アバター訓練(前編)・2
地球の上空四百キロメートルを、十字架型の宇宙ステーションが周回している。十字の交点となる中央部分にメイン・モジュールがあり、そこから上、下、左、右にそれぞれ別の目的を持ったモジュールが接合されている。各モジュールからはトンボが長い羽を広げるように太陽電池パネルが伸びている。十字架の一番下にあたる先端部分に宇宙船のドッキング・ポートがあり、そこに宇宙ステーションのクルーたちの乗る宇宙船が停泊している。
佐藤愛梨紗の操縦する消防宇宙船は、その宇宙ステーションから数十メートルの距離を置いて並進していた。
赤く塗られた消防宇宙船は、頭が角ばって尻尾が細くなっているクジラ型の一般的なものだ。その側面に「ガラパゴス日本区航空宇宙消防学校」の文字が日本語と英語で書かれている。
炭素繊維強化プラスチックの黒いボディスーツと、オレンジ色の分厚い防護服を身にまとった華たち四人は、すでにエアロックに待機してEVA(船外活動)の瞬間を待っていた。
リーダーの桃井華、救命医の天野妙子、宇宙船技師の千堂しのぶ、通信士の夏木ユズは、それぞれの装備に不備はないかお互いにチェックし合った。服のどこかに裂け目でもあれば、そこから空気が漏れ出して一瞬で命を失うことになる。背中に背負った薄型の生命維持装置には液体空気が充填されていて、濾過式呼吸器と合わせることで二十四時間の活動が可能だ。すべてのチェック項目は、通信士の夏木ユズがまとめて地上の司令室に報告する。すぐに地上から返事が返ってきた。
「各種チェック問題なし。EVAを許可する」
華はヘルメット内のマイクに向かって声を張り上げた。
「愛梨紗、エアロックのハッチを開いて」
「了解、ハッチを開きます」
愛梨紗が復唱すると、エアロックの外向きのハッチ(様々な長年の議論の末に外開きが主流となった)が音もなくゆっくりと開いた。青白い地球の輝きが室内に流れ込んでくる。訓練や映像などで何度経験しても、この瞬間だけはなぜかいつも厳粛な気持ちにさせられる。はるか昔の先祖の霊と対面するような気がするのだ。
青い地球が視界いっぱいに広がった。雲が幾層にも重なって大気の中を泳いでいる。その隙間から茶色や緑の陸地がわずかに見える。その巨大な背景の前に、武骨な前世紀の遺物のような銀色の宇宙ステーションが浮かんでいる。
「桃井華、他三名、これより遭難衛星に向かいます」
消防宇宙船から四本の命綱が触手のように伸びていった。四人の腰のスラスターから窒素が噴射されて、氷の粒が尾を引いた。接近の間に、ユズが遭難衛星内部の通信機と連絡を取って情報を集めていく。メイン・モジュールの上下左右に繋がる各モジュールに、ユズがざっと名前を付けていった。
「メイン・モジュールが猫ちゃんで、その上のやつから時計回りに、象さん、ライオン、パンダ、ヒヨコさんだよ」
ユズがそう宣言すると同時に、チームのみんなの視界に見えている宇宙ステーションが五色に色分けされた。猫ちゃんは茶色と白の縞模様、象さんはグレー、ライオンはオレンジ、パンダは白地に黒い斑点、ヒヨコさんは黄色だ。
「なんだか黄色系ばっかりで偏ってないか?」
しのぶがさっそく注文を付けた。「せめてヒヨコはニワトリにしようよ」
「そんなのかわいくないじゃん」
「いいから変更しなさいよ、ユズ」
というリーダーの華の一声で、ユズはしぶしぶヒヨコをニワトリに変えた。白地に赤い水玉模様で、これならわかりやすい。
ユズが現状を報告する。
「メインの猫ちゃんモジュールで火災発生中。気圧の上昇が確認されます」
「生存者は?」と華。
「三名発見できました」とユズ。
左側のニワトリ・モジュールに三つの生体反応があった。生存者たちがそこに集まって避難しているようだ。モジュールの繋ぎ目は防火扉で仕切られていて、酸素は供給管から送り込まれている。
宇宙ステーションに入るためのエアロックは下部のパンダ・モジュールにあり、クルーたちの宇宙船もそこにドッキングしている。要救助者を出口まで連れてくるには火災中の猫ちゃんモジュールを通らねばならない。猫ちゃんには生命維持装置が固めて置かれており、その機能が失われるまで時間の余裕もない。
猫ちゃんの火災を消火してパンダへの通路を確保するか、ニワトリ・モジュールから直接救助するか、その判断は華に委ねられている。
華はすかさず決断した。
