第12話 白鷺館
八月四日 午後九時前。
白鷺館の二号棟は、住宅地から少し離れた場所に建っていた。
五階建ての古い共同住宅で、外壁はところどころ黒ずみ、窓ガラスの割れている部屋もある。正面玄関には板が打ちつけられ、敷地の周囲には立入禁止の表示が残されていた。
近くに人家はあるものの、この一角だけが周囲から切り離されているように暗かった。
「裏口から入れるらしいです」
佐伯がスマートフォンの画面を確認しながら言った。
「管理会社の人から聞きました。正面は塞いでありますけど、建物の裏に管理用の出入口が残っているそうです」
「よくやった、友蔵」
「ありがとうございます、玲子先輩」
佐伯はうれしそうに答えた。
「いちいち友蔵って呼ぶ必要ありますか?」
「部員同士は名前で呼ぶ決まりだ」
「俺以外は普通の名前じゃないですか」
「名前に普通も異常もない」
「玲子先輩が言うと説得力ありますね」
「褒めても何も出ないぞ」
褒めたつもりではなかったが、佐伯は黙った。
四人は建物の脇を通り、裏側へ回った。
雑草に半ば隠れた細い通路の先に、錆びた鉄扉がある。佐伯が管理会社から聞いた番号を小さな鍵箱へ入力すると、中から鍵が出てきた。
扉を開く。
湿った空気が、建物の中から流れてきた。
「暗いね」
莉子がスマートフォンのライトをつけた。
直人も自分のライトをつける。
玲子は小型の懐中電灯を手にしていた。佐伯も事前に用意していたらしく、細長いライトを取り出した。
裏口の先には、コンクリートの階段があった。
壁には緑色の苔が広がり、階段の隅には落ち葉や砂がたまっている。空気には古い水場のような臭いが混じっていた。
直人は上を見上げた。
ライトの光が届く範囲より先は、真っ暗だった。
「洗濯物が干してあるのは三階でしたよね」
直人が聞く。
「確か、三階だったよ」
莉子が答えた。
「だったら、この階段で三階まで上がって、確認したら帰りましょう」
玲子が直人を見る。
「何を言っている」
「目的は洗濯物の確認ですよね」
「一階から丹念に調べる」
「一部屋ずつですか?」
「当然だ」
「目的だけ済ませれば十分でしょう」
「途中に手がかりがあるかもしれない」
「何の手がかりですか」
「それを調べるために来たんだ」
話が逆になっている気がした。
「さすが玲子先輩です」
佐伯が感心したように言った。
「一切の手がかりを見逃さないおつもりなんですね」
「その通りだ」
「お前は何でも褒めるな」
「面白そうだし、一階から見てもいいんじゃない?」
莉子まで玲子に賛成した。
「三対一かよ」
直人は諦めて、三人のあとを歩いた。
◇
一階の廊下には、左右に三つずつ扉が並んでいた。
壁紙は大きく剥がれ、天井には黒い染みが広がっている。
四人が最初に入った部屋は、玄関の扉が開いたままになっていた。
中には何も残されていなかった。
狭い台所。
空になった棚。
畳を外された部屋。
床には細かな木片やガラスの破片が散らばっている。
玲子は入口で立ち止まり、目を閉じた。
「何かいるんですか」
直人が聞く。
「静かにしろ」
玲子は懐中電灯を消した。
「消す必要あります?」
「光が強すぎると、霊気が乱れる」
「さっきまで普通につけてましたよね」
「黙れ」
直人も仕方なくスマートフォンのライトを下へ向けた。
部屋が暗くなる。
窓の外からわずかな光が差し込んでいるが、人の顔まではよく見えない。
玲子はゆっくりと部屋の中央へ進んだ。
「ここには、誰かがいた」
「部屋なんだから、以前は誰か住んでいたでしょう」
「そういう意味ではない」
