そのに
とにかく、ここがどんな施設なのかを把握しないと何も始まらない。そう思い至り、私は建物の中を探検することにした。というかそう宣言した。
ソラが、私の手を引いて歩き出す。迷いのない足取りだった。ここが何なのかを彼は知っているのだろうか。問い掛けようか、一瞬だけ逡巡して、結局やめる。ただ、私の手を壊れ物みたいに優しい力で引く、彼の白い手のひらを見下して。私は小さく笑った。
「君の手は、冷たいね」
体温という体温をどこかに落としてきてしまったみたいな、冷たさだ。その温度に、なぜか既視感を覚える。だけども、まっさらな記憶のどこをさらってみても、既視感の正体は分からないままだった。
でも、一つだけ。思い出したというか、知っていたというか。誰かに言ったことがある、ような気がする言葉が。頭に浮かんで、思考さえせずに口を開く。
「手が冷たい人は、心が温かいらしいよ」
ずっと前だけを見ていた君が、勢いよく振り返った。その、悲哀とか切望とか。苦しくてしかたがないのに希望を捨てられない人間のするような顔を見て、私はまた笑う。こんな、一山いくらで売られているような安っぽい言葉で、なんて顔をするんだろう。馬鹿だなぁ。
「だからきっと、ソラは優しい人だ」
私では救えないくらい、優しい人なんだろう。なぜか痛む心から意識を逸らして、私は彼の手を握り返した。
「ここ、ひっろいねぇ」
少年――改めて、ソラの手を引きながら、私は感嘆の言葉を吐いた。いつの間に私とソラの位置が入れ替わってたのかって? 私が知りたい。いつの間にかだよ。
歩けども歩けども人はいないけど、同じ場所をぐるぐる回っている感じはしないし。多分ここ、相当広い。二、三百人くらいなら収容できそうだな。本当に何のための施設だよ。疑問がまた首をもたげた。
大分歩いたけれど、ソラは疲れていないだろうか。ちょっと気になり、引かれるままに大人しく着いてきている彼の様子を伺う。何しろこの子、喋れないからね。私が見ててあげないとね!
「ソラ、疲れてない?」
問い掛けには、勢いのいい否定が返ってきた。でも、ちょっとだけ目元がとろんとしている。これは、疲れているみたいだな。お姉さんにはお見通しだ。強がりな可愛い少年の手を引き、床に座らせる。不思議そうに見上げてくる目に、茶目っ気を込めて笑みを返した。茶目っ気……茶目っ気? 茶目っ気って、どういう顔だ。鏡がないから分からないや。
「ごめんね、私が疲れちゃったんだ。休んでもいい?」
今度は肯定。ソラの隣に腰を下ろすと、足が割りと重くなっていた事実に気が付いた。……お姉さん、言い訳とかでなく疲れてたよ。歳かな。何歳か分からないけど。
廊下はどこまでも白い壁と床と天井が続いていて、果てが分からない。部屋はほとんど鍵が掛かっていて、たまに開いている部屋を覗いてみても空っぽだった。足も辛いけど、何の成果もないことも精神的に辛いわ。
「ここって、何なんだろうね」
返事はない。だけど、ソラは私のことを真っ直ぐに見つめてきた。それが、私の言葉を聞くという合図だと判断して、思考をそのまま垂れ流すことにする。
「最初は……個人用のシェルター、だと思ってたけど。それにしては機能が多い。どちらかと言うと、多人数収容用のシェルター? でも、私とソラしかいないのが不自然だなぁ。不完全だったのか、何か突発的なトラブルでもあったのか」
広さ的には、多人数を収容するための施設にほぼ間違いないはずだ。中に何もないのは、そういう施設なんじゃなくて……準備が出来ていなかったからだろうか。それなら、私は、この施設を管理する側の人間だったのかもしれない。それが一番整合性がある。
しかし。それならどうして、私には記憶がないのだろう。
「ねえ、ソラ。君はここが何なのか知ってる?」
そういえばこれは聞いてなかったな。まあ知らないだろうけど。そう考えての質問だったが、ソラは単純に首肯する。えっ、マジかよ。動揺する内心を表に出さないようにしつつ、質問を続けることにした。
「ここは、多人数収容用のシェルターだ、っていうのは正しいのかな」
また首肯。君ってば、結構色々知ってるんだね。疑うことはしないけれど、なんかこう……。釈然としない。
「なら、どうして私と君しかいないの?」
……あ。口してから、気が付く。ソラはひどく傷ついたような顔になった。これは、意地の悪い質問だ。ソラを困らせたい訳ではなかったのに。慌てて首を横に振り、話を逸らす。
「えっと……ここがシェルターで間違いないなら。いやでも、多分未完成だよねこれ。空き部屋が多いのは、必要な設備が足りてないからで。鍵がかかった部屋に何かがあったとしても、広さとは見合ってない。明らかに、おかしい。じゃあ、作りかけのシェルターに私がいる意味って何。私が管理する側なら、どうして記憶がないんだろ。そもそも」
逸らさなきゃいけないのに、私は何を口走っているんだ。思考は深く沈んでいく。実は私ね、一度考え込むと止まらないの。言ったことあったっけ。言わなくても、君は知ってたかな。君は私のこと何でも分かってるみたいに、笑ってたから。知ってたよね、きっと。君は。……きみ?
――君って、誰だ。
「私は、何を忘れて――っ」
疑問が、口をついて出た瞬間。ソラは、私の口を乱暴に塞いだ。ずっと、優しかった仕草が、嘘みたいに。やはりその手のひらも冷たくて、なんだかそれが少しだけ悲しかった。
空を溶かした瞳が、強く私を見つめている。空の色。雲一つない晴天の色なのに、どうしてだろうか。君が、泣きそうな気がしてならない。理由を考えていて、ふと。その瞼が震えていることに気が付いた。ああそうか。彼の表情に滲んでいる、この感情は、きっと。
冷たい手のひらに、手を重ねる。ソラの手からは、もう力が抜けていた。だから、口から離すのは、簡単だった。
「ねえ、ソラ」
壁に背をつけた私の目の前に、影が差す。少年にしては長い髪が、私の視界を覆い隠すように帳を下ろしていた。覆い被さってるみたいな体制。まるで襲われてるみたいだな、なんて思ってちょっと笑った。
「私は、君を信じるよ」
だから、君はそんな顔をしなくていい。
彼の手を握り締めて伝えた言葉は、届いてくれただろうか。届いてくれたならいい。
どこまでも透明でまっさらな記憶の縁で。顔さえ見えない誰かが、私の手を引いていた。もう、あの体温はどこにもない。忘れたくなかったし、なくしたくなかったけれど。もう、どこにもいない君へ。それだけは覚えていると伝えたい。
「だって、私は君を信じたいから」
ソラは、なぜか。
綺麗な顔に悲痛な色を滲ませて、俯いてしまった。
(君と手を繋いで歩いていけたなら、なんてもう叶わない夢想を描く。本当はね。手が繋げなくても。声が聞けなくても。君と、一緒にいられたなら、それだけでもう。その先に未来がなくたって、平気だって思えたのに。ありがとう、ごめんね。伝えられない言葉だけを重ねて、紡いで、もう届かないからと今更に呑み込む。それでも、記憶の中ではただ。……君だけが鮮やかに笑っていた)