アバター訓練(前編)・1
はるか昔、山奥の深い森の中に一人の老婆が住んでいた。数千年も前から人の手がほとんどくわえられていないブナの森には、一筋の美しい渓流があり、その流れの脇に老婆はひっそりとした草庵を建てて暮らしていた。渓流にはぴちぴちとした元気な魚がたくさん泳いでいたが、老婆はそれらにはけっして手を出さなかった。なぜならとても信心深い仏教徒で、殺生を何よりも厭うていたからだ。食べるものはおもに森でとれる山菜やキノコなどで、ときに人里に下りては米や味噌や塩などを買い求めたりした。
あるとき、山の麓の里からの帰り道に、老婆は一人の若い僧と道連れになった。その僧はどこか喧騒から離れた場所で落ち着いて修業ができるところはないかと探している最中だという。老婆はぜひ自分のところに住んで修業してはくれまいかとすがるようにお願いした。食べるところも寝るところもすべてお世話しましょう、お求めのことは何なりとご遠慮なくおっしゃってくださればなんとかしてさしあげます、それが信者としてこの上ない功徳となりますから、と口説き落として、その若い僧は老婆の草庵に無理やり連れ込まれるような形で住むことになった。
明け渡してしまった自分の草庵の替わりに、老婆は下流に粗末な小屋を建てて、そこで寝起きするようになった。
若い僧は誰から邪魔されることもなく、緑深い森に住む動物たちが遠くで鳴く声や優しい渓流のせせらぎを聴きながら、思う存分修業に打ち込むことができた。ひたすら朝から晩まで草庵の中に座り、座禅に没頭した。
それから長い年月が経った。
老婆には一人の美しい孫娘がいた。歳は十六になったばかりで、山の麓の両親の元から、年老いて身体が不自由になった老婆を手伝うために、この春からこの山奥に移り住んできたのだった。
引っ越してきたばかりの娘はまず手始めに、あまりに粗末で小さかった老婆の小屋を、やや大きくて丈夫で住み心地の良いものに作り替えた。その工事の物音が草庵にいる僧に――もうずいぶん月日が流れて彼も若くはなくなっていた――聞こえて修業の邪魔にならぬよう細心の注意を払ってはいたが、どうしてもそのみずみずしくかぐわしい気配が修業中の僧の耳元へと伝わらないわけにはいかなかった。
老婆はもう足腰が言うことをきかなくなっていたので、代わりに娘が僧のために食べ物を運んだり、身の回りの世話をすることになった。給仕を受けながらも僧は、若い娘がすぐそばにいることに動揺することも喜ぶこともなく、ただ淡々とした表情を崩さなかった。若さゆえのうぬぼれがいっぱいの娘にはそれが気に入らなかった。
娘は、僧のところへ行くたびに自信をくじかれ、毎度のごとく面白くなさそうに小屋へと帰ってきたので、あるとき老婆はからからと笑い、いよいよそのときが来たとばかりにある企みを口にしたのだった。
「孫や、今度あのお坊さんのところへ行ったら、後ろから思い切り抱きついてこう訊いてやんなさい。『こうされて、どんな気持ちになりますか?』ってね。若い娘にいきなりしがみつかれたら、とっさに取り繕うのは難しかろうからね。これだけ長い間修業に明け暮れてきたのなら、さぞ気の利いた返事が返ってくることだろうさ」
「気の利いた返事が返ってこなかったら?」
「そのときはそれまでの器だと見限って追い出しちまって、庵も焼いてしまうさ」
「あんな奴のために焼くなんてもったいない。おばあちゃんが住めばいいのに」
娘は日頃の不満を顔中にみなぎらせながら、あの僧に目にもの見せてくれん、きっとぼろを出すに違いないと、そのときを心待ちにして夜を明かした。
翌日、それは決行された。
朝から心地よい風が吹いていた。春も半ばでようやく寒さが緩んだので、僧は庵を囲っていた筵をはがし、屋根と柱だけを残して、四方を外界に開け放った。渓流に咲く可憐な草花が健気に放つ香りが、温かな風ともつれるようにして草庵を吹き抜けた。
朝食の粥と漬物を盆に載せて運んできた娘は、遠い斜面の下から、壁がなくなった庵の中で、僧がこちらに背中を向けて朝の座禅に励んでいる姿を見つけた。剃りあげた青い頭が、ぴんと伸びた背筋の上に揺るぎもせずに乗っているのを見て、娘の胸はどきんと跳ね上がるのだった。
「お坊様、お食事でございます」
娘は震える声をなんとか落ち着かせて言った。
「ありがとうございます」
僧はいつものように目を閉じ、結跏趺坐の姿勢を崩さぬままに、木の虚を吹き抜ける風のような感情のない声でかすかに答えた。
いつもであれば、この後は余計な口を利かずにさっさと立ち去るようにと娘は老婆にきつく言いつけられていた。しかし、今日はそれとは逆のことをしなければならない。
娘は朝食の盆をなるべく端のほうに置くと、草鞋を脱ぎ、泥のついた足を恐る恐る庵の縁に乗せた。