「簡易エアロックを使ってニワトリ・モジュールから進入してみるよ」
愛梨紗に連絡を取って、機材を積んだロボットを射出してもらおうと手配し始めた華に、しのぶが突然口を挟んだ。
「それはダメだ、華」
「どうして?」
「あの宇宙ステーションは旧式で、簡易エアロックを固定できるほど壁が頑丈にできていない。穴を開けたら中の気圧でたちまち壁が全部吹き飛んじゃうよ」
「それじゃあ、どうしたらいいの?」
「猫ちゃん・モジュールの火災を消すしかない。だけど……、ああ、くそ、そのためには酸素の供給を止めなくちゃいけなんだ」
「中の人に手伝ってもらうことはできないかな?」
遭難衛星まであと十メートルあるかないかの位置で、華たちは接近を止め、議論した。
要救助者の様子を観察していた妙子が、遠慮を振り払って議論に割り込んだ。
「ニワトリ・モジュールに有毒ガスが漏れているみたい。三人の酸素飽和度が低下しているの。要救助者に協力を求めるのは無理だと思う」
「酸素マスクは?」と華。
「猫ちゃん・モジュールに置いてあって、取りに行くのは不可能だって、ユズちゃんが」
「それじゃあ、ますます時間が足りないよ」
華がパニックになりかけると、すぐ横のしのぶが力強く言った。
「慌てることはないさ。必ず手立てはあるから」
腕組みして三秒考えた後、しのぶは言った。「よし、バイパス手術をやってみようじゃないか」
消防宇宙船のロボットアームを愛梨紗が操作して、太さおよそ百ミリの大口径ホースが二本、宇宙ステーションに向けて伸ばされた。一本には窒素、もう一本には酸素が流れるようになっている。ホースの先端をそれぞれ二人ずつが持ち、パンダ・モジュールのエアロックのハッチまで運んだ。
四人がハッチから中へ進入すると、エアロックはまだ正常に機能することがわかった。宇宙ステーション内のすべての制御装置は火災中の猫ちゃん・モジュールに集中しており、いつ焼け落ちて機能が止まるかわからない。
しのぶはパンダ・モジュールの空気供給管のジョイントに二本のホースを繋いだ。それによって、猫ちゃん・モジュールを窒素で消火し、ニワトリ・モジュールに酸素を送り込んで要救助者の呼吸を助けようとしたのだが、途中のポイント切り替えがどうしてもうまくいかない。
「くそ、パイプの切り替えも猫ちゃんで直接やらなきゃダメか」
しのぶはメンバーを振り返って、言った。「窒素ホースを持ってついて来てよ。私が猫ちゃんで制御盤を操作するから、周りの火を消しちゃって欲しいんだ。間違っても酸素ホースを持ってくるんじゃないよ」
「わかった」と華は答えた。
酸素ホースを空気供給管に繋いだままにして、四人は窒素ホースを抱え、燃えている隣りの猫ちゃん・モジュールの入り口の前に立った。
そのハッチは熱で歪み、膨張したガスに押されて手前に膨らんでいる。ネビュラを通して温度を測ってみると、アルミニウムの融点ギリギリの五百℃近くまで達している。
四人は自分たちの身体を壁に結んだロープで固定すると、窒素ホースをしっかりと抱えた。そして、その先端を持った華が、愛梨紗に呼びかけた。
「愛梨紗、冷却窒素を送ってくれる?」
ホースの先から白いガスが噴き出した。四人は足を踏ん張ってその反動に耐えた。ハッチから煙がもうもうと立ち昇り、金属が縮むキシキシという耳障りな音が響いた。
やがて手袋で触っても大丈夫な温度になると、華と妙子が力を合わせてハッチのハンドルを回した。変形していてもなんとか回すことができた。少しだけ開いたところで、猫ちゃん・モジュールにホースの先端を突っ込み、一気に窒素を送り込んで中を酸欠状態にした。
壁と床の温度を確かめながら、まず華が猫ちゃんの中へ入った。焼け焦げた機材がまだ熱を持っているが、くすぶっている様子は見られない。安全がわかると、しのぶが大急ぎで滑り込んできて、壁に備え付けられた制御装置の耐火扉を開け、中をいじり始めた。それは強力な宇宙放射線を浴びても壊れる恐れの少ない、旧式のアナログな操作盤だった。
「よし、とりあえずニワトリさんに酸素を送り込むよ」
しのぶがポイントを切り替えると、さっき繋いだ酸素ホースから壁を走るパイプの中へと轟々とガスが流れて、隣りのモジュールに酸素が満たされていった。
妙子がネビュラを通して要救助者たちの様子を観察した。有毒ガスが押し流されて、三人の体調が好転するのがわかった。
