第十五話 家族 その7
男は、言った。
「まだ、希望はある」
二度の奇跡を起こし、それでも尚叶わなかった願い。
未来無き死人である自分には、本来どうしようもなかったはずのもの。
けれど、今は。
死人が出来るのは、生者に託す事である。いつか同じ未来を迎えるものへ、悔いなき生を願う事である。己が死が生者に何をもたらそうと、生者が何を思おうと、それでも生きられる限り、命あるものは生きなければならない。
死人が出来るのは、生者に託す事である。仮に、途方もない程の奇跡があったとしても、どこまでもそれは、ありうべからざる今である。故に、その命ある限り、生者は一人でその生を歩まねばならない。
死人が出来るのは、生者に託す事である。どこまでもどこまでも、先の見えぬ旅路を歩む旅人へ、生きろと叫ぶ事である。物言わぬ骸を乗り越えて、己がいつか道を作る骸となるその日まで、精一杯に生きろと、そう叫ぶことだけである。
未来を選べるのは、これからを生きるのは、残された彼らなのだから。
新たに希望のかがり火を灯せるのは、生ある魂だけなのだから。
「そのためなら、俺は自分に残されたものを、その全てを捧げよう」
魂も、記憶も、何もかも。
無念も、願いも、何もかも。
それでいい、それでいいんだ。
意志と責務は、あいつに託した。
親の幸福は、あの子に託した。
俺の、俺たちの願ったものは、全部あの子の、祈李の未来へ、託したから。
※※※※※※
【2019年 8月17日】
・視点 三司祈李
「僕はそうしてその日、兄さんから今まで話してきた全て、この夏に起こるであろう全て、そして、起きるかもしれない奇跡の起こし方を知ったんだ」
そう言うと、友寄さんは区切るように、胸に手を当て、一つ深呼吸をする。まるで大きな大きな覚悟を決めたような、そんな表情をして、
「さて、過去語りは、ここまでだ」
まっすぐ、決して離さないとでも言うような目で私を見ると、
「ここからは、託された未来の話をしよう」
真剣に、何処か希望に満ちた声で、はっきりと私にそう告げた。
「…………未来って」
ここまでやってきた理由であり、待っていたはずの言葉を言われて、きっと本当なら身を乗り出してでも聞こうとしていたはずで。
けれど、実際のところ私の身体は、どうしてか竦み、震え、まるで、怯えているかのように、喉の締まった小さな声しか出なかった。
「これから、起こすことのできるかもしれない、最後の奇跡の事だよ」
そんな私を知ってか知らずか、友寄さんは心配の言葉もなく、ただ淡々とはっきりと、相変わらずの優しさ交じりの声で私の問いに答える。
「話した通り、奇跡を起こすには、それ相応の願いが必要になる。むしろ、願いが無ければ奇跡はそもそも起こらないというべきかな」
「願い、ですか」
「ああ、そうさ。全ての奇跡は例外なく、その根底には誰かの願いがあった。澄希さんが、自分を知らない無垢な誰かを望んだように、兄さんが、家族の幸福を望んだように」
私の知らない両親の話を聞いて、奇跡を起こすほどの願いがどれ程重く、重要なことなのかは、嫌という程に分かった。わかった、けれど、
「そして勿論、そんな願いを、君も持っているはずなんだ」
それに対して、私は何を返すでもなく、ただ沈黙を貫いた。
別に、言っていることの意味が分からなかったわけじゃない。ただ、そう言われても私には、そんな願いが何一つ思い浮かばなかったから。きっと、そのことが顔か何かに出ていたのだろう。
「思い当たるものがないのかい?」
「……はい」
見透かされたように言われて、望んでおいて何一つ心当たりがない事に申し訳なさを覚えた私は、伏せりながら小さく答える。下を向くと、縮こまっていた体は、さらに小さく、小動物のようになった気がした。
そんな私を眺めていた友寄さんは、少しだけ考えるような仕草をすると、頷きを合図に立ちあがると、私の方へと歩み寄ってきた。それに、私は視線だけ向けつつ、変わらずに下を向く。
そんな私に友寄さんは何を言うでもなく、傍まで来ると、何だろうと思っている私に向かい幼子を安心させるように笑うと、向かい合う私の頭に手を置いて、宥めるように優しく撫でた。
「と、友寄さん?」
急なことで狼狽し、私は思わず名前を呼ぶ、けれど、友寄さんは答えない。そうして、行動の意図もわからずそのままされるがままになっていた、その時、
「大丈夫」
頭上で、ふとそんな声がした。
「思い当たることが無いのは当然さ。君が自分でもわからないほどの底に秘めているそれは、本当なら願いにすらならないほどの些細なことで、望まなくたって手に入るようなものだったんだ」
その声には、優しさと、ぬくもりと、私を思ってくれる何ががあった。
「でも、君は少し、ほんの少しだけ、その機会が足りなかった。だから、自分でも理解できないまま、奇跡の糧になるほどに大きく願う事になったんだ。でも、それは君のせいじゃない。君のせいじゃ、無いんだよ」
それだけ言い終えると、暖かなその手を離して、友寄さんは席へ戻った。
その人と、気づけば目線はあっていて、気づけば顔は上がっていて、気づけば体は強張りを無くして、気づけば、心から申し訳なさは消えていた。
「調子が戻ったところで、話を戻そうか」
こほんと一つ咳払いをして、友寄さんは再び語る。
「さっきも言ったように、奇跡には、相応の願いが必要だ。そして、この話をしている以上、君にもそれに見合うほどの切実な願いは確かにある。あるんだけど、改めて、その心当たりはあるかな?」
