第五十五話:妖魔討伐作戦その四
遊撃小隊の兵士たちによって誘い出されたランクの低い妖魔を討伐することに、不満を募らせていた御堂虎次郎は、指揮する予備役部隊を引き連れて大公国軍の指揮下を離れた。
もちろんそんな身勝手なことは、軍規にもとる許されざる愚行であり、大公国軍総指揮官をつとめる一花の知るところとなった。
しかしながら、妖魔討伐作戦の発案者であり、その作戦で華々しい戦果を挙げることしか考えていない御堂虎次郎は、自分の行動が軍規に背いているものだということまで考えが及んでいなかった。
虎次郎率いる予備役部隊は、彼を先頭に悠然と妖魔のテリトリーへと侵入を果たした。
前線の位置からは、五キロ弱富士山跡地に向かって前進したことになるが、その途中々々でランクの低い妖魔討ち果たし、敵の本拠に乗り込んだ高揚感と併せて、周囲の様相が変化していることに、彼らが気付くことはなかった。
もともと虎次郎に付き従う予備役部隊には、貴族家に連なる者が多いため、その”気”力は一般兵と比べて高い傾向にあった。
一般兵の平均”気”力が百五十前後であるのに対し、彼らのそれは三百に近い。
さらに、虎次郎の腰ぎんちゃくに位置する者たちは、五百前後の”気”力持ちであり、虎次郎に至っては、名門貴族嫡男の名に恥じない千強の”気”力を有していた。
彼らが不用意に垂れ流す”気”に寄ってきたカテゴリー三の大山犬を、寄ってたかって宝玉がはめ込まれた軍刀で切りつけ、虎次郎がとどめにその首を切り飛ばし、刀を天に向けて突き上げた。
「高貴なる我ら選ばし者の前に敵はない! 妖魔どもを殲滅させようぞ!」
妖魔をしとめて興奮冷めやらぬ虎次郎の叫びに、呼応するかのように雄たけびが上がった。
しかし次の瞬間、彼らの高揚しきった感情は、絶望のそれへとベクトルを変えることになった。
虎次郎ら数百名の一団がが垂れ流す”気”に反応したのは、切り伏せられた大山犬だけではなかったのだ。
彼らの横手から、のそりのそりの近づいていた大爪熊が両腕をあげて立ち上がり、大気をビリビリと振るわせるほどの咆哮を上げた。
一瞬、あたりは静寂に支配されるが、次の瞬間には悲鳴と絶叫が響くことになった。
立ち上がって咆哮を上げた大爪熊は、身をかがめて一瞬のうちに一段の中へと殴り込み、その巨大で鋭い爪を、何度も何度も振りぬいたのだった。
予備役兵たちは渾身の力で刀を振るって対抗しようと試みたが、大爪熊のあまりの硬さに、その刀はむなしく弾かれるだけだった。
爪に腹を裂かれ、あるいは首から上を吹き飛ばされ、一瞬のうちに数名が命を散らした。
大爪熊はカテゴリー四にあたる妖魔だが、その強さを知る十分に訓練された正規兵ならば、無謀に近づいたり、ましてや切りかかったりすることはない。
集団で連携し、注意を分散させて戦うことを徹底することができる。
今、大爪熊に急襲され、逃げ惑う予備役兵のように、醜態をさらすことなどあり得ないのだ。
大爪熊に急襲された虎次郎率いる予備役兵の一団は、一瞬のうちに戦意喪失し、恐慌状態に陥っていた。
すでに十名近い者が命を散らし、散り散りに逃亡する兵まで現れた。
虎次郎はこの惨状を目の当たりにし、殺戮の限りを尽くしている大爪熊に恐怖するより先に、そして倒れて動かなくなった者を案ずるより先に、逃げ惑い、醜態を晒す兵らを嘆いた。
なんと、なんと情けないことか。
これが選ばれし者たちだというのか、いや、真に選ばれし高貴なる者は敵に後背を晒すような醜態など決して晒さぬ。
「たかが妖魔ごときに無様な姿をさらすな! 敵に後ろを見せるような臆病者に用などない。我こそと思うものは私に続けぇ!」
虎次郎の鼓舞に付き従ったのは腰ぎんちゃく五名のみだった。
その腰ぎんちゃく全員が恐怖を顔に貼りつけてはいるが、歯を食いしばって刀を握る両手に力を籠め、敵に向かって走りだした虎次郎に続いた。
死と”妖気”をまき散らしながら一暴れした大爪熊は、近づいてくる高濃度の”気”の塊に気づいた。
そしてひときわ大きな咆哮をあげると、その一団に突進したのだった。
突進してくる大爪熊を迎え撃とうとした虎次郎は、何が起こったのか理解できなかった。
全身からみなぎる”気”を体にまとい、全力で大爪熊に切りかかったところまでは記憶にあった。
