第二十八話:豊田鉱山その八
俺の前方十メートルまで近づいてきた巨大カマキリは、そこで立ちどまると両カマをゆっくり振り上げた。
その高さは十五メートル近く、その圧倒的存在感と不気味さは、思わず尻込みしてしまいそうな恐怖感を俺に抱かせるに十分だった。
あんな高さから振り下ろされるカマをまともに喰らったら、と思うと生きた心地がしないし、カスっただけでもどうなるか分からない。
とにかく避けることに集中すべきだ。
そうとしか思えなかった俺は、全神経をカマキリの動きに集中した。
カマキリからあふれ出るまがまがしい”妖気”が、俺の”気”と反応してチリチリと痛い。
その痛みが俺を奮い立たせた。
刹那、唐突にカマが振り下ろされる。
とっさに全力で、俺は後方に跳び退った。
ヴゥォン、と鈍い風切り音とともに振り下ろされたカマが、俺がさっきまでいた場所に深く深く突き刺さっている。
それでもカマキリは止まらない。
大地に突き刺さっていないほうのカマが、跳び退った俺を追いかけるように横なぎに振るわれた。
しかし、カマキリの動きに集中している俺に当たることはない。
とっさに屈みこみ、俺の頭上を通り過ぎたカマから不気味な重低音が聞こえてくる。
同時に、”妖気”と”気”がぶつかり合って閃光がはじけた。
その閃光に気を取られることなく、俺は低くした重心を活かすように真横へと跳び退いた。
今のはヤバかった。
本当にヤバかった。
奴の間合いは十五メートル近いし、一撃目より格段に速度が上がっていた。
しかし、間合いはだいたい分かったし、俺の速度のほうがまだ上だった。
あの程度と今の俺が言うのはおこがましいかもしれないが、今の攻撃だったら避け続けられる。
そう確信できたことは大きかった。
自慢のカマを二度も躱され、苛立つようにギロリと、漆黒の巨大なまなこをその顔ごと俺に向けてきたカマキリを、これ見よがしに挑発する。
「そんなに俺が喰いたいか。けどなぁ、喰われてなんかやらねぇからなぁ!」
カマキリに俺の言葉が理解できないことなど、言われなくても分かりきっている。
それでも、俺は自分を奮い立たせるために叫んでいた。
その叫びがカマキリを刺激したのだろうか、次の攻撃はさっきのなぎ払いよりも速度が上がっていた。
しかし、俺にはまだまだ余裕がある。
避けることに徹した今の俺に、その程度の攻撃など当たりはしない。
俺はカマキリの周りを、まるでバッタにでもなったかのように跳びまわり、カマを避け続けた。
左、右、前、後ろ、それこそ自由自在に避けまくった。
バッタは後ろに跳べないというツッコミは無しだ。
そういうへ理屈をこねる不届き者には、コイツのカマをプレゼントしてやる。
なんてことを考えられるくらいの余裕が、今の俺にはあった。
余裕ができれば自然と体の動きも切れてくる。
今の俺に触れられるのは、辺りに満ちる空気くらいだ。
そんな感じで、少し調子に乗ってはいたが、すでに一時間以上は跳びまわりつづけた。
が、人間というモノ、動き回っていればいくら余裕があっても、いずれはどこかが疲れる運命にあるのも当然の節理だ。
それは当然、最も酷使していた俺の両足だった。
ついに両足の筋肉が悲鳴を上げはじめる。
ツリそうだとかそういうのじゃない。
酷使しすぎて熱をもちはじめたのだ。
そのせいで瞬発力が落ちてきている。
クールダウンしなければ。
もう少し、もう少し避け続けて時間を稼げば、最低のノルマは達成できる。
そのためにも何とかして足を冷やさなくては。
そう考えた俺の目に飛び込んできたのは、宿屋街の周りにぐるりと掘られた堀だった。
それはもう一目散に俺は走ったね。
脱兎のように逃げ出すという形容句が、まさにピッタリ当てはまるように堀へと向かって走り、そして飛び込んだ。
カマキリの足はそんなに速くない。
引き離して水の中で態勢を立て直す時間は十分にあるはずだ。
問題は、奴のカマが幅十メートルの堀のどこにいても届くということだ。
しかし、届くにしても濁った水の中に深く潜ってしまえば俺の位置はとらえきれまい。
カマキリの位置を確認した俺は、水中深く潜ってそのまま堀の中を泳いで移動する。
そして、飛び込んだ位置から三十メートルは離れたところで水面に顔を出した。
案の定カマキリは俺が飛び込んだ位置にカマを振り下ろしている。
