アバター訓練(後編)・4
ガーンズバック船長は、暗闇の中で、華のライトに照らされるまで、そこにずっと座り込んでいた。そこはコントロール室の一角にあるソファの上だった。コントロール室の中には酸素を含んだ空気が満たされ、あの恐ろしい分解作用も働いていなかった。
船長は頭髪の薄い、痩せた男だった。年齢よりもずっと老けていて、老人のように髪が真っ白だった。歳で肉が削げたせいかとても目立つ大きな鼻を持ち、深い皴が額と頬に刻まれている。タンクトップにジーンズというラフな格好で、まるでくつろいでいるようにソファに身を沈めている。その大きな目に、風防ガラスの外の星空が映って、キラキラ光っている。
「怪我はありませんか? 立ち上がれますか? これからあなたを連れて、この船から脱出しますよ」
華は英語で語りかけた。このくらいなら、翻訳機の助けを借りなくても話ができるくらいの訓練はできていた。
「助けに来てくれたのか? ありがたいが、俺はここを出るわけにいかないんだ」
船長は訛りのない、きれいな英語で答えた。おかげで聴き取りにも翻訳機の助けを借りずに済んだ。
辺り一帯を捜索していたしのぶの声が、華のネビュラに響いた。
「コントロール室には、船長の他には生存者はいないみたいだ」
華は船長に訊いた。
「他の乗組員の方たちは、どこにいるかご存じですか?」
「七人は貨物室にいるはずだ。そして、四人はエンジンルームにいるだろう」
貨物室の七人は、さっき捜索で見つけた物体の合計重量で計算が合う。
「エンジンルームへはこれから捜索に向かいます。ともかく、あなたは私たちと一緒に船から出ましょう」
華が船長の手を引こうとすると、彼はそこに柔らかくもう片方の手を重ねた。彼は不思議と落ち着いていた。
「そうしたいが、そうするわけにはいかないんだ」
「あなたが船長だからですか?」
「そうだ。他のみんなが無事に船を降りるまで、俺はここに残らなければならない」
無理やり連れだそうとすれば、強い抵抗を受けるだろう。華はそれを察して、これ以上脱出を強いることをやめた。
「わかりました。他の生存者が確認できるまで、あなたはここで待っていてください」
「それともう一つ」
華がその場を離れようとした、すんでのところで、船長はこうつけ加えた。
「乗組員はみんな生きている。みんな生きているが、みんなを無事に家に帰らせるには、『奴』の要求通りにしなきゃならない」
「奴とは、誰のことですか?」
「今、この船を動かしている奴さ」
華はコントロール室を見渡した。操縦席には誰もいない。捜索を終えたしのぶが、カツカツと足音を立ててこちらへやって来るのが見えた。
「しのぶさん、今のこの船のコントロールはどうなっているか、わかる?」
「自律して動いているみたいだね。さっき、ちょっとだけ試してみたんだけど、外からの介入はできなくなっているみたいだ」
華は船長に訊いた。
「その『奴』は、どこから船を動かしているんですか?」
「ここだよ。奴はここにいるのさ」
船長は、首を大きく動かして、船の中をぐるりと見渡した。「奴は今も俺たちを見ている」
華はぞっとした。
そこに、エンジンルームの捜索を終えたユズと妙子の報告が入った。
妙子は沈んだ声で言った。
「探査スコープで調べたんだけど、貨物室のときと同じく、バラバラの物体が三百キログラム強、確認できただけだったよ」
華は船長に向き直った。
「お気の毒ですが、あなたの他に生存者はいないようです。脱出しましょう。さあ」
伸ばされた華の両手を、船長はやんわりと拒否した。
「みんなは生きている。奴がそう言っているんだ。奴が目的を果たすまで、俺たちは人質としてこの船に残らなきゃならない」
「奴の目的とは、何ですか?」
「地球に行くのさ。そこに奴の双子の弟がいるそうだ。双子の弟に会えたら、俺たちを解放してくれるらしい」
「でも、この船が地球に向かったら、地球は大変なことになりますよ」
「そんなことにはならない。奴がそう約束してくれたんだ。むしろ、奴が弟に会えなかったら、地球はもっと大変なことになる」
このやり取りを、第十七小隊のアルファ・チームの全員と、地上のアバター訓練室の全員、そして大島守克消防本部長も聴いていた。とっくに三分は過ぎているのだが、口出しすることもできず、ただこの事態を見守っている。
判断がつきかねている華を、龍之介がサポートしなければならない状況だ。しかし、龍之介にもどう判断するのが正しいのかわからない。この船長の気がふれていて、わけのわからない妄想を話しているだけだとしたら、それが一番手っ取り早い。この船長にさっさと与圧服をひっ被せて、遭難船の外へ連れ出すだけだ。しかし、もし船長の言っていることが本当だとしたら? 彼が本当のことを言っている可能性がどれくらいある?