しかし気がついてみれば、自分の体は天高く打ち上げられ、はるか眼下に兵たちに巨大な爪を振りかざす大爪熊が見えた。
そして同時に、腹のあたりから込み上げてくるような熱さに気がついた。
すでに刀は彼の手にはなく、空いた右手で腹をさすった虎次郎が感じたものは、生温かいぬめりと急激に増してくる激痛だった。
すでに落下しはじめ、大地が目前に迫った虎次郎は、なんとか着地の態勢を整えるが、大地に足が触れ、その衝撃が体中を駆け巡った瞬間、腹からくる激痛が彼の意識を刈り取ろうとした。
しかし、虎次郎はその激痛になんとか耐え、もうろうとしながらも、なんとか意識をつなぎとめた。
渾身の力で放った一撃。
その一撃をいともたやすく払いのけ、次の瞬間にはその凶悪で鋭い爪が虎次郎の腹に突き刺さっていた。
その衝撃で、虎次郎は天高く舞うことになったわけだが、強敵との実戦など経験が無かった彼に、その瞬間を見極めることなどできるはずがなかった。
大爪熊の圧倒的な戦闘力の前に、いかに最高の装備に身を固めようと、”気”力千程度の未熟な人間が敵うわけがない。
そんな当然の理屈が虎次郎には理解できなかった。
甘やかされて育ち、敵対する者など一人もいなかった。
学友と刀術を競っても、敗北した経験など一度たりともなかった。
もちろんそれは、虎次郎の”気”力が高いこともあるが、本当の理由は、対戦者が彼に勝とうとしなかったからだ。
持ち上げられ、おべっかを使われ続けた結果が今の虎次郎を形成していた。
そんな虎次郎が、はじめて敗北を意識した。
落下して激痛に耐えている虎次郎に気づいた大爪熊が、あざ笑うかのようにジリジリと彼との距離を詰めてくる。
虎次郎は激痛に耐えながらも、腹からの止血に”気”を流し、そして身構えた。
もう彼の周りには一人の味方もいない。
大爪熊は、最後の獲物を逃すまいとその爪を振り上げた。
そしてその凶悪な爪が振り下ろされた瞬間、虎次郎は残った力を振り絞って横方向に飛び退った。
はじめて味わう死の恐怖に、硬直しそうになった虎次郎だったが、名を成し、目的を果たさぬまま果てるわけにはいかなかった。
それが彼に最後の力を振り絞らせた。
「私はまだ何もなしてはいない。こんなところでのたれ死ぬわけにはいかぬのだ」
視線を大爪熊に固定したまま、身を低くしてジリジリと後ずさり、一瞬の隙を見て虎次郎は駆けだしていた。
敵に背を向けて逃走するという屈辱にまみれても、今死ぬわけにはいかなかった。
必死に走り続ける虎次郎を、大爪熊は執拗に追いたてる。
運が悪いことに、彼が逃走した方向は妖魔本拠の中心に向かっていた。
恐怖と助かりたい一心で、逃げるべき方向まで考えが回らなかったのだ。
必死になって逃げる虎次郎。
そして彼を追いたてる大爪熊。
ジリジリとその差がつまり、虎次郎は大爪熊の息遣いと”妖気”を、その肌で感じるまでになった。
もうダメだ。
虎次郎がそう思った次の瞬間、彼の足もとが急激に盛り上がり、大地がはじけた。
投げ出されるように十数メートル空中を走った虎次郎は、着地を決めることもかなわずゴロゴロと転がって奇跡的に難を逃れていた。
わけが分からないままに顔を上げた彼の視界には、大爪熊を包みこむように咥えた不気味で巨大な何かがそびえ立っていた。
このとき虎次郎は、一時的にでも助かった安堵よりも、その不気味な何かから放たれる圧倒的な威圧感に腰が抜け、視線を外すことも、立ち上がって逃げることもできなくなっていた。
その状況を的確に表現するならば、虎次郎はまさに、蛇にニラまれて動けなくなったカエルそのものだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
遥を抱きかかえて大空に舞い上がった俺は、一花が向かった先を目指して全力で空を駆けた。
”気”で翼を形成することで、飛ぶことに難はなくなったが、速度的にはまだまだ満足できるレベルには至っていないと自覚している。
しかしそれでも、馬で駆けるよりは格段に早い速度での飛行は実現できていた。
距離がありすぎて、一花の位置を特定することはできなかったが、凛さんに教えてもらった方向にしばらく飛んでいると、ようやく”気”のレーダーに彼女の影が映りこんだ。
