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35.レクイエム3

「これを蒔き終えたら駅までお送りしますから」

淡々とそう言って、直己は上着のポケットから小さな紙袋を取り出した。

薔薇の花束と一緒に買ってきたという袋の中には、シロツメクサの種が入っているというという。


促されて手を差し出すと、小さな緑色の種がパラパラと落とされた。


「どうして、シロツメクサなの?」

「丈夫だし、放っておいても、毎年、白い花がたくさん咲くからです」

「放っておかなければいいじゃない」

「まあ、それはそうですか……」


真琴は青年を振り返ったが、落日前の陽光を背負った青年の表情は、逆光のせいでよく見えない。


「お母さん……意識が戻ったわ」

「そうですか。それは良かった」

「会いにいかないの? その……恋人なんでしょ」


最後の一粒を蒔き終えた青年は、少しの間黙っていたが、やがて観念したように、静かに首を横に振った。


「恋人などと言える関係ではありませんが……ご存知だったのですね」

「知っていたわ。もう、ずっと前から」

「あなたは、そういうことが、許せないタチだと思っていましたが」

「そ、そこまで堅物じゃないわ。ふ、二人とも独身だし、お母さんは美人だし、大人だし、恋多き女優だし……」


これ以上は言葉が続かない。

自分の貧弱なボキャブラリにうんざりしながら、真琴は赤くなって俯いた。


「寒くありませんか?」

あっさりと話題を変えられて、真琴を相手を流し見た。


「寒いのは直己さんの方でしょう? 痩せてるし、私に上着をとられちゃってるし」

脱ごうとした上着を両手で押さえられ、そっと前を合わされた。


「そんなことより、そろそろ出発しましょうか。最終列車に間に合わなかったら大変だ。水は井戸水があるけど、電気もガスもとっくの昔に止められているんです」


そんな風に言い出すことはわかっていた。

直己が時間を気にしていることに、真琴はさっきから気づいていた。


自分が何をしたいのかわからない。

ひどく不確かな感情が、胸の中で渦巻いている。

真琴は一歩後ずさり、いやだと言う代わりに、教会に向かって駆け出した。


教会と名のつくものに足を踏み入れたのは初めてだった。

鈍い軋み音とともに木製の扉は開いたが、祭壇があったと思われる場所は空っぽだった。


薄闇の中、ステンドグラス越しの光が、古びたオルガンの表面に光の花を咲かせている。

赤い花を指先でなぞってみたが、不思議と指は汚れなかった。

椅子に腰掛け、オルガンのペダルを踏んで、軽く鍵盤を押してみた。


「真琴さん、何を考えているんです!?」

素朴なオルガンの響きに、追いかけてきた直己の声が重なった。


「わからないわ」

「遥さんには言って来ているですよね?」

「ハルはアメリカ」

「アメリカ? じゃあ、聖さんに……」


不快な不協和音が石の壁にこだました。


「どうして追い出そうとするの?! どうして何も教えてくれないの? 三年間、ずっと、そばにいてくれたじゃない! 話を聞いてくれたじゃない! それなのに、私は直己さんの病気のことだって、全然知らなかった!」


少女に泣き顔を向けられて、直己は苦しげに目を逸らした。


「世の中には、知ったってどうにもならないことも、知らない方が良いこともあるんです。でも、これだけは知っておいた方がいい。あなたを幸せにできるのは私じゃない」

「どうして言い切れるの?」

「言い切れますよ。賭けたっていい。もっとも賭けるものなんて何にもありませんが……」


「じゃあ、何か弾いて」

「じゃあって、どういう意味です?」


苦笑しながらも、まっすぐこちらに向かってくる直己の姿が、写真の中のタキシード姿の青年と重なった。

鍵盤に触れる指先から流れ始めた旋律は「きらきら星」。

ピアノとオルガンで楽器は違うものの、コンテストで何度も賞をとっている弟の弾き方と、直己の弾き方はよく似ている。


「すごく上手なのね」

「そうでもないですよ。遥さんがいつも弾いていらっしゃるから、覚えてしまいました。自分で言うのもどうかと思いますが、私は器用な人間で、大抵なことは見様見真似でできるんです」


「見様見真似で楽器が弾ける?」

「器用だって言ったでしょう? 幼い頃は、兄がこのオルガンを弾くのをいつも見ていましたから」


「お兄様がオルガンを?」

「兄は私以上に器用で、オルガンでも、ピアノでも、大工仕事でも……。あ、でも、姉はそうじゃなかったな。姉は少し不器用で、でも、歌はうまかった。真琴さんもそうでしょう?」


「私は不器用なんかじゃないわ」

「ふっ、まあ、そういうことにしておきましょう」


いつしか曲は、きらきら星から、アメージンググレースに変わっていた。

有名な曲だから、学校の行事などで過去に何度か歌ったことがある。

そのことを知ってか知らずか、直己は誘うように微笑んだ。

弾きながら、歌詞を口ずさむ青年に従って、真琴の唇からも歌が流れ出す。


Amazing grace how sweet the sound

That saved a wretch like me.

I once was lost but now am found,

Was blind but now I see.


真琴の澄んだソプラノが、教会の気を震わせる。

塗りの剥げたマリア像が、口元にかすかな微笑を浮かべて目を閉じている。

青年の横顔は幸せそうで、青年が弾くアメージンググレースは優しかった。


曲が終わって、はっと我に返った時、青年の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「まるで・・・昔に戻ったようだ」

ありがとうと微笑まれて、真琴は曖昧にうなずいた。


結局、直己は、真琴の質問には答えていない。

また、はぐらかされたと思ったが、それを責める気にはなれなかった。

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