ヘラクレスとヒドラ(後編)・4
サトルは華の隣りまで見えない椅子を運んできて、それに腰かけた。
「華ちゃん、こっちを見ないで。箱を持ったまま聞いてほしい。しばらくスイッチを切らないでいてくれよ」
華は返事する代わりに、ブラック・ボックスをひっくり返したりして何かを確認しているようなふりをした。そうしながら、華の胸の中は愛情と安堵の気持ちでいっぱいだった。サトルを抱きしめたいような気分だった。力いっぱい、昨日のことを謝りたかった。
「僕は今、学校の別の部屋にいるよ。先生が監視の刑事を遠ざけてくれているから、こうして話をしても聞かれる心配はない。朝からいろいろ訊かれたよ。僕はヘラクレスのことも、君のことも黙っていた。僕の部屋から押収されたブラック・ボックスを見せられたときも、僕はとぼけていたよ。君も黙っていれば、長く拘束されることはないはずだ。僕もみんなの取り調べが終わり次第解放されるらしい」
「本当? よかった!」と、華は心の中で叫んだ。サトルと再会したら、私もサトル君のことが好きだよと言って、一緒に帰りたいとまで思った。
松田刑事がそろそろ箱を返してもらいたそうにしているので、サトルは早口で、しかし、はっきりと言葉を区切りながら言った。
「華ちゃん、ごめんよ。僕は、君に言わなきゃならないことがある」
「なに?」と華は思い、不安になった。
「僕は、君がどんな負担を感じるのか考えずに、この道に引きずり込んでしまった。これから先、いつまた同じようなことが起こるかわからない。だから、僕は君の前からいなくなるべきだと思う」
「そんなことないよ、私だって、これからもっと強くなって、君の力になりたいんだよ」と、華は心の中で叫んだ。
「華ちゃん、さようなら。もう二度と会うことはないと思う。君と過ごした日々は、とてもとても、楽しかった。僕は君のことを忘れない。でも、君は僕のことを忘れていい。宇宙消防士を目指して、憧れの龍之介さんに会えるように、がんばってほしい」
華は箱をいじくりまわすふりをしながら無表情を装ったが、その両目から、涙がつっと頬を伝った。
「さあ、スイッチを切って」
華はスイッチに指をかけた、でも、どうしても切れない。最後に一度だけ、サトルの顔を見ながら想いを伝えたかった。
「いけないよ、華ちゃん」
華が迷っていると、突然、安藤先生が駆け寄ってきて、強い口調でこう言った。
「刑事さん、もう、そのくらいにしてください。生徒が泣いているじゃありませんか」
「いやいや、わたくしどもは、そんな……」
安藤先生が間に割り込んで、松田刑事に詰め寄ったので、ちょうどいい隙が生まれた。
華は、サトルのほうを向いた。やっと、はっきり彼の顔を見ることができた。サトルは不意を突かれた様子だったが、華はかまわず自分の顔を近づけて、彼の唇にキスをした。
「ありがとう、サトル君。さようなら」
サトルは自分の唇に手を触れて、満足そうに微笑んだ。その笑顔が、華にとっての最後の彼の記憶になった。
華はスイッチを切った。
「それにしても、妙な事件でしてね」
と、松田刑事は語り始めた。華が最後の生徒だったので、取り調べが終わって緊張がほぐれたのか、安藤先生にこう漏らしたのだ。華はその横で黙って聞いていた。
「ヘラクレスとかいう組織だか個人だかわかりませんが、連中が送りつけてきた文書には、不正の当事者の名前や内部告発者についての具体的な記述がないのです。つまり、怪文書と同じですな。こういうものは裁判の証拠にはなりません」
「ということは、この暴露は無駄だったということですか?」
「無駄ではありませんが、裁判で追い込むには決め手に欠けるということです。当局の捜査も、まあ世間の興奮を収めるための形だけのものということになるんですな」
「とんだ空騒ぎじゃありませんか」
「しかし、これで企業はもう不正はこりごりでしょう。誰も罰せられることなく、罪だけが明らかになったわけです。罪を憎んで、人を憎まずというわけです」
それがヘラクレスの本当の狙いであったのかどうかは、とうとうわからなかった。不正の当事者を裁判で追い込むための証拠集めは確かに行われていたが、それが第二段のメッセージとして暴露されることは、ついになかった。
華の手は、すんでのところで、血に染まらずに済んだのだ。
次回、第四話「秘密のテスト」




