第一話 夏の夜の夢 その1
7月25日
夏の日差しは、今日も私を容赦なく襲う。それから逃げるように、私は林の奥深くへと向かっていく。辺りに人の気配などなく、自然の音を除いて、私の歩く音が響くだけだ。
大した目的もなく、ただただ歩く。
歩いて、歩いて、歩いて。そうすれば、現実から離れられる気がした。何も考えなくていい気がした。だから今日も、あそこへ向かう。
しばらくして、私はその場所へとたどりついた。そこは、林の中の少し開けた場所で、間伐か何かで切られてそのままの切り株が残されている。
私はそのいくつかある切り株の内の一つに腰かけて、一息つく。疲れもあるが、それ以上に安らぎを感じたから。
それから少しすると私は、持ってきた音楽プレーヤーのヘッドホンを耳に付ける。そして目を瞑ると、ただ一人、音楽の世界へと浸った。
苦しみはやわらぎ、憤りは静まり、私の心は穏やかさを得ていく。
世界は曲ごとにその印象を変え、様々な世界を想起させる。
その世界で生きることができるなら、どれだけよかったことだろうか。
数十分ほどの後、カセットの再生が終わった。今日は替えのカセットを持ってきていないため、そこで逃避も終わりだな、と一言溜息をつく。
ヘッドホンを外し、目を開いて現実へと戻ると、スマホで時刻を確認する。見ると、既に時刻は六時を回っていた。
そして、流石に長居しすぎたなあと反省しつつ、帰り支度を進めようとした、その、一瞬のことだった。
強い風が吹いた。夏なのにひどく冷たく、たたきつけるようなその風に、思わずまた目を閉じる。
しばらくして、肌に熱が戻るのを感じて目を開ける。見ると、辺りは何もなかったかのように、ただ静かなままだった。それに妙な不安を感じた私は、足早にその場を後にした。
戻る頃には日はほとんど落ちていて、家々には明かりが灯っていた。私はその中の一軒の戸を開け、出来るだけ静かに入る。人がいないのを確認し、いそいそと自分の部屋を目指して進んでいこうとしたとき。
「祈李!」
嫌というほど聞いた声が、私の耳を貫いた。その人は、いつものように私を怒鳴り付ける。
「こんな遅くなるまで、ろくに手伝いもせずいったいどこに行ってたんだい!」
「えっと、その、友達の家に……」
「友達、あんたに?」
「……何、手伝えばいいですか」
「今夕飯準備してるかから、とっとと広間に運んどきな!」
そう吐き捨てるように言って、そのまま奥の方へと歩いて行った。見えなくなったのを確認して、私はさっきまで張り付けていた笑顔を剥がした。
また何か言われても面倒なので。いそいそと台所へと向かった。さっきの無駄に大きい声のせいで、頭が少し痛む。何年たっても、人の怒鳴り声にはなれないものだ。
台所につくとほかの親戚達が忙しそうに料理を作っていた。
「あの」
私の声に反応し、料理をしていた一人が無言でこちらを向く。何をしに来たんだ、とでも言いたげな顔だった。
「これ、どれから運べばいいですか?」
その質問に対し、その人はあからさまに溜息を尽きながら、無言で指をさす。それ以上は何も聞かずに、持てる分を持って居間へと向かった。
戸が開いていたので中を見ると、綾音さんと、もう一人が机を並べているところだった。
入っていいのか迷っていると、私に気づいた綾音さんが話しかけて来た。
「あら祈李、おかえりなさい。って、夕飯、持ってきてくれたの?」
「えっと、出来てるから持っていけって言われて」
「……まだこっちの準備ができてないって言ったはずだったんだけど」
何があったか察したのか、綾音さんは申し訳なさそうな顔をする。その姿を見て、少し、胸が苦しくなった。
「すみません、ちょっと聞き流してたかもなので」
「そう……。じゃあ、取り敢えずそこに置いといてくれる?」
「わかりました」
言われた通り机に料理を並べる。その間、誰かにずっとこちらを見られている気がした。
「ありがとうね」
「いえ」
これ以上やることもなかったので、それだけいって、居間を出た。その時、誰かに呼び止められた気がしたけれど、きっと気のせいだろう。
向き合う気がない人と、話すことなんて何もない。
その後、人と会わないように気をつけながら進み、階段を上がり、自室へとに辿り着く。
薄暗い明かりをつけ、戸を閉め、一人きりになったところで、やっと一息をつく。この部屋にいる限りは、誰かに関わることも関わられることもない。
部屋に置いていた荷物から、カセットテープの入った袋を取り出す。その中からひとつ選んで入っていたものと入れかえる。ヘッドホンをつけてカセットを再生し、そのままごろんと布団に寝転がった。
ふと部屋を見回すと、たまたまかけてあったカレンダーが目に入った。日付をみて、こっちに戻ってきてもう数日が経ったことを実感する。
目を瞑ると、さっきの出来事が思い返された。曲の中に一瞬怒鳴り声が混ざったことに不快感を感じ、忘れるために別のことを想像する。そうしてあれこれ考えている内に、いつしか私の意識は、奥深くへと落ちていった。
――*****
何か、聞きなれない音が聞こえた気がして、私はゆっくりと目を開ける。それと同時に、私の心は疑問で埋め尽くされた。
いつの間にか、しんと静まり返った暗闇の中、私は一人で座り込んでいた。
周りは何も見えないのに、自分だけは妙にはっきりと見える。
ふと違和感を覚えて頬をぬぐうと、手は少し湿り気を帯びた。
手足に力を入れると思い通りに動いたため、私はなんとなく立ち上がってみるが、視界が変わる様子はない。
静寂とはまた違う、何もない世界。
そして、突如起きたこの謎の現象になんだろうと思っていると、
――*****
また、何かが聞こえた。それは音だと認識できるものの、何なのかはわからない。
何故か、それが無性に気になった私はふと、聞こえて来た方に向けて踏み出してみようと考えて、そのとたん、突如重さがなくなったように、体が軽くなるのを感じた。
思わず下を見る。私の体は急に足場を失い、闇の底へと落下していた。
けれど、何故か恐怖は無く、私は、その感覚に妙な心地よさを感じ、身を任せてみようと、そう思った。
――カチッ
その音をはっきり聞いたとたん、私の体は床へとぶつかる。何故か体に痛みはなく、そのまま私は立ち上がる。
辺りを見回してすぐ、近くに自分の音楽プレーヤーが落ちているのに気がついた。私は手にしようとして、
「祈李」
はっきりと聞こえたその声は、いつの間にかプレイヤーのそばに立っていた誰かから発せられた。
体全体の輪郭がぼやけて、詳しいことは良くわからない。
少し考え、私は近寄ってみることにした。
距離が縮まるにつれ、彼女が何かを話しているのがわかった。けれどノイズが走っているかのように、うまく聞き取ることができない。
を 、み と で
だ わ て 、 な
か た し す で し 。
歩いて、歩いて。とうとう目の前へとたどり着く。けれど結局姿もわからず、言っていることも聞き取れない。そこで私は、触れてみることにした。手を伸ばし、そこにあるはずの体に触れる。
瞬き一つの後、何事もなかったかのようにその姿は消え、それと同時に、プレイヤーが開き、カセットが飛び出た。
もしかしたら。そう思った私は、飛び出したそれを拾って中に入れ、ボタンを押した。
――カチッ
瞬間、見知らぬ誰かの笑った顔が思い浮かぶ。それと同時に、私の意識はぷつんと切れた。