方向を少しだけ西に変え、きもち高度を落としてしばらく飛ぶと、全速力で馬を走らせている一花と、それを追っている五名のおそらく将官が、俺の視界に飛び込んできた。
俺は高度をさらに落とし、地上五メートルほどを保ちつつ一花に追いついた。
同時に、前方から数名の兵士らしき影が走り来る姿が見えてきた。
が、今はそんなことより。
「一花ちゃん」
不意に上空から声をかけられたからだろうか、一花はすこし目を丸くして振り向いた。
けれども俺の顔を見た途端に、安心したように一瞬だけ笑顔を見せてくれた。
俺は一花の横に移動し、前から人が駆けてきていることを疑問形で告げることにした。
「あれは逃げ出してきたのかな」
目を細めて前方を注視した一花が馬の勢いを緩めた。
彼女を追っている将官も、併せて馬の速度を緩めている。
「まちがいありません。おそらく予備役兵でしょう。事情を聞いてみます」
「分かった。まかせるよ」
駆けてきた兵士二人の前をふさぐように一花が馬を止めると、兵士はぜいぜいと息を切らしながらも、安堵の表情を浮かべた。
俺は一旦地上に降り、遥とともに話を聞くことにした。
「何があったのですか? 詳しく状況を報告なさい」
馬から降りることなく、一花は問いかけた。
しかしその口調は、苛立っているからだろうか、いつもとは違う棘のあるものだった。
兵士二人は、息が上がってしばらく話すことができなかったが、キツめの視線で見下ろしている一花に気づくと、安心しきっていた顔を再びこわばらせ、慌てるように片膝をつき、視線を合わせないようにうつむき気味にその口を開いた。
「一花様におかれましては」
「かたくるしい挨拶は不要です。要点だけを簡潔に述べなさい」
「ハッ、こっ、御堂虎次郎様の号令に従い、部隊を前進させ――」
緊張と恐怖からだろうか、報告する兵士の声は上ずったかん高いものになっていた。
そしてその報告は、呆れかえるほどに自己中心的で、無謀かつ迷惑極まりないものであり、まさに開いた口がふさがらない内容だった。
一花も俺と同じことを思ったのだろうか、報告を聞く顔がしだいに険しいものへとなっていくのがありありと見てとれた。
兵士二人を取り囲むように馬上から見下ろしている将官たちも、一花と同じように険しい顔つきになっている。
「――巨大な熊型の妖魔に襲撃され、恥ずかしながら逃げてまいりました」
「わかりました。御堂虎次郎には開いた口がふさがりませんが、今は救出を急ぐしかありませんね。貴方たちは早急に撤退なさい。追って連絡があるでしょうから自宅待機を命じます」
一花の命を受け、こわばった兵士二人の顔が絶望の色に染められたとき、俺のレーダー網にかかるいくつかの影が現れた。
そしてその状況は、予断を許さない危機迫るものだった。
「一花ちゃん、マズい状況になった。おそらくカテゴリー四の妖魔が三体と雑魚妖魔が十数体。大勢の兵士を追いたてている。方向はあっちだ。もうすぐ見えてくると思う」
「なんですって!」
そう叫んだ一花の顔には焦りの色が色濃くうかがえた。
「藤崎以外の将校は即座に戦線に戻りなさい。そして戦線を通常位置まで後退し、防衛活動に入りなさい」
「ハッ」
綺麗に四人で息を合わせるかのように敬礼を返した将校たちが、急ぎ前線へと馬を走らせた。
残った一花と藤崎さん、そして俺と遥が富士山跡地方向に目を凝らす。
しばらくして大勢の人影が視界に飛び込んできた。
「カテゴリー四の妖魔は私が引きつけ、始末します。藤崎と遥さんは討ち漏らした雑魚をお願いします。空様は上空から偵察をお願いできますか?」
「えっ? 俺も戦うよ」
「カテゴリー四が三体程度なら私ひとりで瞬殺できます。空様の手を煩わせる必要などありませんよ。それよりも、嫌な予感がするのです。バカどものおかげで寝ていた妖魔たちが動きだしました。空様にはその状況を探ってほしいのです」
「分かったよ一花ちゃん。じゃあ時間がないから俺は行くよ。遥はあまり無理しないようにな」
「うん、一花様も藤崎さんもいるから大丈夫」
「期待していますよ。空様」
けなげに笑顔を見せてくれた遥と、ようやく笑顔を見せてくれた一花の期待に応えるべく”気”の翼を広げた俺は、大空へと向けて飛びたったのだった。




