外伝4話 熟年結婚
「第一門を通過!」
「よしっ!」
広大な領地と、莫大な経済力、圧倒的な軍備に、増え続ける家臣団。
この巨大な津田家の基礎を作ったのは、現在津田家警備隊を率いる堀尾吉晴の父泰晴であった。
元は尾張半国守護代岩倉織田氏の重臣であった泰晴は、主家の没落と共に浪人となった。
このまま岩倉織田氏を滅ぼした信長に仕えるのはどうかと思っていた時に、その信長から津田光輝を紹介され、元は商人で家臣団を持たない津田家のために身を削って働いた。
段々と津田家は拡大して仕事が増えていくなか、泰晴は働きに働いた。
その分実入りも多かったが、自分でも過酷な仕事だったと思っている。
津田家は江戸に移転し、関東、東北、蝦夷、樺太とどんどん領地が増えていった。
泰晴は段々と規模を拡大していく津田家家臣団を見て、もう自分の仕事は終わりだと光輝に隠居を宣言。
自分の後継者に山内康豊を指名して、隠居生活に入った。
ところが、ここで一つ問題が発生する。
『やる事がないな……』
主君光輝に仕事が多すぎてキレた事もある泰晴であったが、彼はワーカホリックでもあった。
仕事が忙しい事に喜びを見い出していた部分もあり、急に暇になって何をやればいいのか迷ってしまったのだ。
孫と遊ぶといってももういい年だし、松永久秀みたいに教養人というわけでもない。
困っていた泰晴であったが、ここで手を差し伸べた人物がいた。
それは、清輝であった。
『隠居して第二の人生を送る人向けに、新しい運動を考えたんだ。泰晴もやってみたら?』
清輝が勧めたものとは、未来ではゲートボールと呼ばれるスポーツであった。
お年寄りのスポーツというイメージがあるので、清輝が泰晴に勧めたというわけだ。
『道具も準備したし、これはルールね』
『まあ、暇ですからやってみますよ』
清輝から道具を贈られた泰晴は、同じく隠居した元津田家家臣達を集めてチームを作り、練習や試合を行う。
暇なので毎日懸命に練習した泰晴は、ゲートボールの腕前が上達した。
チーム同士で対抗戦などを行い、泰晴のチームは好成績をあげていく。
毎日津田家が造成したコートで練習や試合をしていると、徐々に町民や商人で隠居した者達も興味を持ち始めた。
彼らもチームを作り、道具を購入してゲートボールを始める。
次第に江戸中の老人達にゲートボールが広まっていき、泰晴は地区ごとに予選を行わせて代表チームを選出、江戸の中心部で大会が開かれるまでになった。
客を集めるようなスポーツではないので賞金は出なかったが、優秀したチームにはトロフィーが贈られた。
ゲートボールに興じるような老人は生活に困っていないので、それで十分だったのだ。
トロフィーは金銭価値的には大したものでもない。
だが名誉ではあるので、老人達は本選で死闘を繰り広げた。
「やったぁーーー! 優勝だ!」
第一回大会なので、ゲートボール大会を行うのに必要な仕事はすべて泰晴が引き受けた。
門球協会も作られ……門球とはゲートボールの事である。門を潜らせるから門球となった……泰晴は協会の初代会長に就任している。
「仙台や蝦夷でも門球が普及しているそうだ。向こうの協会の設立を手伝いに行くか……」
「泰晴、お前、隠居していないじゃないか」
「いえ、大殿。津田家で内政を担当していた時に比べれば、さほどの忙しさでもありません」
ワーカホリックになっていた泰晴が、まったく仕事をしないというのは不可能なようだ。
彼は門球協会会長として、ゲートボールの普及に第二の人生を費やすのであった。
「失礼、注文した試合着を取りに来たのですが」
門球協会会長である泰晴は、自分もトップチームのエースであった。
第二回大会に備えて練習するもの忘れないが、チームのみんなで着る試合着の注文を津田家の服飾工房に対して行っている。
みんなある程度お金に余裕がある老人が多いので、大会で着る特注の試合着を頼む者が多かったのだ。
五人で同じオリジナルの試合着を着て勝負に挑む。
これが、江戸に住む老人達の流行になりつつあった。
「お待たせしました、泰晴様」
「おおっ、直虎殿ですか」
泰晴が注文した衣装を持ってきてくれたのは、津田家洋裁工房の幹部である井伊直虎であった。
直虎の呼び方でわかるが、彼も光輝と同じく出家をしなかった。
『死ねば坊さんが戒名をつけてくれるから、それでいいじゃん』という光輝の考えに納得したからだ。
泰晴も『そういえば自分も対して信心深くなかったな』と気がつき、光輝ほどの大物が出家をしないので、好都合だとそれに便乗した。
