第十五話 家族 その6
【2018年 8月13日】
・視点 水野友寄
「……はぁ」
からっとして、それでいてほんの少し湿った夏の空気に、苔むした吐息が混ざる。長年体に残り続けているそれは、外に出た途端、浄化でもされたかのように跡形もなく消え去っていく。
そのまま、全部無くなってしまえばいいのにと思いながら、僕は目を開け、合わせていた掌<てのひら>を離すと、寝静まった赤子も起きない程静かに立ち上がる。
それから、二歩三歩後ろに下がると、すっかり開けたその視界には、青々しく茂る自然の中、その美しさを保ったまま陽光を反射する墓標が、はっきりと写った。
目の前と、それから、少し横にもう一つ。寄り添うように並ぶそれらからは、さっき自分が供えた線香の白い煙が、まっさらな青空へと緩やかに立ち昇っている。
その光景を見ながら、僕は、本当は共にこの光景を見たかった一人の少女の事を思い出し、そして、言葉を発さず、けれど、心から拒絶する表情が脳裏に写ると、また一つ、溜息を吐いた。
きっと当人には心の底から否定されるだろうけれど、でも、あの子の抱えるモノは痛いほどにわかる。自分が同じ立場だったら、きっと、間違いなく行きたくないと、帰りたくないとそう言ったはずで。
その精いっぱいの拒絶の裏には、数え切れない程の心情があるのだろうと理解しながら、それでもいつかは来てほしいと願う、自分自身の残酷な大人心に。
わかっている。それは、彼女を思ってではない。己が囚われている後悔と願望を消し去るための、罪のない贖罪でしかないのだと。自分は、そのために彼女を利用している糞野郎だと。
それに対して、許しを請うつもりはない。ただ、せめてどうしようもないのだとは知っていてほしい。
ある日突然いなくなられて、戻ってきたと思ったら、既に灰骨になっていて、自分は何にも気づかされず、頼ることすらされないほどに信頼されていなかったのだと分かったときの無力感と絶望は、そうでもしないと誤魔化せないのだと。
事実、あの時の子供だった僕には、きっと何もできなかっただろう。けれど、それでも頼ってほしかった。話してほしかった。共に抱えさせてほしかった。一人で、どこまでも一人で、苦しんでほしくなかった。
結局最後には選ばれなかったのだとしても、せめて、仕方ないと思える位には、兄弟として、家族として、貴方には…………、
「…………兄さんには、僕を信じてほしかった」
もう、何の意味もないのだと理解しながら、そう、一言呟いて。
『ああ、本当に、すまなかった。弟一人も信じてやれない、馬鹿な兄貴で』
それは、突風のように僕の心を吹き抜けた。
※※※※※※
「当たり前だろ、俺はお前の兄貴なんだから」
幼い頃、僕が困ったとき、怯えた時、泣いたとき、いつも助けてくれた兄さんは僕が謝ると、決まって笑顔でそう答えた。
自分の立場も、友情も、印象も、その全てを気にせず、ただ家族で兄でという理由だけだというのに、自分か傷ついてでもそうしてくれる理由が、僕には分からなかった。
切ったり殴られたり擦りむいたりしたら、痛いし血も出るのに。暗い場所や高い場所は、それだけであんなにも怖いのに。関わらなければそんな思いも経験もしないで済むのに、どうしてこんなことするのだろうって。
そんな疑問が積もりに積もって、とうとうある日、兄さんに僕は聞いてみた。そしたら、兄さんは、心の底から不思議そうにしながら、
「だって、それで大切なものを守れるなら、しない理由なんてないだろ? 確かに自分は大事だけど、それと同じくらいに大事なものもたくさんある。それが目の届く範囲にあって、手を伸ばせば届くんだったら、俺はできる限りそうしたい。それが自分のためにも、守りたい何かのためにもなるなら、それでいいんだよ」
そう言って、小さな僕には充分大きなその手で、僕の頭を撫でながら笑った。
その考えは、その答えは、余りにも眩しくて、憧れるには十分すぎる程で、何よりも、自分もいつか同じことを、して貰った分を返せるくらいに、兄さんにしたいと、そう思った。
だから、僕は力になりたかった。理由も言わず、ただ毎日傷ついてボロボロになって帰って来る兄さんに、自分のできる限りで力になりたかった。
「これは、俺の問題だ。だから、お前は関わるな」
