第六話 三司祈李 その2
【4】
その春、私は中学生になった。入学式を終えた後、私は正門の前で一人立っていた。
桜の舞う風の中、胸にある期待を目一杯膨らませて校舎を眺める。今その時の私を見たら、さぞ輝かしい目をしていたことだろう。なにせやっと誰かと同じ、普通の生活が送れるようになるのだと思っていたのだから。
希望溢れる春から数ヵ月が過ぎた。桜もすっかり緑に代わり、夏も盛りとなり始めた頃、私の心を満たしていたのは、泥のように濁った感情だった。
その時の私は、なぜ自分がこんな状況に置かれたのかなんて知っているわけもなかった。ただ一つ理解していたのは、それは以前よりもさらに恐ろしい地獄だという事だけだった。
この学校に来るまで顔も知らなかったはずの少女たちは、今日も飽きもせず私に容赦のない悪意を投げつける。
嘲笑う声が、歪な満足感を得た声が、軽薄な暴言が、何度も何度も私の耳を通り抜けた。
終わることのない日々の中、底知れぬ恐怖と不快感が飽和して、私から幸福を追い出していく。
何度も何度も疑問が浮かんだ。
――私は何をした? 何でこうなった? どうして私なんだ?
苦しみはどこまでも増していった。
――逃げたい、辛い、気持ち悪い。
逃れられない日々で、幸せで作られた私の心はすり減っていった。美しかったはずのそれは、見るも無残な姿へと形を変えていく。本当に、嫌だった。
けど、それでも私は何もしなかった。少し前、物事に終わりがあることすら知らなかった私は、初めて終わりを知った。日常は変化することを知った。だから、今度も終わると信じていたのだ。耐えてさえいれば、いつか終わるのだと。
けれど、いつまでもいつまでも、私の日々は変わることがなかった。そうしてある日、私はとうとう気づいた。相手が私にできることは、自分にもできるのだと。
それは、厳しい冬を越した桜が、再び鮮やかに咲き誇ろうしていた頃だった。三学期も終わりかけで、皆一様に終わりを惜しむように日々を過ごしていた。そんな穏やかな日常は、唐突に終わりを告げた。
あのひどく混乱していた顔は、今でも思い出す。彼女からしたら、考えもしなかったことなのだろう。自分の立場は上であり続け、決してかかわることはない。ましてやこんなにも長い間弱者であり続けた私が歯向かうなど、予想すらしていなかったに違いない。
教室は、ひどく静かだった。私の耳に届いていたのはいつもの罵詈雑言ではなく、荒い呼吸音と、高鳴る鼓動の音だった。その手には、割れた花瓶が握られていて、先端には鮮血が付いていた。
自分のしたことへの衝撃、目の前にある笑顔の消えた歪んだ顔への快感、やってやったという満足感、そして何より、これで解放されるのだという喜びが私の心を満たしていた。
それから先の事は、あまりよく覚えていない。思い出せるのは三つ。
学校にやってきた青い服の正義の味方が、彼らではなく私を見ていたこと。
クラスメイトが私ではなく、救急車で運ばれていった彼女の方を気にしていたこと。
そして、自分の力で地獄を抜け出したことを無邪気に語る私を抱きしめ、またあの時のような涙を流し、ただ壊れたように謝る綾音さんの姿だけだ。
『三月三日、永和町の中学校で女子生徒による同級生への傷害事件が発生しました。被害生徒は頭を数針縫う怪我をしたとのことです。関係者への取材によると、加害生徒は被害生徒含む数名から長期間にわたるいじめを受けていたという話もあり、現在警察は詳しい事情を調査中とのことです。また、学校側は……』
【5】
春もそろそろ終わろうとしている頃、既に新学期も始まっていたにも関わらず、私は学校へは行っていなかった。
あのどうしようもなくこみあげていた熱はいつの間にか消え、私に残っていたのは、歪にすり減ったままの心と、これまでの私の人生がどれ程悪意に満ちあふれいていたのかというのを知ってしまった事実だけだった。
事件の後、私は自分のしたことが紛れもない罪であると、はっきりと思い知らされた。未成年なうえ、当時十三歳だった私は逮捕されることはなく、時雨家へと戻ることができた。
