第276話 謎の現象
「ここが……」
「問題の現場……」
湊ちゃんと春日井君は言葉が出ないようだった。
私たちの目の前には虹色の壁がそびえている。虹色といっても明るい色ではない。まるで邪悪なオーラでも取り込んでしまったかのような、黒く濁った虹だ。
黒い虹の壁は見える範囲でずっと続いている。地下172階の一定の区域を囲んでいた。
壁は上から下へと流れるように色を変えている。色は滝に映像を投影したように、不安定に揺れていた。
壁から硬い感じはまったく伝わってこず、そこに物体が存在するようには感じられない。
会議で聞いた話によると(聞いたのは湊ちゃんだが)、この壁には弾力があるらしい。
ミリアが真っ先に壁へ向かって体当たりをした。ぼよんと弾みながら押し返される。
「ぼよんなのです。これは、おもしろい感触なのです」
その弾力を気に入ってしまったミリアは、ぼよんぼよんと壁への体当たりを繰り返す。
横でエリ先生は壁に手を触れ、軽く押していた。手は弾力で押し戻される。
「このように、向こう側へ行くことができないのです。まるでここに壁が生まれてしまったように……」
「不思議なのです。向こう側へ行けないのです。でも、行けなくていいと思うのです。向こう側は恐ろしい場所なのです。空が真っ暗で、上まで続いているのです。不気味な岩もたくさんあるのです」
「やはり……。ミリアさんにもこの向こう側の景色が見えているのですね……」
私たちの目には黒い虹の壁しか見えない。どうやらミリアには違う景色が見えているようだ。それは通常のダンジョンとは様相が異なるらしい。
私が気になったのは、エリ先生の「ミリアさんにも」という言葉だ。つまり、異様な光景が見える者が他にもいるということになる。おそらくそれは大統領……。
私は大統領がミリアと同じモンスターである可能性を疑っていた。そうでなければ、ミリアはサキュバスの能力を持っているため、男性である大統領をコントロールできてしまうことになる。魅了が有効なのであれば、うかつにミリアの前に姿を現すことはないからだ。
ミリアは相変わらず壁へのアタックを繰り返している。
壁へ体を投げ出しては押し戻され、倒れ込むように何度も体当たりしている。そこに柔らかいゴムでもあるかのようだった。
「お姉様、これはとても面白いのです。とてもぼよんぼよんしていて、楽しいのです。お姉様のぼよんよりも、すごくぼよんしているのです」
「ちょっと待って、ミリア。今、聞き捨てならない言葉が出たような」
ミリアは自分でもわかっておらず、同じ動作を繰り返している。
「聞き捨てならない? ミリアは何か失言しましたか?」
「お姉様の『ぼよん』よりも、よ」
きっとそれは私の胸を意味している。この胸よりも柔らかい感触だと言いたいのだろう。
私の代わりに湊ちゃんがミリアをたしなめてくれた。
「春菜のぼよんと比べちゃだめだよ、ミリアちゃん。そもそも、比べるようなものじゃないんだから」
「ごめんなのです。ミリアは楽しすぎて、失言したのです」
そう言ってミリアは思いっきり壁にダイブし、かなりの距離を跳ね返された。
ミリアの足がざざっと音を立て、ミリアは自慢げに構えを取った。
「ここまで戻ってきたのです。お姉様、勝負なのです。お姉様はどこまで戻れますか?」
今のミリアにはまったく緊張感がない。この状況を楽しんでいた。
大統領とエリ先生は苦笑しながらその様子を見ていた。お兄ちゃんは壁の向こうを睨んでいる。
私は湊ちゃんと春日井君の間に立ち、2人の手を取った。
「じゃあ、3人でミリアと勝負だ。このぼよんで、ミリアよりも飛んでやろう」
「うん」と返す湊ちゃんに、「はは」と軽く笑う春日井君。
3人でいっしょに壁へ飛び込んだ。
勢いよく跳ね返されるはずだった。
視界全体が暗くなる。
壁と同じ黒い虹が周囲一面に広がっていた。
私たち3人は、そこにあるはずの壁を通り抜け、その先へ出てしまっていた。3人とも勢いよく地面に倒れ込む。鎧と地面がこすれる金切り音がした。