「じゃあ、どういう意味ですか」
「今も気配が残っている」
佐伯が玲子の後ろで目を閉じた。
「確かに、少し空気が重い気がします」
「湿気だろ」
「お前も集中しろ」
玲子に言われ、直人は黙った。
確かに不気味ではあった。
使われなくなった建物の暗い部屋で、床には何が落ちているか分からない。壁の向こうから物音が聞こえてきても、それが人間なのか、動物なのか、建物が軋んだだけなのか判断できないだろう。
だが、それと幽霊がいることは別だった。
莉子は壁際にしゃがみ、床を照らしている。
「何してるんだ?」
「足跡がないか見てる」
「ある?」
「私たちのもの以外は分からない。埃が薄いところもあるけど、管理の人が入った跡かもしれないし」
「そういう確認の方がよっぽど役に立つな」
「私の霊視が役に立たないような言い方をするな」
「聞こえてたんですか」
「ここに霊的な気配が残っていることは分かった。次へ行くぞ」
「もう終わりですか」
「長くとどまる必要はない」
玲子は懐中電灯をつけ、部屋を出た。
◇
その後も、玲子は一階のすべての部屋を確認した。
「ここには強い未練が残っている」
「この部屋は妙に静かだ。それが逆に怪しい」
「ここには何もいない」
言うことは部屋ごとに違ったが、直人にはどこも同じように見えた。
剥がれた壁紙。
埃の積もった床。
空になった棚。
莉子は最初こそ部屋の様子を細かく見ていたが、途中からは玲子の後ろをついて歩くだけになった。
佐伯だけは、玲子が何か言うたびに真剣な顔でうなずいている。
二階も似たようなものだった。
直人は歩きながら、前を行く玲子と莉子を見た。
二人とも、よくこんな暗い建物を平気で歩けるものだと思う。
直人自身、幽霊を信じているわけではない。
それでも、誰も住んでいない建物の暗い廊下には、不気味なものを感じていた。
遠くで何かが落ちるような音がすると、思わずそちらへライトを向けてしまう。
玲子はまったく気にせず進み、莉子もときどき笑いながら佐伯と話している。
「怖くないのか、お前ら」
直人が聞いた。
「怖かったら来てないよ」
莉子が答えた。
「玲子先輩がいるから安心だ」
佐伯も言った。
「あの人が一番危ない方向へ進んでるだろ」
「私に聞こえているぞ、直人」
「聞こえるように言いました」
建物へ入ってから三十分ほどして、四人は三階へ到着した。
◇
問題の部屋は、廊下の奥にあった。
ベランダ側の窓ガラスは割れておらず、外から見えた部屋の位置とも一致している。
玲子が扉へ手をかける。
「開いているな」
扉を押すと、錆びた金具が軋んだ。
四人は部屋へ入った。
室内は一階の部屋とほとんど変わらない。
だが、ベランダの近くに何かがあった。
暗闇の中で、大きな布のような物が揺れている。
「ある」
莉子が小さな声で言った。
四人が足を止めた。
窓の向こう。
ベランダの手すりに、青黒い布のようなものが引っかかっている。
風が吹くたび、人が身体を動かしているように揺れた。
「洗濯物か?」
佐伯が声を落とす。
「布団みたいにも見えるね」
莉子が目を凝らした。
玲子はしばらくそれを見つめていた。
「直人」
「何ですか」
「見てこい」
「何で俺なんですか」
「お前が一番、心霊現象を信じていないからだ」
「関係あります?」
「怖くないんだろう」
「そういう問題じゃないでしょう」
「平部員は部長の命令に従え」
直人は玲子を見る。
「逆らったら、前の二人みたいにクビですか?」
わずかな期待を込めて聞いた。
「いや」
玲子は即答した。
「今夜、お前の部屋へ泊まり込んで、そこで起きる怪異を調査する」