「バカめ」
俺はカマキリが気づくまで”気”を抑えて待った。
十秒、二十秒、三十秒。
稼げるときに少しでも時間を稼ぐ。
奴が俺に気づく。
カマキリが向かってきたことを確認してから俺は再び水中に身を隠し、そして水の中を移動していく。
こんどは最初に飛び込んだ場所の近くから顔をだした。
もうじゅうぶん足の筋肉はクールダウンできていた。
これ以上水の中にいる必要もない。
そう考えた俺は、堀から飛びだす。
そしてカマキリが俺に気づく。
再び俺は広い場所へと走った。
カマキリも追走してくる。
さぁて第二ラウンドのはじまりだ。
そう単純に思って、変化に気づかなかった俺が浅はかだったのかもしれない。
カマキリのなぎ払いを後ろに跳び退って躱そうとした俺の体に、カマの外側がわずかにカスった。
理由はすぐに分かった。
水にぬれて重くなった服と、水を吸ったズボンが俺の動きを鈍らせていたのだ。
せっかく水に入って筋肉をクールダウンしたというのに、なんと間抜けなミスを犯したことか。
とっさに身構えて”気”で防御したから良かったものの、俺の体はバットで打たれたボールのように、五十メートルは吹き飛ばされ、そこからさらに地面を数回バウンドしながら二十メートルほど転がってようやく止まったのである。
幸いなことは、俺の体が”気”で超強化されていたことだろう。
それも人一倍濃密な”気”で。
そうしていなければ確実に死んでいた。
カマの外側がカスった俺の左腕はジンジンと疼いているが、骨は折れていないし体も動く。
それにしても今のはヤバかった。
もしカマのとがった先端が当たっていたら、どうなっていたか……
考えただけで背筋が凍りそうになった。
もう二度と気を抜くまい。
そう思って立ち上がった俺は、カマキリとの距離を再確認する。
その距離はまだ五十メートル以上。
今のうちに呼吸を整え、気を落ち着かせなければ。
俺が今対峙しているのは、どう考えてもカテゴリー五の圧倒的存在なんだ。
災害級の存在なんだ。
調子に乗っちゃいけない存在なんだ。
調子に乗りやすい自分を戒めるようにそう考えながら、泥で汚れた服を見たときだった。
吹き飛ばされた衝撃で服の中から表に出ていた紫水晶。
それを見た途端俺はピンときたね。
コレがあったじゃないか。
”気”を強化できる唯一のアイテム。
紫は赤と青の混ざった色だ。
赤は”気”の攻撃力、青は回復力を上げる効果が秘められている。
しかも、”妖気”にとって”気”の回復力はそのまま攻撃力に転換される。
つまり、紫水晶を通してツルハシに俺の気を送り込めば、俺の攻撃力は格段に跳ね上がるはずだ。
ついさっきまで調子に乗るなと自分に言い聞かせていた俺だったが、これを試さないわけにはいかないだろう、という思いがみるみるうちに大きくなった。
全力でツルハシを振るって、カマを避ける動作をおろそかにするわけにはいかないが、隙あらば攻撃してみよう。
攻撃はじゅうぶんな余裕があるときだけ。
そう心に誓って俺はカマキリが近づいてくるのを待った。
右手に紫水晶を握りこんだまま、遥から借りたツルハシを構えて。
「いままで散々もてあそんでくれたが、今度は俺の番だ。覚悟しやがれ」
新しい攻略法を思いついた俺は、今までさんざんもてあそばれて、たまっていた鬱憤を晴らさでなるものかと、叫んでいた。
まあ、もてあそばれ続たおかげでカマキリ野郎の動きは体で覚えている。
だが俺はそんなことに恩義など感じはしない。
キッチリあだで返してやる。
新たな武器を手に入れた俺はウキウキだった。
ついさっきまで逃げ回ることしかできなかったのに、武器を手に入れた途端このありさまだ。
でもそんなことはどうでもいい。
単純な奴だとバカにされても、あほな奴だと呆れられても一向にかまわない。
ようは気持ちの持ちようだ。
希望を見出して体も心も可軽くなったような気がする。
それでいいじゃないか。
ウキウキ気分でカマキリの攻撃を待った俺は、カマが振り下ろされると、それはもう待ってました言わんばかりに襲い来るカマをするりと躱す。
そしてその勢いを殺さないように、走り抜けざまに奴の左後ろ足めがけてツルハシを振りぬいた。
もちろん紫水晶を介して俺の極限にまで圧縮し、練り込んた”気”をツルハシに送り込んでいる。
その効果ははたして?
