現代版・むじな 中編
まだ、あっち側と呼ばれている坂が旧く淋しい道だったころの話だ。
あの頃はわしもまだまだ働けて、仕事が全ての毎日で、家も毎日決まって遅い時間に帰るようなっていた。あの時は怖い物知らずで喧嘩も負けたことなんてなかったが、夜のあっち側にだけはどうしても通ることができなかった。
しかしたった一度だけ、あの日の夜だけ、あっち側を通ったことがある。
どうしても急いで帰る必要があった。仕事が遅くまで長引いたのと、ばあさんが倒れたって知らせを仕事中に耳にしたからだ。
だから急がねばという勢いに任せて、つい、というかうっかり足を出してしまったんだ。
一線を越えてしまったと、ハッと我に返った時にはもう遅かった。
あっち側に足を置いてしまっている。意識してしまうと急に胸が苦しくなって、後ろに振り返って道を戻る勇気が持てなかった。
背後に何かがいる。人間ではない気配を感じたんだ。
恐ろしい想像ばかりが頭に浮かんだ。それをなるべく考えないように努め、坂道を早く通過してしまうことに集中した。大きな坂じゃないから、あっという間に越えられるはずだ。
気持ちを固めて足を急がせた。転んでしまいそうだったから走りはしなかったが、それとは変わらないほど大股になって進んだ。
坂道の真ん中あたり一番高い所に着いて、あとは下るだけだ。
ゴールは目前。真っ暗闇だが希望の光を感じた瞬間だった。
視界の隅、道の脇に何かがいる! 驚きのあまり勢いのついた足を、止めてしまった。
暗くてその形状はハッキリしなかったが物体の有無を確認した。
あれはなんだ。
正体がハッキリとしないせいで、逆に目を凝らしてしまう。視線を離すことができない。
初めは大きな獣みたいなのが体を丸めているかのように思えた。しかしどうやら違うらしく、怪訝に思って凝視しながら近寄ってみると、人の形をしていることに気づいた。
人間がいる。
なんだ。と、知らない間に止めてしまっていた息を、安堵とともに思いっきり吐き出した。
こんな場所にいるのが自分だけじゃないと分かったからだ。
しかしこの時、安心のあまり気づけていなかった。
人を寄せ付けない夜のあっち側に、自分以外の人がいること事態がおかしいのだ。
しかしそんなことに気づけるわけもなく、親切心からその人に話しかけた。
女だった。背中を向けて、うずくまるようにして座って、泣いていたんだ。
こんな薄暗くて陰気で、禍々しくて気が滅入るような場所で泣いているのだ。
女の様子を目にして、ある考えが過ぎった。悪い想像だよ。
女がまさかこれから自殺をするのではないかと、思ったんだ。
そう考えてしまったら男として黙っているわけにはいかない。彼女を慰めるために、姿がハッキリと見えるまでもっと近づいてみた。
そこで分かったのが女が着物を着ていたこと。汚れや皺がひとつもなく綺麗に着こなせていて上品な印象を受けた。髪を上げて覗けたうなじは白く透き通っていた。首が細く、華奢で若い女性の体を想像した。
美しい。恥ずかしい話だが真っ先に浮かんだ印象がそれだった。
思わす後ろ姿に見とれていると、ひっく、と泣く声が耳に入った。
本当は見て見ぬふりをして、さっさと通り過ぎてしまえば良かったんだろう。
倒れたばあさんのもとに一刻でも早く駆けつけなければならなかった。
そうと分かっていながら、若い女の方にそろそろと近づいて、いかにもか弱そうなその背中に精一杯の優しい声をかけた。
「あの、大丈夫ですか? なにか……あったのですか」
声が相手の耳に届いていなかったのか、反応がなくただ泣き続けるばかりだった。だからもう一度、ハッキリと耳もとで大きく、んでもって優しく言った。
「もしもし。どうか泣かずに落ち着いて。私の言うことを良く聞いてください。何かお困りなんですか? 自分で良ければ相談にのります。あ、けっしてやましいことなんか、これっぽちも考えていません。だから安心してください」