問われて、私はまだぬくもりの残る頭で考える。そして、一分ほどが経った後、私はさっきは出なかったその答えにたどり着いた。
「私は……私は、ずっと、普通に生きたかった。他の皆と同じように、普通の誰かになりたかった。レッテルも何もないまっさらな私として、誰かに、友達に、接してほしかった」
それは、長すぎるくらいの間抱え続けた願い。もう、二度と叶わないのだと思っていた願い。ただ、それは……、
「でも、それはもう、この夏に叶ったんです。全部全部、あの人が、叶えてくれたんです。だから、無いとは言わないですけど、その、奇跡を起こす願いというには、足らないと思うんですけど」
今、こうしてもう一度あの人に会いたいと願うくらいには、未だ抱え続けている。けれど、確かにあの日、私は願いが叶ったのだと、心から満たされた。
だから、違うんじゃないかと、そう思っていた私の疑念は、
「その通りだ、祈李君。確かにその願いは、あの奇跡によって叶った。
同じような願いを以て、誰も自分を知らない友人と、そして、家族を夢見た澄希さんの願いと混ざり合うようにして、大きな願いは、時を超える程の奇跡となった。
でも、その二つは、同じ真実なんかじゃない。これから起きるかもしれない奇跡を起こす願いは、それじゃないんだ」
叶ったと、そう言った上で友寄さんがこれ以上ない程にはっきりと否定したことで確実なものに、けれど、同時に自分に求められているものがどれ程のものなのかを理解した。
自己を知り、他者を知り、それによって生まれたこれ以上無い程の渇望。十数年しか生きていない内の、それでも半分以上を占める間抱き続けてきたこの願いを超えるものなんて、何も思い浮かばない。
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
わからない。
なにがほしい。
なにがほしい。
なにがほしい。
なにがほしい。
なにがほしい。
なにが。
なにが。
なにが。
なにが。
なにが。
…………ほしい?
「……あれ?」
違和感が、駆け巡る。ほんの些細な、のどに刺さった小骨のような何かが、漠然と私にもやをかける。
何なのかは、未だわからない。ただ、どうしてもそれが気になって、必死に、必死に考えて。
ようやく、思い至った。
私は、あの人のおかげで普通を知った。何もない、ただ普通の関係を知った。
過去を知って、それでも受け入れてくれたあの人は、確かに私の救いだった。
でも、それだけだ。
屁理屈と言われれば、そうかもしれない。
でも、私は普通になりたかっただけで、誰かを望んでいたわけじゃない。
たまたま、たまたまあの人は、私の救いとなってくれる人だった。
でも、奇跡であの人と会ったことと、あの人に救われたことは、話が違う。
あの人にもらったものは、奇跡なんかじゃない。あの暖かさは、一人の人間が私にくれた感情で、奇跡がくれた物じゃない。
起こったことだけで言えば、確かに奇跡だったのだろう。願いは叶ったのだろう。けれど、あの日々は、あの時間は、あの音は、あの景色は…………、
――――この記憶は、二人で創ったものだ。
なら、何だ。
この夏の奇跡を起こした、私の願いは何だ。
何も知らない友人を、ただただ幸福な家族を望んだあの人の願いと調和し混ざり合るような、私の願いは何だ。
あの救いが、出会ったことで生まれたものであるならば、私があの人と出会う前から望んでいたのは、一体、何なんだ。
「君が、その願いに気付いたのなら、もう一度、もう一度だけあの場所に行ってみるといい」
「…………え?」
「期限は、夏の終わりまで。本当はもう帰らなければならないのに、君のために待ってくれている。もっとも、会えるかどうかは、君次第だけどね」
どれくらいか、私が自分の内側で問うていた間蔓延っていた静寂を破った友寄さんは、真面目の最後に微笑を浮かべながらそう言った。
そして、
「さて、僕がすべきことはこれで全部だ。それじゃあ真那君、祈李君を頼んだよ」
真那に託して席を立ち、そのまま何処かへ行こうとした。
唐突の事で驚いたけれど、確かにそれは言う通りで、友寄さんはもう必要なことを全部話してくれた。細部までわかったわけじゃないけど、奇跡の起こし方は理解できた。だから、後は私次第なだけで、友寄さんがするべきことは、友寄さんに出来ることは、もう、何もない。
わかっている。わかっている。
けど、だからってそれはない。本当、早すぎてあり得ない。ここまで私に話しておいて、ここまで私を呼んでおいて。用が済んだらはい終わり、なんて、本当、あんまりだと思う。
そう、思ってしまったからだろうか。
「待ってください友寄さん!」
その言葉は、気づけば口から飛び出していた。
「どうかしたかい? さっきも言ったけど、僕が知っていることは全て君に話し終えた。だから、もう僕が君に出来ることは何もないよ」
引き止めた私に対し、友寄さんは変わらず笑顔を浮かべながら、変わらずそんなことを言う。けれど、それに対して振り向いても見える背中は、何処か、何処か寂しそうで。
それは、いつか見た誰かの姿で。
それは、確かに私の事を思っていたあの人の、清美さんの、姿のようで。
要らないといって、それでも、私の幸福を願ってくれたあの人と同じように、この人は、友寄さんは、私の事を。
だから、私は、
「…………全部終わったら、一緒に帰ってもいいですか」
そう問うと、友寄さんは、一瞬酷く驚いた顔をして、それから、
「…………ああ、勿論さ」
そう言って、改めて笑うと、出しかけていた足を前に、暗闇へと向かっていった。