娘の重みでぐいと床が傾くのを感じたのか、僧がわずかに身じろぎした。すかさず娘は僧の背中にしがみつき、そのなよやかな両腕を僧の首に巻きつけた。そして、身体すべてを僧のまっすぐな背中にくっつけた。
娘は初めて父以外の大人の男の匂いをかいだ。僧も久しく忘れていた若い女の匂いをかいだ。二つの匂いは風に混じって二人の周りで渦を巻いた。娘は僧の激しく乱れた鼓動を感じ、僧も娘の弾むような胸の高鳴りを感じた。
僧は、娘にされるがまま声も出さず、微動だにしない。伸びた首は相変わらずまっすぐだ。しかし、娘の胸に確かに伝わる彼の乱れた鼓動や、青い頭の下が首から肩までさっと赤く染まる様は、どんなに取り繕おうにも隠すことができなかった。そして何より、彼の背中から放たれる若草のような汗の匂いが、あっという間にその濃さを増していったのだった。
娘は僧の耳元にぐっと口を近づけると、たっぷり息を含ませながら囁いた。
「お坊様、今、どのようなお気持ちですか?」
娘の声には、強い好奇心と、勝利を確信した響きがあった。
娘の息の甘い匂いが僧の鼻へと吸い込まれ、胸の中でかき回され、血液に混じって全身へと広がった。かなりの時間をかけた後、僧の口からようやくまとまった言葉となって返ってきた。
「私の心は今、戦いています」
その声には、さっきの木枯らしのような響きとはまるで違う新鮮な潤いがあった。まるで若者のような素直さだった。
娘は、それ見たことか、と勢いづいた。
「なにも恐れることはありませんよ。お坊様がなさりたいようになさってくださいまし」
娘はさらに思い切り顔を近づけた。唇が彼の頬に触れんばかりだった。首を絞めつける両の腕はますます力強く、僧の背中に押しつられる重みはますます大きくなった。娘の切りそろえられた前髪が、僧の耳をさらさらとくすぐった。娘の乱れた着物の裾から伸びた長い足が、僧の目の隅に入ってきた。それは朝日を浴びて、目が潰れそうなほどに白かった。
僧は何度も咳払いして、喉に絡んだものを飲み下すと、噛みしめるようにして、こう言った。
「ある古い言葉について、少しお話ししてもよいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
さあ、どんな言葉で誤魔化すのだろう、と娘は身構えた。勝利を確信している反面、意外な手で逆転されることを恐れた。
「それは、このような言葉です」
僧は少し間を置いて言った。「仏界入り易く、魔界入り難し」
ものものしい言葉の響きに、今度は娘が戦いた。
「どういう意味ですか?」
そのとき僧の背中から迷いが消えたのが、娘にもはっきりわかった。さっきまでの彼の乱れた鼓動が、落ち着いたゆっくりしたものに変わったのだ。彼の首に巻きつけた腕が恐ろしく罰当たりなものに感じられて、娘は身体を離しそうになった。しかし、娘らしい意地っ張りな気持ちでなんとか踏みとどまった。
僧は説法するときと同じ口調で優しく語りかけた。
「世間でよく言われている悟りというものは、実はとても簡単なものなのです。この山奥のように静かな場所で、誰にも邪魔されることなくただ座ってさえいれば、誰でもわずかな間に悟りに至ることができます」
「でも、お坊様は二十年もここにいらっしゃるんでしょう?」
娘は僧に抱きついているせいなのか、僧の人柄がそうさせるのか、恐れ多いことでもすんなり口に出せた。
「ええ、私がそれほど時間をかけているのは、私が誰もが簡単に辿り着けるいわゆる仏界ではなく、そう易々と切り抜けられるものではない魔界を修業の場としているからなのです」
「仏界とか、魔界とか、もっとわかりやすく教えて」
娘はじりじりした。
「そうですねえ。私が今言っている仏界とはすなわち、己一人だけの閉じた世界と申しましょうか、そういった小さなものです。人は一人では生きてはいけませんよね。食べ物にしても、水にしても、空気にしても、住む場所、着るものにしてもそうです。一人で何もかもどうにかできるものではない。あらゆるものをみんなが持ち寄って、それぞれが支え合って生きている。私自身もおばあさんやあなたに支えられているから生きていられるわけです。そして、おばあさんやあなたももっとたくさんのいろんな人たちに支えられて生きている」
僧は顔を横に向けると、そこで初めて娘の目と間近に向き合った。その瞳は琥珀のように澄んで、娘の心を深く射抜くようだった。娘は見返したまま目を逸らすことができなかった。
「しかし、みなで支え合うということはけっして心地よいことばかりではありません。人の欲はぶつかり合い、争いを生み、お互いを傷つける。人の世こそが、魔界なのです」
僧はここで顔の向きを変え、渓流のきらめく輝きを見つめた。