すると今度は、いやいやをするみたいに女は首を振った。その仕草があまりにも可憐で弱々しく見えたから、つい女の肩にわしは触れてしまった。
「この辺りは、あなたのような若い女性が夜更けにくるような場所ではありません。泣かないで。さあ。どうしたらあなたの力になれるでしょうか?」
声をかけて何度目になるだろうか。女の人は、ようやく立ち上がってくれた。
ここで初めて女の全身像を目にすることができた。その体のラインは予想した通りの細く絵に描いたような美しいものだった。周りは暗くて良く見えないのに、女の体だけは発光しているかのようにハッキリと瞳に映った。
しかしそれが余計に、小さかった嫌な考えを大きく膨れあげさせた。
具体的な内容は説明できない。ただ早くここから立ち去ったほうがいい。そればかりを思うようになっていた。
ずっと背中を向けていた女が、くるりと体をこっちを回した。だけど顔は両手で覆ったまま。すでに泣き止んで、涙も止まっているようなのに。それなのに顔を隠している。
まるで赤子に「いないいないばあ」をするみたいな形だった。
不気味な光景にぞっとして思わず後ろに下がると、女はわしが下がった分だけ前に詰め寄ってきた。ますます怖くなって、慌ててその場から離れようとした。
この女は普通じゃないと直感し、逃げなければと頭の中で叫んでいた。
わしが危険を感じていることに気づいたのか、女が顔に当てていた手を、すっと下にずらしたんだ。
そんなまさかと、女の"それ"に、わしはたまらなくなって叫び声を上げた。何も考えずに逃げた。自分がどんなふうになって走ったのか、その様子をいっさい覚えていない。とにかく無我夢中になって真っ暗な中を道を突き進んだ。
どれくらい走り続けたか。知らぬ間に坂道を越して、平坦な通りにいた。自分がどんなふうに走り続けたのかサッパリで、現在地がすぐに頭に浮かんでこなかった。思考が働かず知らない道の真ん中に立たされているような感覚。混乱する心を必死に抑え、努めて冷静になった。周囲を見渡し自分の知っている目印はないかと探した。
暗闇のずっと先で、蛍の光ほどの小ささだが、ひとつの光を見つけることができた。
どんなものでもわしは大きな安心を見つけた気がして、止めていた足を動かした。
光は近づくにつれ、どんどん大きくなり、とうとう正体が肉眼でも確認できるほどになった。
蕎麦屋――屋台だった。他に確認できるものがなくて屋台の灯りだけが暗闇にポツンと浮いているみたいだ。どんなものでも、とにかく落ち着くことのできる場を見つけて駆け込んだんだ。
屋台には店のオヤジが一人だけいた。仕込みの最中なのか、走ってやってきた俺に見向きもせず、背中を向けたまま喋りかけてきた。
「坂の上から転がるように下りてきて、大丈夫ですかい?」
オヤジの声がとても優しくて、緊張と疲労がするするとほぐれていくのが分かった。
そして困惑し取り乱していた自分の姿を想像して恥ずかしく思った。
「あ。はい。もう大丈夫です。いやぁ本当に、恐ろしいものを見てしまいました……」
「何かあったんですか? 喧嘩ですか」
「いやぁ何と言ったらいいのか」
「分かった。殺人でしょ」
「ははは。恥ずかしい話ですが、まったくそういった話じゃないんですね。聞けばバカみたいな内容だって思いますよ。なんたって――」
「お化けを見た、とか」
出ないと思っていた答えが出てきたので、思わず言葉を詰まらせた。
「え、ええ。奇妙な、それを見てしまったんです。本当に、信じられない……あんなあんな」
「ほお面白い。どんなのでした?」
「いや、それがですね。本当にバカバカしくて、きっと見間違いなんだろうと思うんですけど、女の顔が、なんていうか、おかしなことになっていたんです」
震える声で言うと、店の親父が振り向き様に言った。
「その女もしかして、こんな顔でしたかい?」
男が振り返った。男と向き合った直後、提灯の明かりが消え、全てが真っ暗闇となった。
違う。わしの意識が途切れたのだった。