来ならば、エセルスとその部下全員を始末することが出来たのだが。


 うぬぼれではない。

 事実であるとノクスは認識している。そして、エセルスもそれが分かっているから、警戒し――嫌うのだ。


「本当に狂犬だな。……セレーネレシェンテ姫は、なぜお前のような男を信頼したのか。……相変わらず、理解出来ない方だ」

「ハッ、てめぇ如きには、一生かかっても理解出来ないだろうから、諦めな」

「……口の減らない男め」


 気分が悪いと言い捨てて、エセルスは門から離れていく。

 ノクスも、これ以上エセルスと不毛な争いをしていてもつまらないので、塔の中へと入っていく。


 ちょうど、セレネが棚を開いているところだった。

 彼女の小さな背中を見つめながら、ノクスは今しがたの発言を胸中で繰り返す。


(エセルス。お前に彼女の孤独を理解することは不可能だ)


 小さな姫が、老犬をたったひとりの友にしていた理由すらも、理解出来なかった男だから。

 ただ、いたずらに野良を餌付けし甘やかしていると思い、考えなしの優しさだと責めた少年。


 幼い反発心や自尊心を引いても、彼の態度は臣下の域を超えてたものだった。

 当時の彼は、それすら思い至らず、姫が無知で愚かだと責めた。

 なぜ、才気溢れている自分の婚約者が、こんな無知蒙昧なのだと。


(姫が、ちょっと侍女か……あるいは王妃に伝えれば、一発で奴はお終いだったのにな)


 十年の年月は、傲慢不遜だった少年を青年に変え、少しは考える癖がついたようだが――やっぱり、ダメだ。


(理解出来ないまま、一生終われ。……オレも、じーさんも、綺麗事の愛情なんていらないんだよ)


 昔ノクスが見た、老犬と小さな姫の関係は羨ましいの一言に尽きた。偶然見かけた光景は、ノクスの根本を揺るがすほどに衝撃的だった。


 他者からは侮蔑か恐怖しか向けてこられなかったノクスにとって、その老いて忌避される犬は同類だった。そう思っていたのに、小さな姫から信頼と愛情を受け取った老犬はキラキラと目を輝かせ誇らしげに己の主と認めた彼女に寄り添っていた。


 自分と同じように他者から疎まれて牙を剥いていた老犬――その豹変を目にして当初は驚いたが、段々とあんな風に混じりけない好意を一身に受けるのは、どんな気分なのだろうと想像するようになった。


 興味がわいて、近づいて――そして、受け入れられてからは、目眩がするほど幸せだった。

 じーさん呼びしていた老犬亡き後……正確には、あの老犬が何者かの手にかかり始末された後のこと――この小さな姫は自分が必ず守るのだと息巻いていたノクスだったが、当時の彼では、セレーネレシェンテを守れなかった。


 取り上げられた宝物を返せと喚くことは簡単だったが、それでは取り戻せないと知り、ぐっと堪え――待ち続けた。


 必ず迎えに行く。

 その時まで、どうか自分のことを待っていて欲しい。

 そんな、たったひとつの約束だけを支えに、彼女に会う日を待っていた。

 ひとつ、ひとつ、着実に手柄を立て。どんな汚い仕事もこなし――王の命を果たす騎士として、綺麗とは言い難い道を歩いてきた。


 いつしか王城の者達は、ノクスを王にだけ忠実な騎士だと思うようになり、とうとう影で愚王の犬とあだ名されたが、どうでもよかった。


 そんなノクスの内心に気付いていたのは――愚王と呼ばれる、あの男だけだろう。気付いていたから、王はノクスに娘を託したのだ。


『余はもう長くないだろう。唯一の心残りは、かつて手放した娘だけだ』


 都合のいいことを並び立てながら、それでも目だけはギラギラとした光を放つ王は、寝台に伏せったまま言った。


『いいか、ノクス・ロッホ。余の、たったひとり血を分けた娘、セレーネレシェンテが王の座に相応ならば、そなたがここまで導け。だが、不相応であるならば――』


 ――セレネの後ろ姿を視界に捕らえながら、ノクスは王の言葉を思い返していた。


『不相応であると判断するならば、この先、何にも煩わされることがないよう、そなたが連れて逃げろ』


 ノクスには愛国心も忠誠心も皆無であるとを承知していただろう王が、最初で最後の褒美だと寄越したのは、ノクスの唯一である彼女の運命だった。


(姫は、戻ることを選んだ。……まあ、オレはどっちを選んでも構わなかったんだけどな)


 エルド島へ来て、ようやく再会を果たした今、ノクスは彼女のそばから離れる気は、毛頭ない。

 なぜなら、ノクスが本当に望むモノを与えてくれるのは、目の前の彼女しかいないのだから。


 ――かつて、エセルスは老犬だけに愛情を注ぐセレーネレシェンテを非難した。考えなしに餌付けする、愚かな姫だと。

 王族ならば、誰にでも平等に――たとえ動物だろうが、平等に上っ面だけ慈愛の仮面を被り、可哀想と哀れめばいいということなのだろう。


 そんな風に考えたエセルスこそ、愚かなのだとノクスは断じる。


 誰にでも平等に向けられる愛情なんて、薄っぺらい偽物だ。

 そんな毒にも薬にもならない薄味のモノよりも、自身を揺さぶるような――考えを根っこからひっくり返すような、強く確かなモノこそ本物で……それを体現していたのが、小さく弱い姫だった。


(すげー気持ちいいんだよ。純粋な信頼っていうのは)


 自分だけに向けられる信頼と愛情。


 一度は涙を呑んで手放した。

 二度目は、決して、ない。


 視線に気がついたのか、セレネが振り返る。

 自分を認め、ふわりと笑顔を浮かべるのを見て、ノクスの口元も無意識に緩んだ。


「姫、これから大変だろうけど、オレがいつもそばにいるからな。――今度は、忘れないでくれよ」

「……忘れません。だから、これからも、よろしくお願いします。……そばに、いてくださいね?」


 手を差し出すと、セレネはほんのりと頬をそめつつ、その小さな手を乗せてくれる。

 片膝をついて、ノクスは己の主を見上げた。


「オレに首輪を付けたのは、あんただからな。生涯、離れる気はないさ」

「首輪? あの、そのようなものを付けた覚えはないのですが……?」

「付けられたんだよ、とうの昔に」


 白くて小さな……けれど傷や荒れのある手に、ノクスはそっと口付ける。


「オレが、あんたを相応の場所まで押し上げる。――だから覚悟してろよ? オレの、たったひとりのご主人様」



 ――そうして、廃王女は島を出た。

 彼女は、新たな一歩を踏み出したのだ。

 己にのみ忠実な狂犬を、そうとは知らずに懐に抱えたセレネ……――セレーネレシェンテは、後に数奇な運命を経た女王として語られることになるが、それは遠い遠い未来の話だ。


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