饗宴(前編)・3a
峡谷に濃い雲が垂れこめ、水量の増した興津川の上流から轟々と地響きが伝わってくる。
「もう、あっちの山では雨が降り始めたみたいだな」
健太郎は、バルコニーの向こうの靄に包まれた峠を眺めながらつぶやいた。「もうじきこっちにもやって来るぞ」
「おい、ロジャー、そんなことはどうでもいいんだよ」
畳に手をついて横座りしているしのぶは、裸足の足を健太郎に向けて突き出した。「お前も真面目に作戦を考えろよ。このままじゃ妙子の側に勝ち目なんかないぞ。夕方までに何か手立てを見つけないとさあ」
しのぶと健太郎は、二つの座敷を仕切る敷居を挟んで向き合っている。しのぶは当然女子の側にいて、男子の側にいる健太郎がそれ以上近づかないように境界を死守していた。
浴衣に着替え、あぐらをかいて座っている健太郎は言った。
「しのぶ君、そうやって浴衣を着て横座りしている姿もなかなか良いもんだね。団扇を持っているところなんかも実に良い」
「じろじろ見るんじゃないよ」
しのぶは団扇で健太郎の頭を叩き、はだけそうになった裾を直した。「男みたいに足を広げられないから、こうするしかないんだよ」
「しのぶ、お腹空いた」
座敷の奥から、愛梨紗が泣きそうな声を出しながらやって来た。ピンクの浴衣でちょこちょこと歩いてくる。
「ユズと一緒にレストランのビュッフェに行っておいで」と、お母さんのようなしのぶ。
「ユズおらんもん」
「なんだよ、またあいつどっか行ったのか」
しのぶは座敷を見渡し、向こうでまだ転がっている男衆三人と、目の前の健太郎の顔を交互に見た。
「じゃあ、俺たちも一緒に飯に行こうか?」
健太郎がそう言うと、しのぶは不服そうに同意した。
「しょうがないな、この体たらくじゃ作戦会議にもならないし。とりあえず腹ごしらえといきましょうか」
しのぶは男三人に大声で呼びかけた。「おい、コウジ、西郷さん(源吾のあだ名)、まもっち(守のあだ名)、いつまでも寝てないで、さっさと起きろコラ」
男たちを叩き起こし、浴衣に着替えさせてから、しのぶを先頭にみんなは廊下に出た。
アレクサンダーの恩恵にあずかろうと集まってきた町の人たちが、ホテルの中をにぎやかに往来している。その混雑の中を、しのぶたちはレストラン目指して歩いている。
アルファ・チームの男たちの浴衣姿も、なかなか似合っていて目に心地よい。女子の花柄に対して、男たちの柄はそれぞれ個性があった。健太郎の浴衣は水色の地に雲と竜が描かれている。コウジは黄色の市松模様、守は白地に光沢のある糸で雨のような縞模様、そして、源吾はどっしりとした茶色一色に黒い帯。
「西郷さん、親方さんみたいだね」と、しのぶ。
「そうかな」と源吾。
しのぶに平手で腹を叩かれて、源吾は悪い気はしなかった。
「犬を連れて歩いたら、完璧に西郷さんだな」と、コウジがからかう。
「犬の代わりに愛梨紗でもいいかも」
しのぶは、愛梨紗を源吾の隣りにくっつけてみた。「あはは、親子親子」
「あんたたちは、いちいち私ばおもちゃにせんと気んすまんごたあね」
お腹が空いて機嫌の悪い愛梨紗は、うらめしそうにしのぶを見つめた。
源吾はがははと豪快に笑い、愛梨紗の頭をなでると、九州弁丸出しで言った。
「愛梨紗、そぎゃん怒ったらいかんばい。なんばされたっちゃにこにこしとかんにゃ、いっだんみんなからせせくらるっばい」
「はあ?」と言って、しのぶはぽかんと口を開けた。今の源吾のセリフは、ネビュラの自動翻訳でも追いつけなかった。
それをあらゆる情報に通じた守が解説する。
「西郷さんは標準語だと口数が少ないけど、地元の言葉ならけっこうおしゃべりなんだ。ただし、字幕は必須だよ。ちなみに今のセリフは、『愛梨紗、そんなに怒ったらダメだぞ。何をされたってニコニコしていなきゃ、かえってみんなからからかわれちゃうぞ』と言ったんだ」
「源吾さん、九州の方?」と、愛梨紗はかしこまって訊いた。
「おるは熊本たい」
「そげんやなかかと思ーとったよ。なんか濃いか顔ばしとんしゃるもん」
二人が合わさるとさらに方言がきつくなる。頭が痛くなったしのぶは、少し距離を置いてよろよろと廊下を進んだ。廊下の片面はガラス張りになっていて、雲がかかった薄暗い峡谷を見渡すことができる。
そこに、スリッパをバタバタさせながらユズが走ってきた。輪切りのオレンジ柄の浴衣を着て、両手でその裾をたくし上げている。
「こら、ここにいたのかユズ」
しのぶに声を掛けられて、ユズは初めてみんなの存在に気づいたようだった。いったん通り過ぎてしまったところを、驚きの速度で引き返してきた。
ユズは口をあわあわさせていた。
「みんな、大変だよ」
「なんだよ」と、しのぶ。
「妙子さんと旦那さんがいなくなっちゃった」
「うわ、マジか」
「いなくなったのは二人だけかい?」と健太郎。
ユズはうなずいた。
「バルコニーからロープで脱出したんだって。ペーターさんとヘレナさんは部屋に残っていて、アレクサンダーさんと秘書の人は追いかけていったって」
ちょうどそのとき、激しい稲光が光って、同時に空を裂くような雷鳴が轟いた。辺りを歩いていた人たちが、みんなうずくまって悲鳴を上げた。
「こんな天候で山の中で迷ったりしたら大変だぞ」
健太郎は歯噛みして窓の外をにらんだ。




