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第十二話 巡魂祭り その1

 夢を、みた。


 もう、決して叶うことのない夢を見た。


 親が信頼出来て、人に好かれて、何気ないことを楽しめて、些細なことでも笑えて、そんなことを語り合える友達がいて。


 そして何より、ありのままの自分を見てくれる誰かがいる。そんな、素敵な世界で生きる夢を見た。


『どうして?』


 どこかの誰かが、自分が幸福であることも知らずその“普通”を当たり前に生きているのを見るたびに、頭に浮かんだ。


 考えてはいけない、望んではいけないと言い聞かせた。


 そうしないと私は、私の心は、それを求めるだけの獣になってしまう。そうなったらもう、私は私ですらいられなくなってしまうから。


 わかっている、わかっているんだ。


「でも」


 でも、それでももしも、願いが、一つだけ叶うのだとしたら……



8月16日



「んっ……」


 肌に吹き付ける風を感じて、ゆっくりとその重い瞼を開ける。すると、橙色の小さな光が目に飛び込んでくる。


 何だろうと思ってさらに目を開き、それが常夜灯の明かりだと気づいた頃、ようやく私の意識は覚醒した。


 ゆっくりと体を起こすと、残暑を抱いたようなぬるい風を感じ、窓の方へと目線を向ける。


 その先の景色に未だ陽光は無く、吸い込まれるような闇だけが世界を包んでいて、思わず、引き込まれそうになって、


「……はぁ」


 呆れの混じった溜息を吐き、伸ばしかけていた手を下げた私は、そのまま部屋の外へと足を向けた。




 洗面所。静寂に響く流れ出る水の音を聞きながら、私はそれを両手に掬って顔に浴びせる。


 憑き物を落とす様に幾度か繰り返し、冷たさが染み込んだところとで蛇口を閉めて顔を上げると、あるものが、目に留まった。


 鏡面に、水に濡れた顔が映っている。浮かれ調子を期待したものの、見える表情はいつもの仏頂面だった。


 試しに口角を上げると、今度は無理をしているようなぎこちない笑顔が映る。取り繕うのがずいぶんと下手になったなと、今更ながらにそう思う。




 少しの後、静かに部屋に戻った私は寝間着を脱ぐと、今度は縦長の鏡に向き合う。


 そして、その近くに置いておいた浴衣を手に取ると、昨日のことを思い出しながら、丁寧に羽織っていく。


 慣れないことで苦戦しつつも、しばらくして私は、その藍を身にまとった。


「やっぱり、綺麗だな」


 鏡に映るものを見て、そんな感想が零れる。


 決して派手なわけではない。けれど、そこには確かな美しさがあって、自分には不釣り合いな気がするのと同時に、それを着ることができている現状への喜びも確かに存在して。


「……いいなあ」


 当たり前にこれを楽しむことができて、着ていいのかなんて悩むことも無くって。


 そんな普通が思い浮かんで、不意にそんなことを呟いたものの、私はすぐに首を振った。


 違うだろう。


 憧れるでも、羨むでもなく、これからはそれになっていくんだろう。


 これまでを形作った全てに意味を見出さず、ただ自分のため、私を私として受け入れてくれる人と生きるんだろう。



 綺麗なのは、浴衣を着ている私だ。


 美しいという思いは、感動ではなく自尊心だ。


 私は私の喜びのために、今日という日を過ごすんだ。



 言葉を飲み込み、心で反芻する。何度も何度も、まだ揺らいでいる自分自身の骨の髄まで染みこむように。


 暫くして。まだ決意とは呼べない、けれど、確かな形をした何かを心に宿して、改めて鏡面の自分を見据える。


 変わったところは、ない。ただ、そこには紛れもなく、普通の浴衣姿の自分がいる事だけは理解できた。




「……よし」


 そう呟き、私は鏡の前から姿を消す。部屋を見回し、昨日のうちに持っていこうと決めていた朱色の小さな鞄を見つけて手に取ると、財布とスマホ、ハンカチとティッシュを詰め込む。


 そして、全ての準備を終えた私は、常夜灯を消して、振り返ることなく部屋を出た。



 静寂の中、私は誰にも気づかれない様に階段を下りて、まっすぐに玄関へと向かって歩いていく。


 やがて、玄関にたどり着いた私は、履き慣れたスニーカーに足を入れるとそのまま立ちあがり、挨拶もせずに外へと出る。


 今だ消えぬ闇の中に足を踏み入れると、途端にじめりとした空気が肌に触れたが、特に気にせず歩き出す。


 スタスタと、少しばかり早い足音は、家々を抜け、田畑を抜けてもなお響き続け、迷いなくその場所へと向かっていく。


 ただ一つ、けれど寂しさは無い。その先に誰かがいることを、純然たる事実として知っているから。




 時雨家を出てから数十分ほどがたった頃、私はその場所へとたどり着いた。


 そこは、この夏にもう何度も訪れた林。昼間でも少し薄暗いその入り口はさらにその暗さを増していて、姿だけでそこはかとない恐怖心を抱かせる。


 けれど、今更そんなことで心は揺るがない。先ほどまでと変わらぬ足取りのまま、私は奥へと歩みを進めていく。


 そして、夜目をきかせながら歩くこと数分、沈みかけの月明かりが差し込む中、会いたかった人は待っていた。


 

「おはようございます、澄希さん」


 声を掛けると、彼女はこちらを向く。


 そして、私はその姿を見て、わずかな驚きを覚えた。彼女がなぜか狐面を付けていたというのもあるけれど、何より彼女が、私と同じ浴衣を着ていたから。


「あ、おはよう祈李!」


 とことこと駆け寄る澄希さん。その足元はいつもの靴とは異なり、見慣れぬものを履いている。


「いやあ、やっときたかあ」


「すみません。約束を変えてもらった手前、早めに来ようとしてたんですけど」


「そうだよ、本当早すぎ!私最初午後の二時って言ったのに!」


 数日前、浴衣を着る都合誰かに見られたら面倒だと気づいた私は、無理を言ってこの時間に変えてもらった。だから、


「それに関しては、何も言えないです……」


「まったく、私の広い心に感謝してよ?」


「ありがとうございます」


「うーん、足りない」


「澄希さん流石!」


「まだいけるね」


「世界一素敵!」


「もう一声!」


「神様仏様澄希様!」


「素晴らしい誠意だ、よろしい、許してあげましょう」


 うんうんと、腕を組みながら澄希さんは満足げにそう言った。



「というわけで、この話はここまでにして……」


 そう言いながら、澄希さんがその目を私、正確には私の浴衣へと向ける。暫くじっくりと眺めた後、


「……もしかして、これ、同じ浴衣?」」


「多分、そうですね」


「え、狙った?」


「いや、そういうわけではないんですけど」


「じゃあ本当に偶然ってこと?」


「そう、なりますね」


「……ふふっ」


 私の言葉を聞いた澄希さんが、突然笑みを零す。


「どうかしました?」


 そう問いかけると、澄希さんは更に笑って、


「ああいや、偶然にしてもこう揃うと、本当に心がつながってるみたいだなあって思ってさ」


 何気ない言葉に、何気ない幸せが満ちる。様々なものが混ざり合って喜びへと昇華し、更なる幸福で心を満たされ、優しさで潤っていく。


 かつて、どれだけ手を伸ばしても掴むことができなかったものが今ここのある事実がまたどうしようもなく嬉しくて、でも、それがほんのちょっぴり気恥ずかしかった私は、


「……ですね」


 僅かに頬を緩めながら、静かにそう返した。

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