「人の世から逃げ、あらゆる繋がりをすっぱりと断ち切って、己一人だけでこの世界に暮らそうと思えば、何の争いも起こらず、余計な欲もなく、迷う必要もない。それこそが悟りの境地だと言おうと思えば言えなくもないでしょうが、それは明らかに間違いです。再び人との繋がりが戻れば、そんな浅はかな悟りなどたちまち魔界の汚れに染まってしまうでしょう。欲しいものが手に入らなかったり、隣人との間で腹立たしいことが起きたり、美しいものを見て欲望がかきたてられることもあるでしょうしね」
「お坊様は、欲望がかきたてられたりはしないの?」
娘は挑むように訊いた。どんな御託を並べようとも、その答えこそが今日の主役なのだ。
僧は答えた。
「私には、あなたが今想像しているような欲はありません」
「嘘だあ」
娘は思わず大きな声を出した。「だって、さっきまではすごくドキドキしていたじゃない」
「それは急なことでびっくりしたからです」
「なによ、まるで枯れ木が岩に寄りかかったようなものだって言うの? 真冬みたいに心は冷たいままだってこと?」
「そういうわけではありません」
「それじゃあ、どういうことよ?」
娘は自分でも意外に思うほどがっかりしていることに気づいた。それは、僧の返事があまりに当たり前で、普通で、それがかえって嘘にしか聞こえないからだった。あまりにそれが気に入らないので、僧の首に巻きつけた両腕をぎゅっと絞めてやった。
僧は苦しそうに続けた。
「私が感じていないのは、あなたが想像しているような欲望のことです」
「私が何を想像しているのか言ってみなさいよ」
「私があなたの若々しい肉体や精気を貪りたがっていると思っているのでしょう?」
娘の顔がたちまち真っ赤になった。
僧はかまわず続けた。
「あなたが持っている美しいものは、あなたが大事に持っておきなさい。私はそれに手をつけようとは思わない。それよりももっと興味をそそられるのは――ええ、実を言うととても興味を感じているのです――それは、あなたが今、何に苦しんでいるのかということです」
「変わった趣味をお持ちね」
「そう思われるのはごもっとも」
僧の首を絞めている腕が少し緩んだ。娘は言った。
「わたしの苦しみを知ってどうするの?」
「私はそれを自分の苦しみと捉えます。魔界は一つです。人と人とは繋がっているのです。誰かを傷つけることは、実は自分を傷つけることと同じなのです。ならば、誰かの苦しみを救うことは、自分の苦しみを救うことになりはしないでしょうか。苦しみを受け止めるということはとても骨の折れることですが、やがて大きな力と喜びを生み出すことができます。それが生きるということです。それを繰り返していれば、いつかは衆生を救うことができるでしょう。苦しみを経ることで、ようやく本当の悟りに至ります。魔界をくぐり抜けて仏界に達するわけです。魔界をすっ飛ばして直接仏界を目指しても、そこにあるのは偽の仏に過ぎません」
娘は急に心が洗われたような気分になって、燃え上がっていた怒りや失望が収まっていくのを感じた。
「それじゃあ、お坊様はここでずっとみんなの苦しみを感じているの?」
「はっきり『そうです』と答えるのはおこがましいですが、少なくともあなたを貪りたい気持ちが起こらないほどには修業が進んでいるようですね」
「それなら、ずっとこうしていても平気ね」
娘は、あらためて弾むような気持ちで僧の背中に飛びついた。彼の首に腕を巻きつけ、頬に頬をすり寄せる。
僧は困って言った。
「せっかくの粥が冷めてしまう」
「ダメよ、わたしの気の済むまでこうしているの」
そのとき、僧の青かった頭にふさふさと髪が生えてきた。
「まったく、勘弁してくれよ、華ちゃん……」
「うふふ、そういうところが好きなの。龍之介さん、大好き……」
「おい、華! 起きろ! 抜き打ち訓練だぞ!」
桃井華は、突然布団をひっぺがされてベッドから転がり落ちた。痛みと大声に驚いて見上げた先には、点滅する赤い照明を背に、千堂しのぶの見惚れるような凛々しい顔があった。
「なに寝ぼけてるの? 緊急出場命令だよ! リーダーでしょ?」
ここでようやく、華は自分が夢を見ていたことに気づいた。こちらを見下ろしているしのぶの顔、忙しく準備をしているチームの仲間たちの姿が、華の意識を一気にしゃっきりしたものに変えた。
華のネビュラの視界のど真ん中には、「緊急出場(訓練)」を告げる赤い文字が躍っている。そして、それと重なるように、緑深い山奥の庵で僧の背中に若い娘が抱きついている映像が浮かんでいた。その上に「婆子焼庵」というタイトルがついている。百科事典の古い記事を読んでいたらしい。
「そうか、昨夜ネビュラを繋げっぱなしで寝ていたから、変な夢見ちゃったんだ」
夢の中で抱きついていた僧の背中の感触や匂いまで思い出されて、華は幸せな気分になった。
座り込んだままニヤけている華を、しのぶがまた一喝した。
「こらあ、まだボーっとしとるか!」