アルファ・チームの救命医の夏木コウジが、冷静に船長の話を聴き取って、彼の過去の経歴などとも照らし合わせて、どれくらいの信憑性があるかどうか分析した。
「彼はああ見えて有能な船長だよ。脳波にも異常は見られないし、妄想を語っているとも思えない。その『奴』とやらにコントロールされて、何か言わされているとしたら、脳波のどこかに異常な波形が見られるはずなんだが、それもない。確信を持って語っているとしか思えない。ただ、巧妙に洗脳されて、彼が心の底からそう信じ込んでいるとしたら、その限りではないけどね。彼が『奴』をそこまで信じるようになるきっかけがあったんだろうね」
龍之介は華に呼び掛けた。
「桃井、船長がそこまで奴を信じる理由を訊いてみてくれ」
「はい」
華は返事してみたものの、こんな状況は宇宙消防士の訓練を受けるようになってから一度も経験したことがなかった。自分は心理療法士ではないし、刑事でもない。人が何を信じるかなんて、そこまで踏み込む必要があるなんて思いもよらなかった。
「あの……、失礼ですが、あなたがそこまで、その……、『奴』を信用なさる理由があるのなら、それを教えていただけないでしょうか?」
ガーンズバック船長は目をキラキラさせて笑った。その笑いがあまりに場違いだったので、それを見守っている人たち全員が身を固くした。つられて笑う者はいなかった。
「論より証拠だな。奴も言っているよ。そうだな、貨物室へ行ってごらん。そのうちの一つに入ってみるといい」
華がユズと妙子に指示しようとすると、船長はさらにつけ加えた。
「おっと、与圧服と簡易エアロックも忘れるな。医者もつけてやってくれ」
華は言われた通りのことをユズと妙子に指示した。半信半疑の二人は、探査スコープのセンサーを頼りに、貨物室の中央通路を歩いていった。すぐに異常な反応が返ってきた。
「華、聞こえる?」
ユズが慌てふためいた声で言った。「さっきの図面と見比べてみたんだけど、バラバラの物体があった部屋から、物体がちょっとだけ減ってるところがあるみたいなの」
「どういうこと?」と華。
妙子が補足した。
「物体が減ってるんじゃなくて、移動しているみたい。壁を越えて、別の部屋に集まってる。ちょうど一人分、七十キログラムくらいで固まってる」
華はしのぶの顔を見た。しのぶはすべてを察して、指示を聞く前に走り出した。まずは外に出てポリーから与圧服と簡易エアロックと壁に穴を開けるもろもろの道具を受け取り、すぐに取って返して異常が起きている貨物室へと向かった。そこで呆然と突っ立っているユズと妙子に道具を投げ渡すと、しのぶは叫んだ。
「さあ、救助するよ!」
「肉片を救助して、どうするの?」とユズ。
「バカね、ユズ」妙子はいつになく強い口調で道具を取ると、言った。「早くエアロックを広げて!」
しのぶはまた外へ出ていって、ポリーから酸素ボンベを受け取ると、現場へと急いで戻った。
エアロックに酸素を含んだ空気が満たされた。そして、ゲート・リングを貼り付けた壁に穴を開け、これから救助へ向かう部屋にも空気が注入された。
いつの間にかさっきまでの分解作用が消えていることに、しのぶだけが気づいていた。シグラム・ジェルの消費が減り、余分なジェルが床に滴っている。そこからガスが発生することもない。遭難船の免疫機能が一時的に抑制されているようだ。これも『奴』の仕業なのだろうか。