冷酷に、非情なほどに拒絶されても、それでも、力になりたかった。
だというのに兄さんは、あの人は、最後まで僕を、家族を頼ってはくれなかった。
僕が、父さんが、母さんが、どれだけ心配していたかも知らないで。
あれだけ言っておきながら、自分自身には誰にも何もさせてはくれなかった。
「馬鹿野郎だ」
どこまでも真っすぐで
「馬鹿野郎だ」
どこまでも愚かで
「馬鹿野郎だ」
どこまでも優しくて
「馬鹿野郎だ」
どこまでも、どこまでも自分自身に厳しくって
「…………本当に、本当に大馬鹿野郎だよっ! 兄さんはっ!」
貴方が大切なものの幸福を願うように、僕らだって貴方に幸せでいて欲しかったのだと、そんな当たり前のことにすら気づかずに死んだ貴方は、本当に、心の底から骨の髄まで、ほんっとうに大馬鹿野郎だよ。
貴方が傷ついて、貴方が苦しんで、貴方が死んで、それでも貴方が守りたいものを守れたなら良かったなんて、誰一人祝うはずがない。誰一人喜ぶはずがない。
少しくらい、誰かを頼ればよかったんだ。少しくらい、弱気になってしまえば良かったんだ。
少しくらい、貴方が守りたいと思ったものへ、期待して、助けを求めて、信じてくれれば、それだけで、僕らは貴方を許せたんだよ。
後悔よりも、嘆きよりも先に、死んだ貴方に、頑張ったと、そう言ってあげられたんだよ…………。
※※※※※※
ゆっくりと、ゆっくりと、確かめるように、声のした方を振り向く。
すると、そこには、もう二度と会えないはずの人が、確かにそこに存在した。
心を埋めるありとあらゆる感情に覆われて声が出ない僕へ、兄さんは、言葉を続ける。
「俺は、一人で全部背負えると思ってた。一人で全部なんとかできると思ってた。見方なんて誰一人いない、自分しか信じれないんだって、本気でそう思ってた」
その声には、愚かな自分への嘲笑が乗っていて、けれど、それは次第に震え始め、
「俺はさ、自分の愛した人を救いたかったんだ。特別な力を持っているわけでも、誰もが認める正義の味方でもないってのに、人っ子一人自分だけで、それを貫き通せるって思ってたんだ」
掌を見つめると、顔を歪めながら、その手を折れそうなほどに握りしめて、
「実際、俺は出来ていると思ってた。上手くいくと思ってた。それに何より、そうすれば、あの子以外の、自分が大切に思う他の誰かも守れると思ってた。だからさ、考えもしなかったよ。自分のその行いのせいで、自罰して後悔する人がいるなんて」
悔しそうに、ただ、悔しそうに、
「俺は、自分を低く見積もりすぎてたよ。俺は、あれだけ貰っていたものを、全部全部無駄にしたよ。必要のない、罪で在る筈のなかった愛を、彼らの償いようのない罪にしてしまったよ。そんなもの、俺が、俺が一番望んでなかったものだってのに」
とめどなく、溢れかえった言葉を零して、
「あの日。彼女と町を出たあの日。あの子に全てを捧げるを決めたあの時、たった一つだけ心残りがあったんだ。お前や、父さんや母さんを、大切な家族を残していく事が、心残りになっていたんだ。だけど、それ以上に俺は、あの子を救いたかった。だから、俺は自分を騙して、無理やりに、一歩、踏み出した」
そう言うと、それを最後に、伏せっていた視線を真っ直ぐに、あの頃の、あの頃のあの人の目をして、
「そんな俺が、今更こんなことを頼むのは、こんなことを言うのは、傲慢だってわかってる。でも、それでも、もしも、お前がそれを許してくれるのなら」
決して、いう事は無かった言葉を、
「どうか、どうかお前を、“最後の最後で手が届かなかった”俺の、最後の願いを叶えるために、俺の、“一番大切なものを救うため”に、お前を、頼らせてはくれないか?」
信じると、確かにその目で語りながら、僕に問いかけた。
どれだけの間、その言葉を待っただろうか。どれだけの間、その信頼を待っただろうか。
今のこの現状が何なのか、そんなものはどうでもいい。
ただ、これまで生きてきた意味が、そこにあるのならば。
あの日、信頼に選ばれなかった寂しさと悔しさを抱き続けた意味があったならば。
今、ここに、これまでの全てを返す機会があるのならば。
――――答えは、ただ一つだ。
「ああ、勿論だ。勿論だよ、兄さん。だって…………」
だって僕は、貴方の弟なのだから。




