44.夜闇5
「気分はどうだ?」
突然、日本語で話しかけられて、遥は瞳を動かした。
無精ひげの散った顔が、じっとこちらを見下ろしている。
白衣をはおっているから、医者なのだろう。
おおざっぱに後ろで束ねた髪と、加えタバコと、白衣のくたびれ具合から判断するに、まともな医者とは思えないが、脈をとる仕草は様になっている。
“Are you OK?”
日本語がわからないと思ったのか、今度は英語で話しかけられた。
気分は悪い。
最悪だ。
でも、それを言ったところで何になる?
しばらく無言で考えた後、“Yes, I am”と答えたら、変な顔をされてしまった。
「日本語は通じないのか」
「通じてるよ。日本人だし」
「だったら、ちゃんと答えろ、その傷はどうした?」
「JFK空港でニューヨークマフィアにやられた。パスポートもクレジットカードもエアーチケットも盗まれて・・・」
そこまで言ったところで、「ふざけるな」とすごまれた。
「マフィアにやられてその程度の傷で済むものか」
「じゃあ、前言撤回。果物ナイフでリンゴの皮を剥こうとしたら、手が滑った」
むっとした顔で黙り込んだ相手を、遥も無言で観察した。
年は三十代前半。
吊りあがった目に、少しこけた頬。
身長は・・・180センチと少々。
よく見れば、まあまあの男前。
観察を終えた頃、男はやおらポケットに手を突っ込み、とりだしたものを遥の顔面に突きつけた。
「言いたくないなら言わなくてもいい。とにかく、さっさと電話しろ」
銃かと思ったらそうではなかった。突きつけられたケータイに視界をふさがれたまま「どこへ?」と訊ねると、面倒くさそうな声が返ってきた。
「親でも、学校の先生でも、友達でも。警察以外で、お前を引き取りにきてくれる人」
「警察はだめなの?」
「俺はモグリの医者だからな。色々聞かれるとやっかいだ」
遥は殊勝に頷いて、横になったまま、突きつけられたケータイを手に取った。
真剣な面持ちで液晶画面を睨みつけたまま、頭の中できっちり10秒数えてから、苦しげに目を閉じた。
「どうした? 疲れたのか?」
いかにも、面倒くさそうだった男の声は、一瞬で医者のそれに戻っていた。
さっきと同じポケットから、今度は聴診器が現われた。
「思い出せない」
「は?」
「何も思い出せない」
すがるように告げると、男はあっけにとられた面持ちで、聴診器を床に取り落とした。
真実を突き止めた今、ニューヨークに用はない。
だから早々に帰国するつもりだった。
でも、なぜ、帰国する必要があるのだろう?
JFK空港で広夢に刺された時、そんな疑問がわいてきた。
遥が差し伸べる手を、真琴が決してつかまないことはわかっているのに、ケータイを突きつけられた時、真琴の声が聞きたいと思った。
姉弟でいると決めたのに、そんな風に思う自分が恐ろしくて、声を聞けば、一度でも名を呼べば、もう正気ではいれない気がして、記憶を失ったふりをした。