秘密のテスト・1
「ねえ、華、こんな噂があるの、知ってる?」
いつもの四人が学校のカフェテリアで昼食をとっているとき、明美が急にそんなことを言い出した。
「たぶん知らないと思うけど、聞くだけなら聞いておくよ」
華はそっけなく答えた。
「それじゃあ、まず、うどんを食べるのをやめてくれる?」
「急いでるんだけど」
「大事な話だから」
仕方なく華がどんぶりと箸を置くと、明美はテーブルの上に身を乗り出した。沙織と美保も耳をそばだてる。明美はひそひそ声で言った。
「宇宙消防士の志望者の間で流れている噂らしいんだけど、いま四年生で、もうすぐ消防学校の採用試験に必要な単位がそろいそうな生徒には、抜き打ちで秘密のテストがあるんだって」
「どういうこと?」
それは聞き捨てならないと、華も身を乗り出した。どうしてそれを明美が知っているのかはとりあえず置いておく。
「四年生の一年間のどこかのタイミングで、ちょっとした事故や事件が起こるんだって。火事だったり、交通事故だったり、いろいろだよ。それも、志望者にとってすごく都合の悪いときを狙ってくるんだそうだよ。たとえば落とせない試験の日だとか、めったに予約が取れない授業の日だったりとかね。今のところ、身に覚えはない?」
「特にないよ。それで?」
「もしも自分の都合を優先して、その事故や事件を目にしても見て見ぬふりをするような、宇宙消防士としてあるまじき行動を取ってしまった志望者は、採用試験を受ける前の書類審査で落とされるんだって」
「あくまで噂でしょう?」
「まあ、そうなんだけどね」
「そんなのあり得ないよ」
と、華は再びうどんをすすり始めた。その所作には微塵も動揺が感じられない。
「どうして、そう言いきれるの?」
明美は食い下がる。華は淡々と言った。
「全国に、宇宙消防士の志望者が何千人いると思う? その一人一人のために、いちいち何かの事故をセッティングするの? どのくらいの人手やお金が必要か計算してみなよ」
「ぐぐぐ……」
「仮にも消防に関わる人間がだよ、事実を隠して何かに火をつけたりものを壊したりすると思う? もし巻き添えが出たらどうするの? それに、絶対にすべての志望者を平等に試験できるわけないんだから、そんなテストは無効だよ。そもそも、そんなものに人手を割いている間に本来の消防業務はどうなるのかっていう話じゃない?」
「いちいち理屈で反論してくるのね」
「これだけあり得ない理由があるんだから、そんな落語の人情噺みたいなテストは絶対にないよ。ごちそうさま」
「あんたのためを思って言ったのに……」
ぐうの音も出ないほど言い込められて、明美はテーブルの上に突っ伏した。
食べ終えてさっさと立ち去ろうとする華に、沙織が呼びかける。
「ねえ、華、あんた、もうスカート穿くのやめちゃったの?」
「スカート?」
華は自分の身体を見下ろした。ワイシャツに臙脂のネクタイ、下半身は紺のスラックスという飾り気のないいでたちだ。どのくらい前からこの服装になったのか、もう思い出せない。「これだとジャージを穿いたままでいられるし、学校にも走って通えるから便利なんだ。多分、卒業までこの格好だと思うよ」
「貴重な青春時代をそうやって駆け抜けていくんだね……」
美保は悲しそうに呟いた。
「じゃあ、もう時間がないから」
急いで立ち去ろうとする華に、沙織がもう一度声をかけた。
「あんた、髪くらいは切ったほうがいいよ。それだと頭ボサボサの少年にしか見えないから」
「だって、切りに行く暇がないんだもん」
とうとう華は行ってしまった。それを見送る三人は、深いため息をついた。
「あの明るくて素直だった華はもういないんだなあ……」
明美が遠い目をして言った。「きっと、勉強のやり過ぎで心が歪んでしまったんだよ。ご飯をしっかり食べると眠くなるから嫌だとか言って、うどんばっかり食べてるし。しかも具なしの」
「採用試験まであと半年ちょっとか……」と沙織。
「このまま卒業だと、なんだか寂しいね」と美保。
三人はもう一度、深いため息をついた。
その日の夕暮れどき、華が自宅に帰ると、玄関を開けた途端に、夕食の支度の匂いが心地よく迎えてくれた。今夜は肉じゃがかな、お腹が空いてたまらないよ! と思いながら華は廊下を駆けていく。
すると母が台所からひょっこり顔を出した。
「華、ご飯どうする?」
「お風呂が先! それと、先に宿題済ませちゃうから」
「あ、そう。こら! 脱ぎ散らかさないの!」
「体操服、もう予備がないから、明日までに乾かしといてね」
そう言い残して、華は風呂場に飛び込んでいった。
「どたばたどたばたと、まあ……」
母は呆れて微笑んだ。
