そのいち
『君と手を繋いでどこまでも行こう。この旅に意味がなくたって構わない。君と私がいたら、それだけでもう世界になるんだから!』
人は、死んだら星になるらしい。無数の光が瞬く空を見上げ、白い息を吐いて、そんな言葉を思い出した。ならば、君もあの空の何処かにいるだろうか。一つ一つの星を見比べても、あの星のどれが君なのか分からない。君が星になったなら、それはきっと一番綺麗な星のはずなのに、どれも同じように見えてならない。
私を戒めるように冷たい風が吹く。剥き出しの耳や頬が痛い。上をずっと見ているせいで、首が辛い。乾燥した目から一筋の涙が零れ落ちて、一瞬だけ夜空が白く滲んだ。
君は本当に、何処かにいるのだろうか。
君は、あの空の何処かで、私のことを見ていてくれるのだろうか。君のことを守れやしなかった弱い私のことを、相変わらずの呆れ顔で、見下ろしてくれているのだろうか。そうならいい。そうであってくれないと嫌だ。
触れたら溶ける雪のように儚い、どうしようもなく無意味な願望を胸に、私はただ祈る。もう、本当は、祈ることしかできないのだ。
「――君が」
もう、冬の寒さとか、心や身体の痛みとか、そういう悲しいのとは無縁の世界にいてくれたならいい。夜空を覆う無数の星の一つになったなら、その夜がとびきり美しいものであってくれればいい。
それだけだよ。もう、それだけだ。
「君が、見下ろす世界が、綺麗なら」
この薄汚れた地上が、君にとって綺麗なものでありますように。なんて。
私は祈るだけだけど。
「……私は、まだ、生きていける」
君のいる空から視線を外し、深い冬を見下ろした。無垢な白に染まる町並みと、冬の凛とした静けさ。
眼下に広がるすべてが、君のいない世界だ。
君を殺した世界だ。
「たとえこの道の先に何もなくたって平気だから」
たとえ、私がどれだけ生きても、君に辿り着けなかったとして。高潔で、優しくて、なによりも綺麗な君のようにはなれなくてもいいから。
ただ、ただ、私は祈るだけ。
「君の世界がいつまでも綺麗なものに満たされていますように!」
眩い光と共に、流れ星が一つ、落っこちた。
いつもとは比べ物にならないくらいに、気怠い朝だった。指先一本動かす気になれず、目を開けることなく寝台の中で微睡んでいる。
なんだか、酷い夢を見ていた気がしてならない。夢の中身は一切思い出せないので、私の想像に過ぎないのだが。こうして目覚めの悪い朝は、だいたい嫌な夢を見ているのだと相場が決まっている。
そう、嫌な夢。悪い夢。酷い夢。
凄惨で、絶望的で、救いの欠片もない。……ただの夢。
寝台と毛布の間で蹲っていると、躊躇い混じりに肩を叩く手があった。誰だろうか。起こされているのは分かるが、目を開ける気分になれない。手を振り払い、逆方向に体を向ける。
誰かの嘆息。からの、再び肩に伸びてくる手。……こいつ、しつこいぞ。私が溜息を吐きたい気分だ。
しかし、こんなにしつこく起こしてくるなんて、今日は何か予定でもあっただろうか。思い返してみるも、何も思い浮かばない。本当に何も思い出せない。
いや、待って。むしろ、あれ? ……なんか、ちょっと、うん?
「――思い出せないんだけど!?」
これは、微睡んでいる場合ではない。急速に覚醒した意識そのままに飛び起きると、私を起こそうとしていた誰かが大仰に肩を跳ねさせたのが分かった。ごめん。でもこっちにも理由があるんだ。
……思い出せないのだ。何も、何一つとして、思い出せない。今日何がある予定だったのか、どころじゃなく。
自分の名前も、今までの人生も、起こしてくる誰かの心当たりも。何もなかった。私の記憶は白い絵の具で上から塗り潰されたようにまっさらで、気味が悪い。吐きそう。
あまりの衝撃に、視界が明滅した。口元を押さえ、毛布を胸元に引き寄せる。
そこで気が付いたけれど、毛布も寝間着も、まるで病院にあるもののように真っ白だった。清潔であることだけを重視した、誰かの趣味志向の介在の感じられない雰囲気。
気味が、悪い。
気持ち悪い。
記憶なんて欠片もないのに、病院だの絵の具だのと知識ばかりは存在しているこの脳髄が気持ち悪い。なんだよ、この状況。誰か説明してよ。
「ゔぇ……」
吐き気を堪えていると、また手が肩に触れた。もう振り払う気力もなく、手の主の方へ緩慢に視線を向ける。
「……だれ」
『誰か』は、日本人離れした淡い金色の髪と、空を溶かしたような空色の瞳をした秀麗な少年だった。神様が丹精込めて作り上げた人形のような美貌。