「見てきます」
「返事が早いな」
「玲子先輩、直人の部屋に泊まり込むんですか?」
佐伯が不安そうに尋ねた。
「直人の部屋では、不思議なことがいくつも起きているらしいからな。夜通し調べれば、何か分かるかもしれない」
「そうですか……」
佐伯は目に見えて肩を落とした。
その様子を見た莉子が、口元を緩める。
「友蔵君、何で落ち込んでるの?」
「落ち込んでない」
「すごく残念そうだけど」
「気のせいだ」
「直人、早く行け」
「何でお前が急かすんだよ」
直人はベランダへ向かった。
窓を開ける。
外から湿った風が吹き込んできた。
直人はライトを向けながら、手すりへ近づいた。
青黒い物体は大きく膨らみ、またしぼむ。
直人は端をつかんだ。
「何だ、これ」
引っ張る。
錆びた手すりに絡まっていた物が外れ、直人の足元へ落ちた。
ただの青いビニールだった。
「ブルーシートですよ」
直人は部屋の中にいる三人へ広げて見せた。
「洗濯物じゃありません。ただのブルーシートが引っかかってただけです」
佐伯が近づき、足元のシートを確認する。
「本当だ」
「写真だと洗濯物みたいに見えたのかもね」
莉子もベランダへ出てきた。
「風で何かの形に見えたんだろうな」
直人は少し得意になった。
「だから言ったでしょう。誰もいない建物に洗濯物が干されてるなんて、そんな心霊現象が簡単にあるわけないんですよ」
「まだ調査は終わっていない」
玲子が言った。
「でも、噂の正体はブルーシートでしたよ」
「決めつけるな」
「見れば分かるでしょう」
直人はシートを足元へ置いた。
「本当に衝撃の内容でしたよ。ただのブルーシートだったなんて」
玲子の表情が変わった。
直人の後ろを見つめている。
「玲子先輩?」
佐伯が声をかける。
「静かにしろ」
玲子は直人の背後から視線を動かさなかった。
「何かいる」
直人は振り返った。
ベランダには誰もいない。
手すりと、その向こうに暗い敷地が見えるだけだった。
「何がいるんですか」
「女だ」
玲子が低い声で答えた。
「女の霊が、そこに立っている」
直人はもう一度周囲を見た。
何も見えない。
「莉子、見えるか?」
「全然」
莉子は目を細めたが、すぐに首を振った。
佐伯が玲子の隣へ立つ。
「俺も見えます、玲子先輩」
「本当か?」
直人が聞く。
「ああ。白い服の女が――」
「服は黒い」
玲子が言った。
「暗いから白く見えただけだ」
「今、玲子先輩の説明に合わせただろ」
「違う」
「顔はどちらを向いている?」
玲子が佐伯へ尋ねた。
「下を向いています」
「こちらを見ている」
「下を向きながら、目だけこちらを……」
「お前、本当に見えてるのか?」
「見えてる」
「だいぶ怪しいけどね」
莉子が言った。
玲子は二人の会話を無視し、ベランダの一点を見続けていた。
「ここに女の霊がいることは分かった」
「分かったのは玲子先輩だけでしょう」
「これ以上刺激しない方がいい。今日は退くぞ」
「ブルーシートを確認しただけですよ」
「直人と莉子には、まだ見えていないだけだ」
「友蔵も見えてるか怪しいですよ」
「友蔵も訓練が必要だな」
「俺は見えました、玲子先輩」
「服の色を間違えただろう」
「霊の影響で認識が乱れたんです」
「言い訳が雑だな」
玲子は三人を順番に見た。
「全員、霊感を鍛える必要がある。近いうちに訓練を行うぞ」
「俺もですか」
「当然だ」
「必要ないです」
「平部員は部長の言うことを聞け」
「嫌です」
玲子がわずかに目を細めた。
「直人。この前の紙袋の差し入れは、なかなか大胆だったな」
「訓練、楽しみですね」
