饗宴(前編)・2a
西暦二〇六八年七月十一日水曜日の午前六時三十分過ぎ、静岡県清水区の峡谷の奥に隠れるようにそびえ立つ大平プレミアムリゾートホテルには、今回の騒動に巻き込まれた人々が続々と集結した。
第十七小隊のメンバーのために、特別に眺めの良い階が選ばれ、大きな座敷が用意された。アルファ・チームとブラボー・チームにはそれぞれ十二畳の和室があてがわれ、その二つの間を仕切るのは、厚さ二センチの襖が六枚だけだ。今はその襖も開け放たれて、一つの大広間になっている。
「こんなの見たら早苗さんが発狂しちゃうよ」
千堂しのぶの頭に真っ先に浮かんだのは、まずそのことだった。早苗とは一応約束はしたのだから、問題になりそうなことは慎まなければならない。しのぶはそういうところは律儀なのだ。
障子のように細かく仕切られたガラス戸が、部屋の片面いっぱいに張り巡らされている。このガラス戸のおかげで和風の雰囲気がより一層増している。そこから外を見ると、今日の空は昨日よりも雲が多めのようだ。
「峠が雲で隠れているから、昼頃には雨が降るかもしれないな」
窓から外を眺めていたしのぶの横に、山田健太郎がごく自然な素振りで寄ってきた。パイロットの健太郎は天候を気にするのが習慣になっている。
「山の中は天気がころころ変わるんだ」と健太郎。
そうだね、などと普通に返事しそうになったしのぶは、そこではっと気がついた。
「おい、ロジャー、なに女子の部屋に勝手に入ってきてるんだよ」
「仕切りなんかないんだから、女子の部屋かどうかなんてわからないよ」
「真ん中に襖が立ってるだろ」
「めいっぱい開いてるじゃないか」
「お前、わかっててとぼけてるな」
「そんなことよりしのぶ君、外に出てみようよ」
健太郎が話も聞かずにガラス戸を開けると、座敷の中に涼しい風が吹き込んできた。
外には、二つの座敷を繋げた広さの、大きなルーフバルコニーがあった。さっき車の中で華が話していたとおり、すべての客室にバルコニーがあって、それが段々畑のように斜めに連なっている。
バルコニーの床には木の板が敷き詰められていて、下駄箱からサンダルを取り出して履くようになっている。
健太郎はしのぶのためにサンダルをそろえて並べ、自分もサンダルを履いた。
実際に出てみたバルコニーは想像以上に広かった。一般的な旅館にあるような、小さなテーブルと椅子を並べた広縁とは比べ物にならない。手すりまでの距離は七メートル近くはあり、ゆったりとくつろげるデッキチェアがずらりと並んでいる。
そこに立つと、湯気で覆われた山並みを百八十度一望でき、とても壮大な眺めだ。
「しのぶ君知ってるかい? このバルコニーの床には、露天風呂が隠れているらしいよ」
健太郎が唐突に言った。
「うそでしょ」と、しのぶ。
「仲居さんに頼むと、床板をどけてくれるらしい。下には温泉が始終湧いているそうだよ」
「そんなの周りから丸見えじゃん」
「ちゃんと仕切りも立ててくれるってさ」
こいつ、何を企んでいやがる、という目でしのぶは健太郎の顔を見たが、彼はいつものように涼し気な優男のままだった。しのぶはかえって自分のほうが恥ずかしくなった。
これは彼の自然な性格なのか、それとも意図的なテクニックなのか、見た目によらず男性経験に乏しいしのぶには、それがまだ測りかねていた。
「俺はここでひと眠りするよ」健太郎は大あくびした。
「私もちょっと付き合うか」としのぶ。
二人はデッキチェアに寝そべって、しばらくの間山の風を楽しんだ。
一方、座敷のほうでは佐藤愛梨紗と夏木ユズが、着替えの浴衣をめぐってわいわいと騒いでいた。
ベテラン風の品の良い仲居さんが、たくさんの浴衣を風呂敷に包んで持ってきてくれて、それを畳の上で広げてみせたのだ。色とりどりのおしゃれな浴衣が並んでいた。