濡れた髪を頬にはり付かせたままの華は、机の前で難しい計算式と格闘していた。お腹が空いて頭が働かないが、ご飯を腹いっぱい食べると眠くなるので、今のうちに片付けておくしかない。
そこに、妹の翼がこっそりドアを開けて入ってきた。それに気づかぬ華ではない。
「邪魔しないで」
「お姉さま、大事なお話があるのです」
「なによ」
たちまち、翼は、華の肩にしなだれかかってきた。腕を首に巻きつけて、背中に抱きついてくる。
「お姉ちゃん、シャンプーのいい匂い……」
「懐かないで」
そう言いながらも、されるがままになっている。
「何の勉強してるの?」
「明日出さないといけないやつ」
「難しいの?」
「人工衛星の軌道制御の計算式、代わりに解いてくれる?」
「無理です」
「じゃあ、邪魔しないで」
翼は姉の首から腕をほどいて、横に回り込み、床に座り込んだ。そして、華の太腿を枕にして、上を見上げた。華の右の太腿に、妹の頭のずっしりした重みが乗った。最近の翼は、すっきりしたショートカットだ。
「ねえ、お姉ちゃん」
「だから、なによ」
「おじいちゃんが、今度泊まりに来なさいって」
「すぐは無理だよ」
「夏休みでもいいって」
「夏休みは、全部補習で埋まってるの」
華は壁に貼ってある大きなカレンダーを見た。ネビュラを使ってページをめくる。ほとんどに赤で印がつけてある。そんな中、八月十六日だけがまっさらだ。それと、翌日の十七日には「補習、午後六時」と書かれている。だが、その補習だけは絶対に落とせないので、そんなギリギリの賭けに出るわけにはいかない。
「お姉ちゃん、来年にはガラパゴスに行っちゃうんでしょう?」
「そうだよ、うまく単位が取れて試験に受かったらね。それと、私が行くところは正確にはガラパゴス人工群島っていうんだよ。本物のガラパゴスとは五百キロ離れてるの」
翼は、姉の太腿の上でもじもじした。
「行っちゃったら、それから何年も会えないんでしょ?」
「ネビュラで会えるじゃない」
「ネビュラじゃ嫌だよう」
翼は、じっと姉の顔を見つめた。「おじいちゃんもおばあちゃんも、ネビュラやってないもん。このまま会わないで、お姉ちゃん行っちゃうの?」
華の胸がずきりと痛んだ。おじいちゃんは九十を超えているし、おばあちゃんは七十も半ばだ。もう一度カレンダーを見た。ちょっとためらいつつも、華はこう言った。
「一泊だけならできるかも」
「本当に?」
翼は姉を見上げて、嬉しそうに目をキラキラさせた。
「八月の十六日と十七日なら大丈夫。でも、二日目の夕方の補習は絶対落とせないから、時間厳守だよ」
「承知いたしました」翼は敬礼した。
「全部で三回受けなくちゃいけなくて、二回目までは受けられたんだけど、なかなかスケジュールが合わなくて、なんとか無理矢理時間を作ってもらった三回目なの。これを受けないと単位がもらえなくて、留年なんだよ」
華は、宿題を再開しつつ、右手で翼の小さな鼻をつまんだ。
「だんどほしゅうだど?(なんの補習なの?)」
「漢詩だよ。中国語の詩。難しいんだこれが」
「たいへんたねえ(大変だねえ)」
「あんた、毎週末おじいちゃんちに行ってるんでしょ?」
「ふん(うん)」
「あんまり迷惑かけないようにしなさいよ」
「だっで、おじいちゃんちにしかだいほんがあるんだぼん(だって、おじいちゃんちにしかない本があるんだもん)」
「翼が哲学やりたいって言ったら、おじいちゃん喜んだでしょう?」
「ふん(うん)」
翼は誇らしげに目をキラキラさせた。華もつられて笑顔になる。
「じゃあ、くりくりお目々の翼ちゃん、そろそろ私を解放してくださいな」
「はーい」
華が手を放すと、翼はぱっと立ち上がった。
そこに、母がひょっこりやって来た。
「どんな調子? お父さんがご飯待ってるよ」
「もうすぐ終わるから」
翼が、母の両手を取って嬉しそうに言った。「お姉ちゃんと、夏休みにおじいちゃんちにお泊りに行くの」
「そうなの、よかったねえ。ちゃんとお墓参りしてきなさいね」
懸命に計算式に取り組んでいる華に、母は言った。
「華、おじいちゃんちに行く前に、髪を切っておきなさいよ。そのままじゃだらしないよ」
「はいはい、なんとかしますよ」
華は背中を向けたまま答えた。
そのとき、ふと、華の心に嫌な予感がよぎった。今日の昼間、明美が妙なことを言っていたな。秘密の抜き打ちテストがどうとかこうとか、あり得ないことを。
「それも、志望者にとってすごく都合の悪いときを狙ってくるんだそうだよ」
明美の言葉が蘇り、華は、カレンダーを見た。八月十七日の午後六時に、特に大きな丸が付いている。その前日からおじいちゃんの家に行って、一泊して、翌日は早めに帰って、六時までに補習を受けるために学校に行く。
ただそれだけのことだ。