貨物室の一室の扉が開いた。そこに一人の人間が立っていた。白いツナギの作業服を着こんだ日本人だった。彼はついこの瞬間まで、この部屋で作業をしていたような自然な素振りでクリップボードを持ち、何かをチェックしていた。ユズはすぐに乗員リストと照らし合わせた。妙子がそれを聴き取り、彼に話しかけた。
「森田和夫さんですね? 具合はいかがですか?」
怪訝な顔をした森田和夫は、妙子から脈を取られたり心音を聴かれたりしている間もずっと首をひねっていた。
「どうかしたんですか? あなたたちは誰です?」
ガラスの頭を持ったアバターたちが大挙して自分を取り囲んでいる様が、彼には信じられないようだった。
そこに、ガーンズバック船長がやって来た。船長は与圧服を着て、酸素ボンベを背負っている。その横に華が付き添っている。華のアバターと比べて、船長は頭一つ分背が低かった。しかし、威厳はたっぷりだ。
「カズオ、まあ黙って、こっちへ来なさい」
与圧服を着せられた森田和夫は、船長に背中を叩かれながらコントロール室へと向かった。その後を華たちも一緒について行った。
その光景を離れた場所で観ていた人たちは、一様に口を開けて、見ているものが何もかも信じられないという様子だった。大島守克消防本部長も同様だった。
そこに、忘れてはならないもう一人の人物が加わった。第十七小隊の小山三郎隊長だ。
アバター訓練室の天井近くにスクリーンが現れ、小山隊長の顔が大写しになった。隊長は話の途中で口を挟まれないようにか、早口でまくし立てた。
「みなさん、どうも。第十七小隊隊長の小山です。大島消防本部長もお久しぶりです。現状はご覧になった通りです。我々小隊の判断としては二つの選択肢があります。一つはただちに乗組員の生存者を全員救助し、プロメテウス号の運命を日本及び米国の政府に委ねること。もう一つは船長の話を信じ、プロメテウス号を日本及び米国政府から守ること。そのいずれかになります」
大島消防本部長はぎょっとした。
「プロメテウス号を守るとは、どういうことだ?」
「この船を無事に地球に送り届け、破局から地球を守るということです」
「君は何を根拠にそんなことを言っているんだ?」
「詳しいことは、この方に説明していただきましょう」
小山隊長がスクリーンの端に身体をずらすと、フレームの外からもう一人の人物が入ってきた。それは水色のカーディガンを着た小柄な女性だった。薄い茶色い髪と、薄い青い目が印象的だった。だが、その瞳からは力強い意志が発せられていた。彼女は英語で話し始めた。
「みなさんは、私のことはまったくご存じないことと思います。私の存在はアメリカ政府に隠されてきたのです。この際ですから真実をすべてお話しします。時間はほとんど残されていません」
この話を、コントロール室にいる華たちも聴いていた。ブラボー・チームの四人は船長を中心にソファに腰かけ、身を固くしている。消防宇宙船にいる愛梨紗も眠気が吹き飛んだ様子で、話に聴き入っている。
「私の名前はシェリー・デスティニー。今、渦中にある『奴』の生みの親の一人です。『奴』の本当の名は――といっても愛称ですが――はパンドラ。彼女が地球の運命を握っています」
シェリーは語り始めた。人類がどちらかを選ばなければならない、大きな選択肢が目前に迫っていることを。