「こちらの浴衣をお召しになっていただけますと、ホテルの外やレストランなどへもご自由にご往来いただけるようになります」
「寝るときに着るやつとは違うんですか?」とユズ。
「左様でございます。こちらの浴衣は寝間着のものよりも格が上になりますので」
「愛梨紗どれにする?」
「私はどれでもよかよ。どうせユズは私にピンクば着せようち思とっちゃろ?」
「わかってらっしゃる」
ユズはさっそく浴衣をピックアップした。「これとこれとこれとこれとこれをください」
それは、ユズが勝手に決めたそれぞれのイメージカラーだった。華は赤、妙子は青、しのぶは緑、愛梨紗はピンク、そしてユズはオレンジだ。
「あっちの部屋にいる妙子さんには、絶対にこの青いあさがお柄の浴衣を着るように念を押してください。どうしてもこのユズが着てほしいと言っていると伝えてもらって結構です」
と、ユズは仲居さんに情熱をこめて念を押した。
「華はどこにおると?」と愛梨紗は座敷を見回した。
「龍之介さんと一緒に家族に挨拶に行ったよ」とユズ。それから、隣りの座敷で畳の上に死屍累々の三人(菊池源吾、夏木コウジ、犬養守)に、ユズは声を掛けた。「ねえ、お兄ちゃんたちは浴衣どれにする?」
コウジは仰向けに倒れたまま、わずかに手を上げて答えた。
「知らん。勝手に選んでくれ」
「じゃあ、勝手に決めるね」
ユズは、男たちにもイメージカラーを設定した。龍之介は赤、コウジは黄色、源吾は茶色、健太郎は水色、そして守は白だ。「お兄ちゃんは生意気だからゴールドにしてやろうかと思ったけど、それだと私が恥ずかしいから黄色にしとくね」
「それでいい」と、コウジは呻くように返事した。
「お兄ちゃんたち、今から着替えるから襖開けないでね」
ユズと仲居さんは座敷の仕切りの六枚の襖を閉めた。
試しに愛梨紗に一番小さなピンクの浴衣を着せてみると、想像していた以上にサイズが大きかった。
「あはは、愛梨紗、殿中でござる」ユズは無邪気に笑った。
「お子様用をお持ちしましょうか?」
と訊く仲居さんに、さんざ悩んだ愛梨紗は答えた。
「そげんすっと、ばりちんちくりんの目立っちゃなか? 大人用のでどげんかならんね」
「じゃあ、おはしょりをお作りしますね」
仲居さんは慣れた手つきで浴衣の裾を折り上げ、帯の下にそれをたくし込んで、見事にサイズを合わせてくれた。手が袖で隠れてしまうのはともかくとして、少なくとも裾を引きずらないで歩けるようにはなった。
愛梨紗はくるりと回ってみせた。浴衣全体に桃の花がちりばめられ、淡いピンクに染め上げられている。幅の広い帯を背中のほうでふわりと結んでもらったので、まるで妖精の羽のようだった。
「愛梨紗、かわいいよ」
と、目を輝かせているユズに、愛梨紗はじっとりと声を低めて言った。
「ユズはさっき私ば笑ったけん、着付けのときは手伝わないかんよ。罰やけんね」
「もちろん、喜んでそうさせていただきます」
仲居さんはそれを見て「おほほ」と笑い、残った浴衣を風呂敷に包むと、正座でお辞儀して、こう言った。
「それでは、わたくしは失礼させていただきます。夕方六時ごろ、みなさまには宴会場のほうにお集まりいただきます。そのときにまたご案内させていただきますので、それまでごゆっくりとお過ごしくださいませ」
仲居さんが出ていったちょうどそのとき、しのぶと健太郎がバルコニーから戻ってきた。健太郎を部屋から追い出した後、ユズは勝手に選んだ緑の浴衣をしのぶに着せてみた。濃い緑地に大きな白い月下美人が染め上げられた浴衣を、しのぶは気に入ったようだ。
「大人っぽいじゃん、やるなユズ」
「うへへ」とユズは喜んだ。