こんな状況でさえなければ見惚れていただろう。困ったように、ちょっとだけ悲しそうに眉を寄せる表情も綺麗なんて、天はちょっと彼を贔屓しすぎ。
何者かよく分からないその少年は、何かを言おうと口を開いたが、なぜかハッとしたような様子で直ぐに口を噤んでしまう。ちょっとしっかりして、今私が状況を理解するためには君の力を借りるしかないんだよ。
……。
駄目だ。しっかりしろ、私。年下だろう少年に、なんで押し付けようとしてるんだ。私も状況が分からないけれど、彼だって何も分かってないかもしれない。私を頼りたくて起こそうとしていたのかもしれないだろ。人を思いやる気持ちを忘れたら、本当にただの動物以下になってしまうじゃないか。
二、三度深呼吸をして、意識をどうにか落ち着ける。そして、引き攣っているかもしれないが笑顔を作り、少年に視線を合わせた。
「ごめんね、君の名前を聞いても大丈夫?」
「……。――、―」
「あー、もしかして、喋れないのかな?」
少年は、恥じ入るような顔をして小さく頷いた。Oh、ジーザス。
「……そっか、ごめんね」
私ってば、配慮を忘れた獣かよ……。己の愚かさに軽く頭を抱えつつ、意思疎通のために何か書くものがないかと辺りを見回した。そこでようやく、自分がいる空間の異常さに気がつく。
――ここ、病院でもなんでもない。私の家でもない。いや記憶なんてないんだけど。こんな家は嫌だ。こんな家に住んでいる私は嫌……。
シェルター、とでも言えばいいのだろうか。頑丈そうながらも壁紙すら貼っていない灰色の壁に、生活感の欠片もない閑散さ、普通に生活している空間とは思えない閉塞感。空間内にあるのは、本棚と、得体の知れない機械と、この寝台だけ。
目下に迫った危機としては、書くものが無いのが肝要かもしれない。なんかもっと大事な問題がある気がするけど、さっきから問題しかないから頭が働かないです。もう無理。考えるの止めて寝たい。
「……君は、自分の名前って覚えているの?」
仕方がないので、イエスノーの二択で答えられる質問を切り替えることにした。問題の先送りともいう。
少年は、少しだけ首を捻った後、肯定とも否定とも言い難い顔をしてみせた。どういう感情なの? それ。詰問する気にはなれないので、さっさとこの話は流すことにしよう。
「質問を変えるね。君には今日に至るまでの記憶がある?」
少年は頷いた。これは助かった。でも、正直、記憶があっても中身を聞けないからこれはいいや。いいのか? うん、まあ、別にいいよね!
「私のことを知ってる?」
これは否定。
どうしよう。私のことを知らないなら、どうして私を起こそうとしたのか。というか、ここはどこで彼は誰で私は誰で今はいつなんだ。さっぱり分からないけど、具体的な質問に答えてもらう手立てがない。
「……私は何も覚えていないから、君が嘘を吐いていても分からない」
そして、彼を信じるに足る根拠も理由もない。記憶がなくて訳分かんない状況で、目の前にいるのが彼一人。これは疑わない理由こそないんだけど。そうなんだけど。
「だけど、……私は」
少年の、男にしては少し長い髪が揺れた。風じゃなくて、彼が首を傾げたからだろう。日焼け一つしたことがないような、白い頬に軽く触れる。逃げようとする素振りも、警戒心も、何もない。ただ、ひどく冷たい頬は、私の手をなんの疑いもなく受け入れた。
首を絞めることも。
殴りつけることも。
そういう、彼を傷つける行為が私には簡単に出来るって、想像もできてないみたいに。考えると、なんだか笑えてきた。きっと、笑いというよりも嗤いだ。
「君を信じないと、八方塞がりになるから」
どこまでも自分勝手な自分が嫌になった。利己的で、我ながら人間として最低にも程がある。でも、なんでだろう。
「君を信じたい」
少年は、なぜか。私の言葉に大きく目を見開いた後、泣きそうな笑みを浮かべてみせた。
「何も分からないけど。何も思い出せないけど。ひとつだけなんとなく分かることがあるの。私は多分、どうしようもなく利己的な人間だ。無力なくせに口ばかりは達者で、臆病なくせに人に多くを求める。人並み以上に冷たくて、人並み以下の倫理観しかないような」
言い募る私を遮るように、少年は頬に触れている私の手を取った。どこか恭しい仕草だった。
「駄目な、人間だ」
そんなことはないよ、とでも言いたげに。少年は、私の手を握る。頬と同じで、冷たい肌だった。体温なんてない、それこそお人形さんみたいな温度。だというのに、私はなんでだか安堵した。
彼が人間離れした美しさを持っていて、人間らしからぬ体温で、人間が持っている穢れがないような気がしたからだろうか。分からない。でも、この手の冷たい温度が、私を慰めてくれているみたいで。