私が事件を起こした経緯についても調べられた結果、互いに穏便にということで決着はついたそうだ。けれど、それはあくまで現実の話で、また別の問題は残ったままだった。
病院で治療を受けた彼女は、警察に対し、こういったのだという。
「親に、やれって言われたんです」
そういったという彼女の親は、かつて私と同じ部屋で、喪服に身を包んでいた人だった。
私に今まで降りかかり続けていた苦しみは、私に押し付けられたおびたただしい量の悪意と呪いだったのだ。彼らは私に影を映していた。他でもない、顔も名も知らぬ両親の影を。
そもそもの始まりは、両親の過去だった。この町でその二人は、いわゆる除け者だったらしい。二人のその嫌われ者は、ある日町を飛び出した。きっとそれは、逃避だったのだろう。
居場所も何もないこの町から逃げ出して、二人きりで幸せになろうとしたのだ。けれど、それが叶うことはなかった。
十年近く前、突然私の母親はこの町に帰ってきた。お腹の大きな彼女の手には、一つの骨壺が抱えられていた。突然の事故だったという。
それから暫くして彼女は、一人の女の子を生んだ。祈李と名付けたその子を、彼女は必死に育てようとした。そんな彼女に町の人々は差し出したのは救いの手ではなく、今までのツケの請求書だった。
ツケを大人しく受け入れるしかなかった彼女は、ひたすらに苦しんだ。けれどそれでも、諦めることはしなかった。なんとしても子を幸せにしようと、たった一人で戦ったのだ。でも、そんな精神に対し、体はついていけなかった。
娘が二歳になった頃、彼女はあの世へと旅立った。二人の死をもって、ツケは確かに払われた。だがしかし、それでも満足しなかった人々はあろうことか、そのツケを残された子供に払わせようとしたのだ。最初にそれを押し付けたのは、ほかでもない彼女の両親だった。
私を引き取ったのは、他でもない私の祖父母だった。本来救うべき立場だった彼らは、出来損ないとして負債を負わせたとして、孫にその負債を背負わせた。彼らの目に私は孫ではなく、死んだ娘の亡霊に見えていたのだ。
あの葬式の日から、私はずっと亡霊に取り憑かれていた。私が普通の人生を送れなかったのは、あいつらのせいだった。皆が私に清算を求めたからだ。あいつらが、あいつらが、あいつらのせいで私は。
いや、違う。そもそも私が背負わされたのは、誰のせいだ?そうだ、そうだよ。本当に悪いのは……。
【6】
その日は、夏の盛りの日だった。その日私は綾音さんに連れられて、かつて私が閉じ込められていた家を訪れていた。数日前、祖父母が死んだという連絡が、私の叔母からあったそうだ。家の持ち主だった二人が死んだため叔母が相続することになったのだが、その本人が忙しくて戻ってこれないため、代わりに整理役として依頼をされたのだ。
整理を初めてからしばらくして、私は一つの扉の前に立っていた。それはかつて私が見ていた、自分では開けない扉だった。ドアノブに手をかけると、かつての開かずの扉は、あまりにもあっさりと開いた。
その部屋は、助けられたあの時と変わらない様子であり続けていた。全体を見回してから、私は整理に取り掛かった。
時が経ち、粗方作業が終わった私は、最後の作業へと取り掛かろうとした。いくつか山になって積まれた箱を、中身を確認しながら一つ一つ取り出していく。順調にことを進め、最後の一箱になった時、私の目にそれは止まった。
下の方で埃をかぶっていたそれは、古い音楽プレーヤーとカセットだった。箱から取り出して埃を払うと、プレーヤーの中にはカセットが一つ入ったままだった。
本当に、ただの気まぐれだった。なんとなく試してみたくなった私はヘッドホンを頭につけ、プレーヤーのボタンを押した。少しして、聞こえてきたのはクラシック音楽だった。鮮やかな音色だった。気づけば私は床に座り、静かにそれを聞き続けていた。
目を瞑り、耳に意識を集中する。すると、心の中にあった淀みが、少しだけ消えた気がした。
作業が終わった後、私はその音楽プレーヤーとカセットを持ち帰った。それがかつて母親が使っていたものだと知ったのは、さらに数日が経っての事だった。