猫ちゃん・モジュールはまだ酸欠状態で、しかもさっきの窒素注入で生じた窒素酸化物が大量に残留している。要救助者をそのまま通すわけにはいかない。ここまで来ると華も心得たもので、迷うことなく指示を送った。
「愛梨紗、三人分の与圧服と酸素マスクを送ってくれる?」
小型のお使いロボットが運んできた三つの服とマスクを持って、ユズと妙子がニワトリ・モジュールへさっと入っていった。要救助者たちがそれを装備し終われば、脱出の準備は完了だ。
ニワトリ・モジュールから合図があって、ハッチが大きく開かれた。酸素が勢いよく流れ出し、三体のダミーロボットがぎこちなく歩いてきた。人間そっくりに作られてはいるが、顔の表情は変わらない、ただのマネキンだ。
この要救助者たちを消防宇宙船に運んだところで、この抜き打ち訓練は終わった。全員を無事に助けられたことで、華たち五人のチームは高得点を獲得した。
四百キロメートルの距離を一気に飛んで、華の意識が地上へと戻った。
華たち五人もまたロボットだった。実際に宇宙で救助活動を行っていたのは「アバター」と呼ばれる精巧に作られたロボットで、華たちはそれに感覚器官を繋いで、本人たち自身が宇宙で活動しているような意識になっていたのだった。
まだぼんやりしている華は、自分が自転車のサドルのようなものに跨って、背中の板に腰と胸を固定され、手足から長いコードが何本も垂れ下がっていることにゆっくりと気づいた。
それから意識がはっきりすると、みるみる喜びが込み上げてくるのを感じた。横に並んでいるチームの仲間たちを見ると、みんなもまた、充実した気持ちで顔を輝かせていた。
白衣を着た技術者たちが、華を装置から下ろしてくれた。身体からコードを外したり、体調を調べたりする大勢のスタッフに囲まれた。それに混じって、群青色の宇宙消防士の制服を着た指導教官がタブレットをいじりながらそばへと近づいてきた。
引き締まった身体の初老の指導教官は、その名を前田六郎といった。がっしりした顎を持ち、頬に深い皺を刻み、白い髪を短く刈りそろえた前田教官は、めったに表情を変えないいかつい顔を珍しくほころばせて、華たち五人の前で両手を広げた。
「よくやった。お前たちが最高得点だぞ」
華たちはお互いの顔を見て笑った。華が代表して言った。
「ありがとうございます、教官」
「いい仲間をそろえたな」
「本当に、みんな、とっても素晴らしいです」
そうやって、満足いく抜き打ち訓練を終えた後で、再び寝ることを許可されたのだが、華はひどく興奮して明け方までほとんど眠れなかった。
ようやくほんの数分眠れたかと思ったところで、またしのぶの声で起こされた。
「華、もう朝だよ。朝飯作ったからさ、急いで食べなよ」
「ありがとう」
「コーヒー持ってきてあげようか?」
「ううん、大丈夫、すぐ行くから」
華がテーブルに着くと、先に座っていたユズがのどちんこが見えるほど大口を開けてあくびをしているところに出くわした。機嫌の良い華は、今日は許してやることにした。
妙子が寝癖ぼうぼうの頭を掻きながらふらふら歩いてトイレに向かっているのを見ても、華は微笑みが止まなかった。
エプロン姿の愛梨紗が流し台の前に踏み台を置いて、その上で料理している姿も愛らしい。
しのぶが入れたてのコーヒーを二つ運んできて、一つを華の前に置くと、すぐ隣りの椅子に腰かけた。
「ありがとう、しのぶさん」
華はコーヒーカップを口に近づけた。すぐ正面でユズがレタスとハムのはみ出したサンドイッチをこれまた大口を開けて頬張るのが見えた。
しのぶはテーブルの上でコーヒーカップを両手で包むようにして持ち、華の顔を優しい笑顔で見つめた。いつもはあまり見ない表情だが、今日は特別な日なので華には気にならなかった。
「ところでさあ、華……」
「なあに? しのぶさん」
華はコーヒーの香りを楽しみながら一口目をすすった。
次のしのぶの言葉で、すべてが変わった。
「華も、龍之介のことが気に入ったの?」
華は盛大にコーヒーを吹き出し、その大半がユズの胸元にぶちまけられた。
「ちょっと、これどういうこと?」
と、立ち上がって抗議するユズの声も耳に入らず、華はしどろもどろに、
「え? 何が?」
と、とぼけた。
しのぶはあっさりとこう言った。
「だって、昨夜起こしに行ったときに寝言で言ってたじゃん。『龍之介さん、大好き』って」
華はまたコーヒーを盛大に吹き出し、今度はユズの顔面にぶちまけた。