「……君はきっと、優しい子なんだね」
吐きそうになったたくさんの嘘を、喉奥に落とし込んだ。
強がりとか過大な弱音とか、そういう、彼を利用するための便利な言葉たちを脳裏から打ち消す。瞳を軽く閉じて一呼吸して、内心の綺麗じゃない本音を整理した。
「私はきっと、優しくない人間だったんだろうけれど」
手を軽く握り返す。ゆっくりと瞳を開けると、少年は心底嬉しそうな顔をしていた。……彼のこの笑顔が嘘でも、いいか。この少年が、たとえ私を騙していても。まあ、いいかな。
(私には何もないのだから)
失うものさえ、この命しかない。だったら、もう、何でもいいかもしれない。
「君は、私と一緒にいてくれる?」
卑怯だな、と思った。相手の優しさに縋る弱さを、私は卑劣さなのだと定義した。心の中で、私は私を詰る。慣れた自傷行為のような手軽さで、自分自身を否定して。
なんとなく、私はこんな人間だったのだな、と。そんな思考が頭をよぎった。
「――っ」
少年は口を開いて、何事かを言葉にしようとする。それは、衝動的な仕草のように見えた。
私の言動に対し、ただ伝えたいことがあったのか。彼は自分の喉に手を当てた後、諦めたように唇を噛んだ。そして、深く首肯する。
「ありがとう」
安堵と共に感謝の弁を伝えると、少年は何故か苦しそうな顔をした。その表情の理由が分からず、私は呆然としてしまう。
何も。私は誰なのか。君は誰なのか。どうして私はここにいるのか。どうして私の記憶がないのか。どうして君は喋ることができないのか。
ああ、分からないことばかりだ。だけど、知ろうとすることはできる。無知は罪だ。知ろうとしないことは、大罪だ。知りたいと願った真実が優しいものでなかったとしても、私は知らなければならない。
しばしの逡巡の後、私は少年の頭を撫でた。これが正しいのかは分からないけれど、今はそうするべきだと思ったから。少年は、私のことを凝視した数瞬後、何かを堪えるように笑ってみせる。
ふ、と。その顔を見て。
懐かしいような気持ちになって、手が止まった。
「君は」
大切なことを忘れている。焦燥感に目眩がした。大切なこと。何よりも大切なこと。私の命よりも、世界の行方よりも大切なことを。
忘れてしまった。
「綺麗、だね」
忘れたくなかった、と。心臓の奥深くで誰かが叫ぶ声がした。
「君のことは、なんて呼ぶことにしようか?」
しばらく考えてから、私はそんな脳天気なことを口にした。少年は呆気にとられたような顔をしている。だよね。分かる。私も自分で自分の言動の意味が分かんないわ。
いやまあほら、打ち解けたと言っていいのかは分からないが、私の警戒はなんとなく緩んだので。このまま君だの少年だのと距離の開いた呼び掛けを続けるのはどうかな、と思っただけだ。それだけそれだけ。
「君の名前を知る手立てもないわけだから、ほら、私と君しかいないとしても個を区別する呼び名がないと不便だと思ってね」
だらだらと言い訳を重ねると、少年の表情が徐々に明るくなってきた。よし、好感触。なんだこいつとか思われてないみたいでよかった。
「……私が、考えても構わない?」
勢いの良い肯定。そして、期待するような空色が真っ直ぐに私を見つめてくる。こんなに綺麗な少年に見つめられると、なんだか圧迫感を覚えてしまいそうだ。
軽く視線を右に逸らし、呼び方を考えることにする。……とはいえ、どう呼ぶのかは、心のどこかですでに決めていた。
「ソラ」
少年の澄んだ空色の瞳が、真昼の月を浮かべて瞬く。私が知っている中で、一番綺麗な青。私の記憶がないことは置いておいて、ね!
「君のことは、ソラって呼びたいな。いい?」
少年――ソラは、大きく頷いた。何度も何度も、首が折れそうなほどに首肯する。
その反応が、もし私のための気遣いとか、私の都合のいい解釈でなかったのなら。少しだけ躊躇ってから、軽く首を傾げる。
「……もしかして、喜んでくれてるって、解釈で構わない?」
ソラは、笑った。私は軽く息を呑む。その笑顔の鮮やかさが。美しさが。曇りの欠片もない瞳が。
それこそ、晴れ晴れとした空のような笑顔だった。
(私は、きっといつか、地獄に落ちるのだろう。そんな、冷ややかな確信を持って、装置の前に立つ。神への冒涜だ、と叫ぶ声がどこかで響いた。そんなことは、もうどうでもよかった。あの子のことを救わなかった神なんて、唾でも吐きかけてやりたいほどなんだよ)
見切り発車です。
短い話になる予定ですので、どうぞよろしくお願いします。