ガキィィィイン、と、かん高い金属音が余韻を残し、青白い火花を飛ばしでツルハシがはじかれた。
が、しかし。
振り返って確認すれば、カマキリの足には深さ五ミリ長さ十センチくらいの傷跡が、俺の超強化された神眼のごとき二つのまなこに、それはもうクッキリハッキリまざまざと映り込んでいた。
「ククククククッ、今のは俺様の手のうちでも最弱の攻撃! ほんの小手調べだ。俺様本来の技と力、秘められた聖なる力に恐れおののくがいい。グゥワハハハハハッ」
これは決して負け惜しみなんかじゃない。
四天王の中ではとまでは言ってないから負けフラグでもない。
強がりでも虚勢でも負け犬の遠吠えでもない。
純然たる俺の魂の叫びだ。
というのは冗談で、ただ言ってみたかっただけである。
こんな恥ずかしいセリフ、人前で言えるわけないじゃないか。
そんなどうでもいいことは置いておくとして、カマキリ野郎に傷をつけることができたことは事実だ。
巨熊なんかとは比較にならないほどの圧倒的硬さは実感できたが、それでも手傷を負わせることには成功した。
ほら、小さな努力もコツコツと、とか、石の上にも三年、とか、チリも積もればなんとやら、とかよく言うじゃないか。
時間はかかるかもしれないが、根気よく攻撃し続ければ、巨熊の時みたいに憎きカマキリ野郎も倒せるはずだ。
そう考えたらなんだかやる気が出てきた。
本音を言えばカマキリ野郎のあまりの硬さに辟易したいところなのだが、そんなネガティブシンキングは俺のたちじゃない。
ここはひとつ長期戦と行こうじゃないか。
本来は時間稼ぎが俺の役目だと思って頑張っていたが、倒せるのなら倒した方が良いに決まっている。
そう決心した俺は、ただひたすら動き回り、ツルハシを振り、少しずつ少しずつカマキリの足にダメージを蓄積させていった。
狙ったのは四本ある足のうち二本。
左後ろ足と右前足だ。
ハスに足を切り落とすことができれば、切り落とせなくても折ることができれば、カマキリはかならず歩行困難になる。
いや、なってくれ。
そう考えてツルハシを振るい続けた。
あまりの硬さに途中何回もくじけそうになったが、諦めることなくツルハシを振るい続けた。
そして、もう何回ツルハシを叩きつけただろう。
そう考えはじめた次の一撃。
グシャッ、という湿った音ともに、カマキリの左足から紫がかったドス黒い体液と、濃密な”妖気”が勢いよく吹き出してきた。
それが俺の”気”と反応して閃光を伴った蒸気を上げる。
ようやく、ようやくカマキリの硬い硬い外骨格に穴が開いたということだ。
苦労が報われた瞬間だ。
コツコツコツコツ頑張った俺の努力が実った瞬間だ。
しかし、ここで焦ってはいけない。
焦って大振りになれば、鋭く、そして異常に重いカマの餌食なるかもしれない。
俺はそう心に誓って再び攻撃を再開した。
遠い間合いのなぎ払いをしゃがみ込んで躱し、そのまま一足飛びに接近しては振り下ろすされるカマを避け、豪快な火花を散らしながらツルハシを振り抜いては離脱する。
左後ろ足、右前足、左後ろ足、右前足、左後ろ足、右前足……
延々と回避、攻撃、そして離脱をルーチンワークのごとく正確に繰り返す。
そしうしているうちに、ついに右前足からも体液が吹き出した。
左後ろ足はもうすぐ折れそうだ。
そんな喜ぶべきとにも一喜一憂することなく、修行僧のように無心を心掛け、なかば器械的にルーチンワークを続行していった。
そしてついに待望の瞬間がやってきた、ベキョォ、という鈍い音ともに左後ろ足が折れたのである。
しかしまだ、カマキリ野郎はバランスを崩しやがらない。
三本の足で器用に動き回っていやがる。
が、動きはそうとう遅く、そして攻撃も緩慢になってきた。
カマキリが遅くなっても、俺は止まらない、躊躇しない。
怒涛のような連続攻撃を右前足に集中させる。
そしてまもなく右前脚がベキョリと折れた。
ついにカマキリ野郎がバランスを崩す。
そして、思うように俺を追えなくなった。
しかし……
「なんてこった。畜生、ツイてねぇ」
不測の事態が俺を襲ったのだった。