直人は即座に答えた。
「さすが玲子先輩です。ぜひ参加させてください」
莉子が笑った。
「本当に態度が変わるの早いね」
「直人、お前、急にどうしたんだ?」
佐伯が不思議そうに聞く。
「俺もオカルトが少し好きになったんだよ」
「さっきまで心霊現象なんかないって言ってただろ」
「考えが変わった」
「早すぎないか?」
「玲子先輩が見た女、多分本物かもしれない。俺も何かいるような感じはしてた」
「直人君には見えてなかったよね」
莉子が言った。
「姿は見えなかったけど、気配はあった」
「俺も見えたぞ」
佐伯が言う。
「友蔵は多分、嘘だろ」
「何で俺だけ否定するんだよ!」
「玲子先輩が白い服って言ってたら、お前も白い服って言ってただろ」
「それは分からない」
「分からないのかよ」
玲子が満足そうにうなずいた。
「直人がオカルトへ興味を持ってくれたのなら、連れてきた意味があったな」
「そうですね」
佐伯もうれしそうに直人の肩をたたいた。
「お前を誘ってよかったよ」
「何だよ、急に」
「本当は少し悪かったと思ってたんだ。無理やり入部させて、こんな場所まで連れてきたから」
直人は佐伯を見た。
「本当に悪いと思ってたのかよ」
「少しだけな」
「だったら、もっと早く言えよ」
「でも、お前が楽しんでくれたなら、俺も気が楽になった」
「そうかよ」
直人はそう答えながら、玲子が持つ秘密の方が、佐伯のわずかな罪悪感よりもはるかに強いのだと思った。
◇
四人が白鷺館を出たころには、建物へ入ってから一時間ほどがたっていた。
鍵を元の場所へ戻し、大学へ戻る。
道中も玲子は、白鷺館で見たという女の霊について話し続けた。
佐伯は熱心に聞き、莉子はときどき質問する。
直人には、最後まで何も見えなかった。
見つかったのは、手すりに絡まったブルーシートだけだった。
大学の正門前へ戻ると、その日はそこで解散になった。
「明日からは霊感訓練をする。全員、覚悟しておけ」
玲子が言った。
「はい、玲子先輩」
佐伯は元気よく答えた。
「私は見学でもいい?」
莉子が尋ねる。
「全員参加だ」
「俺は参加しませんよ」
直人が言うと、玲子は思い出したように莉子を見た。
「そういえば、莉子から聞いたぞ」
「何をですか」
「お前の部屋のベッドは、かなり寝心地がいいらしいな」
直人は莉子を見る。
「何でそんなことまで話してるんだよ」
「聞かれたから答えただけだよ」
「それなら、今度は私も少し寝かせてもらおう」
「何でそうなるんですか?」
「寝心地がいいのなら、確かめてみたくなるだろう」
「なりません」
「玲子先輩、直人のベッドで寝るんですか?」
佐伯が不安そうに尋ねた。
「そのつもりだ」
「そうですか……」
佐伯は目に見えて肩を落とした。
その様子を見た莉子が吹き出す。
「友蔵君、何で落ち込んでるの?」
「落ち込んでない」
「すごく落ち込んでるように見えるけど」
「気のせいだ」
玲子は二人のやり取りを気にせず、直人へ顔を向けた。
直人は観念したように。
「霊感訓練、楽しみにしています」
「いい返事だ」
「本当に態度が変わるの早いね」
莉子は笑っていた。
玲子は満足そうに駅の方へ歩いていった。
佐伯がそのあとを追い、莉子も直人へ手を振って帰っていく。
一人になった直人は、大きく息を吐いた。
白鷺館へ行って分かったことは、洗濯物の正体がブルーシートだったこと。
玲子には女の霊が見えたらしいこと。
そして、近日中に霊感訓練へ参加させられることだった。
結局のところ、直人に残ったのは謎の答えではなく、ただの疲れだけだった。




