第1話 男爵令嬢ミュリエル
その部屋には重く暗い空気だけが漂っていた。
隣に座る父、フィオーレ男爵の肩に力が入ったのを感じ、ミュリエルはそっと震える手を握りしめた。
父のサインが終わり、誓約書は相手方に渡る。
相手がサインをすればその瞬間から私は彼の人の婚約者になるのだ。
これも皆のため。私が我慢すれば全て上手くいくのよ。
ミュリエルは自分に言い聞かせるように、胸の内で何度も何度もそう繰り返していた。
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それは今からほんの数ヶ月前のある晴れた春の日のことだった。
「お嬢様、お茶のおかわりはいかがですか?」
「いる!ありがとう、サラ」
小さいけれど庭師のザックが手入れしてくれているお庭、晴れの日はそこでお茶をするのが私の日課。
「お姉様、このクッキーとても美味しいです」
「でしょう?昨日遊びに行った時にパン屋のおばさんがくれたの。今度またお礼に行きましょうね」
「はい!」
今日はお父様に来客があるとかで、いつもならこの時間は剣の訓練をしている弟のカールもお茶会に参加しているの。
我がフィオーレ男爵家は先代であるお爺様が武功を立てたことで頂いた爵位である。田舎で小さいながらも領地を頂いており、数人だけど使用人もいる。
私や弟は遠く離れた王都の貴族達との交流などなく、小さい頃から町の子供達と一緒に遊びまわって育った。領主の子供ということでみんな敬ってはくれるけれど、畏怖はなく、平等に扱ってくれる。いわば町のみんなが家族なのだ。
誇れるものと言ったら広い花畑くらいのこの町だけど、優しい人たちに囲まれて暮らす私は幸せだ。
「明日は花畑に行ってお母様に渡す花束を作ろうかな」
「それはいいですね、奥様も喜びますよ」
「僕も行きたいです!」
「もちろん、カールも一緒に行きましょうね」
そうゆっくりとお話ししていたら、突然屋敷の中が騒がしくなった。
「何かあったのかな?騒がしいけど」
「そうですね、私が見てきましょうか?」
3人で顔を見合わせていると屋敷の中から家令のザックが飛び出してきた。いつも落ち着いて屋敷を取り仕切るザックからは信じられない事態だ。あっちょっと前髪が乱れてるの見つけちゃった。
「お嬢様!坊っちゃま!今すぐお部屋にお戻りください!」
「ザック、どうしたの?何かあったの?」
「後で旦那様からお話しがあります、今はとにかくお部屋へお願いします」
「……わかった」
本当にどうしたんだろう。こんなことは初めてで不安になる。
「カール、私の部屋で話の続きをしましょう?」
「……はい」
私よりも不安そうなカール。お姉ちゃんなんだから、私が守らないと!
それからすぐザックに付き添われて部屋に戻って、私たちはお茶会の続きを始めた。
何事もなかったかのように振る舞おうとするけれど、どうしても外が気になって仕方がない。相変わらず屋敷の中は騒がしいまま。
けっきょく何もわからないまま夕食の時間になってしまった。食堂に来るようにと連絡が来たので、まだ不安そうなカールと手を繋いで移動をする。これは決して私が不安だからじゃないの、怯える弟を守るためよ。
食堂に入るとすでにお父様とお母様が席に着いて待っていた。
「遅れてごめんなさい」
「いいのよ、それより食事が終わったらお父様から大切なお話があるの」
大切なお話。なんだろう、とても怖い。
貴族としては失格なのかもしれないけれど、アットホームな我が家ではこんなに畏まった空気になることなど滅多にない。
張り詰めた空気の中での夕食はいつもと違って味があまり感じられなかった。食器が全て片付けられてそれぞれにお茶が準備されると、ずっと黙っていたお父様が話し始めた。
「今日いらっしゃっていたのは、隣の領地のバウワー伯爵の使いだったのだ――…」
今まで私たちには話していなかったけれど、我が領ではここ数年少しずつ穀物の収穫量が減ってきていたらしい。理由を探っていたけれど見つからず、隣領のバウワー伯爵に相談をしたのだとか。
そこで出された提案が伯爵の紹介してくれた商人からお金を借りることだった。初めはお父様も借金をするのは渋ったのだけれど、年々苦しくなる領政と、5年は無利子で良いという優しい声に借りることにしたのだと言う。それが1年前の話。