赤い石と砂でできた地面。それはよくあるダンジョンの地面とは異なる。
周囲では赤い砂が風に巻き上げられ、視界が悪い。
体を持ち上げ、通り抜けた壁を見ようと振り返ると、そこには壁がなかった。
赤い地面が続いており、その先には暗い森があった。
大統領もエリ先生も、そしてお兄ちゃんもミリアも見えない。
上を見ると空があった。空は厚い雲に覆われている。雲は真っ黒だった。
「なに、ここ……。どこ?」
湊ちゃんも春日井君も、地面に両手をついたまま呆然としている。
ゴムのような壁に押し返されると思っていたら、突然、不気味な場所に出てしまった。
春日井君がダンジョンデバイスを操作していた。マップを開きながら首を傾げている。
「DPSが効かない。その代わりに、なぜかGPSが機能している……」
DPSはダンジョン内での位置を特定する機能だ。
GPSはカーナビなどで使われる、人工衛星を利用した位置情報システム。それがなぜかこの場所で機能していた。
「どういうことなの?」
湊ちゃんは不安そうな顔で地面に膝をついていた。
「俺たち、イタリアにいることになっているぞ……」
その時、私たちの視界に1人と1匹の姿が映った。
もりもりさんとラビちゃんだ。
もりもりさんは顔を隠すように、口元にスカーフを巻いている。
ほぼ目元しか見えないが、白銀の装備に身を包んだその勇姿を見間違えるわけがない。
「ここはイタリアに出現したゲートの中です。クエストを完了するまで出られないようです」
「ゲート……?」
初めて聞く言葉に、私は絶句した。
「この場所は地上と同じように、GPSも届きますし、Wi-Fi通信もできます。ミラノにある大聖堂の横に、突然ゲートが出現しました。入ることはできますが、出ることはできません。クエストを完了すればゲートは消滅します」
「もりもりさん……。どういうことですか……」
「その前にお尋ねします。あの壁は覚醒者しか通れない。どうして南波さんと春日井さんも来られたのですか? まさか……」
2人が覚醒レベルを上げてしまったことを、もりもりさんは知らなかった。
「はい……。170階のボスを倒すために、レベルアップシードと覚醒の種を使ってしまいました」
「なんてこと……」
もりもりさんは額に手を当て、嘆かわしそうな顔をした。しかし、すぐに元の顔に戻る。
「来てしまったものは仕方ありません。私もさっき、ここがイタリアだとわかったばかりなんです。幸いなことに、外部とは遮断されていません。至急、大統領や冬夜さんと連絡を取りましょう」
「わかりました」
「春菜さん、南波さん、春日井さん、聞いてください」
私たちはもりもりさんの言葉に耳を傾ける。
「ここはミラノにあるゲートから誰でも入れてしまう状態なんです。しかし、出ることはできない。外の人間からすれば、ダンジョンの一部だけが突然出現した状態なのです」
「もりもりさんは知っていたのですか?」
もりもりさんは首を振る。
「私も知りませんでした。ゲートのことは、さっきネットで調べたんです。今、ネットでは大変なことになっています。大勢がこの中に入ってしまい、死者も出ているようです」
私たちは驚いた。日本以外ではダンジョンは非公開となっている。情報がネットに出ることは少ないからだ。
「ネットに情報が?」
「ダンジョン配信という形で動画を配信している人たちがいます。大統領たちと連絡が取れたら、ネットで情報を集めましょう」
「わかりました」
そして調べていくと、地下172階の一部がゲートという形で出現したことがわかった。ネット上では『アビスゲート』という名称がつけられていた。
すでにハンターたちだけでなく、一般人も入り込んでいた。
大勢の死者が出ており、ネット上には動画が出回っていた。
巨大掲示板55chにもスレッドが作られていた。
ゴーゴーチャンネルの愛称で知られている掲示板だ。
私たちは『ダンジョン速報板』を開いた。




