29.天辺1
着信拒否はいつのまにか解除されていた。
つながらないはずのケータイは、耳慣れない呼び出し音の後、嘘のようにあっけなくつながった。
「ハル」
名前を呼んだだけなのに、弟が小さく息を飲む。
「泣いてるの? マコ、ねえ、どうしたの?」
真琴はケータイを耳に押し付けた。
声が震えていたわけでもなければ、かすれていたわけでもない。
それなのに、どんなささいな異変も、弟にはすぐに見抜かれてしまう。
「私は大丈夫。でも、直己さんが……」
「戻ってきたの!? 何かされたの? 真琴、あの人は……」
「ハル、待って! お願いだから、先に私の話を聞いてくれる?」
見知らぬ男が家の中に入ってきたこと。
拳銃を突きつけられたこと。
ピアノの音が聞こえてきて、遥かと思ったらそうじゃなかったこと。
「部屋に足を踏み入れた途端、その人が床にしゃがみこんだの。腕にナイフが刺さっていて、目の前に直己さんが立っていた……」
遥は辛抱強く沈黙を守っている。
電話の向こうでどんな顔をしているのか、真琴は考えないことにした。
目を覚ました時、真琴はリビングのソファーに寝かされていた。
ピアノ室には、直己の姿も男の姿もなく、床に広がっていた鮮血も跡形もなく消えていた。
そのまま茫然としていると、聖が様子を見にやってきた。
聖には何も話さなかった。
もしも話してしまったら、聖は真琴を美山家から出さなくなるだろう。
「直己さんを探したいの。私は銃を突きつけられていたんだから、今回のことは正当防衛で……]
「そんなの逃げた時点でアウトだよ。マコ、もうあの人には関わっちゃだめだ。できだけ早く戻るから、しばらくの間、ヒー君のところに……」
誰も彼もが聖の名を口にする。
まるでやっかいものを押し付けるかのように。
「ハルはどこにるの?」
冷静な口調で訊ねると、ハルカは急におとなしくなり、言いにくそうに「アメリカ」と答えた。
「アメリカ!? アメリカのどこ?」
「ニューヨーク」
思ってもみなかった。
学校はしょっちゅうさぼってたし、バイトで家を空けることも多かったけど、母親が意識不明で大変な状況の中、黙って海外へ行くことなど、今までの遥からは考えられない。
無意識にケータイを耳に押し当てた時、「ハル君」と弟の名を呼ぶ声がした。
そのたった一言で、真琴には、その声の主がわかってしまった。
そういえば、一週間前に母親の病院にお見舞いに来てくれて以来、一度も姿を見ていない。
「ハル、どうして広夢がいるの」
「ヒロム? 誰? そんなことよりさ……」
どうしてごまかすのだろう。
遥の考えていることが、わからない。
真琴の手からケータイが滑り落ち、床の上に転がった。




