30.天辺2
背後から絡み付いてきた細い腕。
少年は無造作にその腕を払いのけ、未練がましくケータイの画面を覗き込んだ。
「電話でしゃべってて聞こえなかったんだけど、今、何かいった?」
「ううん別に、ハル君って、呼んだだけ」
邪気のない言葉を返されて、遥はがくりと脱力した。
こちらからかけなおすことは簡単なことだったし、すぐにでも真琴の声を聞きたかった。
全てを話せば真琴は理解してくれるだろう。
でも……。
遥はいらいらと髪をかきあげた。
言えないことが多すぎる。
「どうしたの?」
砂糖菓子のような声。
フードから覗くカールした髪。
真下広夢は、遥の前に回り込み、少年の顔を覗き込んだ。
案の定、少年はこの上なく不機嫌で、少女の顔を見ようとはしなかった。
こっちへ来てから、いや、ニューヨーク市警にコネがあるという嘘がばれてから、少年の笑顔を見たことがない。
でも、そんなことはどうでもいい。
機嫌が良くても悪くても、一条遥が美しいことに変わりはないのだから。
リンカーンセンターの広場で噴水を見つめる少年の横顔を、いくつもの目が見つめている。
黒いパンツにブルーグレーのタートルネックのセーター。
その上から薄手の黒いコートをひっかけただけのシンプルな組み合わせが、着飾った誰よりもおしゃれに見える。
若い女、若くない女、ゲイ、そして、何かのスカウトと思しき連中が、次々と遥に声をかけてくる。
玉石混交の申出を全て断って、遥は動じることがない。
「マコの声が怒ってた。僕が外国で遊びほうけていると思っているんだ」
この世の終わりのような落ち込んだ口調に、広夢の眉が持ち上がる。
容姿にも才能にも恵まれた遥には、怖いものなどないように見えるのに、双子の姉だけは別格のようだ。
「そろそろお姉さん離れした方がいいんじゃない?」
何気なく告げた一言に、遥は傷ついた顔をした。
「君はどうして僕の行くところについてくるの?」
不快そうに告げられて、広夢は視線を泳がせた。
「だって、ハル君、外国は初めてだって……」
「初めてだけど?」
「だったら、色々、困るでしょう? その、私、こっちに土地勘があるし……」
言ってから、いたたまれない思いで俯いた。
遥は土地勘のあるガイドなんか必要としていない。
最初はアイドルを追いかけるファンのような気持ちだった。
知人を見送りにいった空港で、一条遥の姿を見つけた時、身体が勝手に動いていた。
真琴の姿が遥の周囲にないという状況も、広夢の背中を押していた。
ニューヨークへ行くと聞かされて、その場でチケットを買ってしまったが、嘘をついたのは失敗だった。
遥は何かを調べているようだった。
ニューヨーク市警、ジュリアード音楽院、地元のマスコミ、病院など、電話をかけたり、メールを送ったりしながら、次々とアポを取り付けては、地図を片手に出かけて行く。
はたで見る限りでは、言葉に不自由しているようには見えない。
「何を調べてるの?」
予想したとおり、答えは返ってこなかった。
吹く風の冷たさに広夢が思わず身をすくめた時、エヴリフィッシャー・ホール、メトロポリタン・オペラ、ニューヨーク・シティー・オペラと、コの字型に並んだ壮麗な建築群に一斉に明かりが灯り始めた。
建物群には目もくれず、遥はすっくと立ち上がり、日本に帰ると言い出した。
「か、帰るって、いつ?」
「明日」
「じゃ、じゃあ、今夜は私が泊まっている部屋に……」
「君の部屋?」
真顔で聞き返されて、頬に血がのぼっていく。
ニューヨークについたその日、半ば強引に遥を自分の部屋に招きいれた。
遥に抱かれ、彼女にしてもらった気になっていた。
「そんな気分じゃないよ」
そっけなく告げられて泣きそうになった。
「真琴に言うから!」
「何を?」
「遥君に捨てられたって、真琴に言うから!」
遥の腕が伸びてきた。
「いいよ、言えば?」
天使のような微笑を浮かべている。
抱き寄せられて夢心地になった時、頭上から優しい声が降ってきた。
「でも、気をつけてね。僕はマコ以外の人間には、いくらでも冷たくなれるから」
あんまり優しい声だったから、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
夢から覚め、愕然と目を見張った広夢の頬に、キスが一つ落ちてきた。