それで昨年新たに畑の面積を増やして栽培をしたところ収穫量が少し増え、安堵していたのだと言う。そのためお世話になった伯爵にもそれを報告したところ今日訪ねて来ると言う報せが届いたから朝から準備してお待ちしていたわけだ。
ところがやって来たのは使いの者が1人きり。それも突然貸したお金を全額返せと言ってきたのだ。もちろん少し持ち直したとは言えまだまだ元の状態にはほど遠く、そんなことができるはずもない。しかし、貸してくれた商人が行商途中で盗賊に襲われて動けなくなり早急にお金が必要らしい。
「今日はひとまずおかえりいただいたが、本当に必要ならまたいらっしゃるだろう。どうにかして少しでもお金を作るしかない」
「ごめんなさい、ミュリエル、カール。これからはメイドにも暇を出して節約していくしかないわ」
「すまない、子供に迷惑をかけるなど、親として悔しくてならない」
「そんな…お母様、お父様謝らないで。私もカールも大丈夫よ。拙いけれど料理も掃除だってできるし、何も困ることはないもの!」
「僕も、自分のことは自分でできます!」
ありがとう、ごめんなさいとお母様はとうとう泣き出してしまった。そんな姿を見ていると私も鼻の頭がツーンとしてきた。
いけない、ここで私まで泣いてしまったらただでさえ落ち込んでるお母様とお父様に迷惑がかかる。
隣に座るカールの手を握ると、ぎゅっと握り返してくれる。
大丈夫よ、みんなで頑張ればきっとなんとかなるわ。
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そんな望みも虚しく、私は今日を迎えている。
あれからたった3ヶ月の間に我が家は目まぐるしく変わっていった。
どれだけ節約したところで、大金がすぐにできるわけもなく。使用人もザックとサラは給金が出なくても構わないと残ってくれたけれど、他の人には謝罪をして暇を出した。
何度も使いの者が訪ねて来て、1ヶ月後には屋敷を手放すように言うようになった。お父様はそれはできないと断り続けた。
すると伯爵が私を妾に欲しいと言い出したのだ。私が伯爵と結婚するなら、借金を全て立て替えてさらに援助もしてくれると。
お父様は娘を売るようなことができるかと怒ってくれたけれど、私にはもうそれしか方法がないことは分かっていた。
きっと初めから伯爵がそのために全て仕組んだことだったんだ。
自分で言うのも自惚れていると思われそうだけれど、客観的に見て私は顔が良い。中身は田舎の町娘と変わらないけれど、そんなこと話したこともない人には分からない。
お父様譲りのふんわりとした白金の髪と、お母様譲りの若草色の瞳。外面だけは良家のお嬢様に見える私は、昔から出会う人みんなに天使だと言って可愛がられた。それと同時に、中身を知っている人には宝の持ち腐れだと嘆かれる。
でも町の人はそんな気取らないところが良いと言ってくれるから、たとえお世辞でも私は私らしく胸を張って生きてきた。
伯爵はそんな私に一目惚れしたとかなんとか。それも当時10歳だった私に。
この国の法律で、結婚ができる年齢は16歳となっている。14歳になったばかりの私とでは法律上結婚はできない。なので今は婚約をし、婚姻は16歳になってすぐ執り行う。それまでは行儀見習いとして伯爵の屋敷に移り住めばいい、と伯爵の使いは話した。
事実上の婚姻関係であり、今すぐ手を出したいという下心がこれでもかと伝わってくる。
お父様もお母様も抵抗してくれたけれど、最後は私が説得した。だってそれがこれからの家族やこの領に住むみんなのために一番良いのが明らかだったから。
これは私が選んだ道。今までたくさんの幸せをくれたみんなのために私ができること。
気を抜けば俯きそうになる顔を上げて、婚約に伴う誓約書にサインがされるのをジッと見つめる。
伯爵がペンを持ち上げたその時、突然部屋の外が騒がしくなった。ザックが慌てる声が聞こえてくる。
何だかこんなこと数ヶ月前にもあった気がするわ。
バターーン!!!
盛大な音を立てて部屋の扉が開く。
1人の人物が止めようとするザックを振り切って勢いよく入ってきた。
透き通る銀の髪に、日の光に煌めく湖のような青の瞳を持った美青年。
思わず息を飲んだ全員が見つめる先で彼は厳かに口を開いた。
「その婚約ちょっと待った!!!!」
って、はぁぁあああああ!?!??