武士が出家をして名を変えるのは、戦で人を殺す職業なので周囲の目もあってだと気がついてしまったのだ。
それに、第二の人生を寺での修行に当てたいとも思っていなかった。
ゲートボールの方が楽しいと思っていたからだ。
「こちらになります」
「わざわざすみませんな」
泰晴は、直虎が直接試合着を渡してくれた事に対してお礼を述べた。
「いえ、泰晴様は津田家の柱石であったお方ですから当たり前ですよ」
直虎は、泰晴が来たのに部下に対応を任せるわけにはいかないと考え、自ら彼に応対していた。
「今は隠居の身ですので、お気になさらずに」
「門球の協会でもご活躍だとか?」
「ええ、急に暇になりましたのでね。私は独り身ですし……」
実は泰晴の妻は数年前に病で亡くなっており、今は吉晴やその妻と同居していた。
吉晴から後妻を迎えてはどうかと勧められた事もあったが、年も年だし、亡くなった妻には主家の滅亡などで苦労をかけた負い目もある。
泰晴は再婚をせず、このまま一人で人生を終えようと考えていた。
「奥様は残念でしたね」
「今日子様もすぐに駆けつけてくれたのですが……」
泰晴の妻の病名はくも膜下出血で、今日子が駆けつけた時には手の施しようがなかったのだ。
それでも泰晴は、家臣の妻にそこまでしてくれた津田家に感謝していた。
「妻にはもう少しあの世で待ってもらうとして、私はもう少し人生を楽しんでから死にますよ。現役の頃は張り合いはあったのですが、あまり余裕がありませんでしたからな」
現役の頃は忙しかったので、今の生活は楽しいと泰晴は笑顔で話す。
「門球ですか。今、江戸で流行っていますね。私もやってみようかな?」
「もう少し年を取られてからでも十分に間に合いますよ。直虎殿はまだ若いですからな」
「いえ、もう孫もいるお婆ちゃんですから」
直虎は既に五十を超えていたが、子供を産んでいないので年齢よりも若々しく見えた。
孫にも恵まれ、仕事や、今日子と一緒に武芸を鍛錬したりと生活が充実しているからというのもあるかもしれない。
「今日子様がもう少しお年を召されたら興味を持つかもしれません。ちょっと習ってみたいですね」
「そうですか。それでしたら、空いている時間にお教えいたしましょう」
「ありがとうございます。是非お願いします」
こうして、直虎は休みの日に泰晴からゲートボールを習う事になった。
「直虎殿は上達が早いですな。女性の大会も開きたいので、直虎殿や今日子様が将来参加してくれると嬉しいですね」
泰晴はゲートボールの女性への普及も目指していたので、熱心に直虎を指導した。
「いつも教えていただいてありがとうございます。今日はお菓子を作ってきました」
「これはわざわざすみません」
「この前のお菓子のお礼に、今度新しい食事処が出来て評判だそうなので、練習の後にご一緒にいかがですか?」
「私も一度行ってみたかったのです。是非お願いします」
「この前の食事のお礼に、浴衣を縫ってみました」
「これは着心地がいい。石山でも流行しているらしいですな。でしたら、今度一緒にお祭りに行きましょう」
「私も浴衣を着て行きますね」
最初は友達付き合いから始めても、男女はいくつになっても男女でしかない。
次第に完全にデートと化し、二人がつき合い始めてから数か月。
泰晴は、あっという間に死ぬまで独身宣言を覆した。
世間では、よくある事である。
「父上、おめでとうございます」
泰晴が家族に報告すると、吉晴以下全員が大喜びで彼の再婚を祝福した。
吉晴は、自分の母親の死で父が少し落ち込んでいたので、元気になってくれてよかったと思ったのだ。
現実的な話として、泰晴が若い娘を後妻に迎えて子供を作り、堀尾家の相続を混乱させそうならば反対したかもしれない。
だが、再婚相手は直虎である。
吉晴としては、反対する理由もなかった。
「直ちゃん、おめでとう」
今日子はその話を聞くと、無条件で直虎にお祝いの言葉を述べた。
「婚姻用の衣装を縫ってあげるね。式はどうしようかなぁ」
「今日子様、あまり派手なお祝いは……」
年も年なので、あまり派手なお祝いは恥ずかしいと直虎は述べた。
「写真は撮ろうよ。あとは知人と身内だけでお祝いね」
「それならば」
「頑張って撮影用の衣装を縫うぞ」
「今日子様、ありがとうございます」
今日子が認めたという事で、二人の再婚の準備が始まった。
二人の婚礼衣装が今日子主導で作成され、簡単なお祝いの席の準備も始まる。
「泰晴殿、直虎殿と再婚とは羨ましいな」
お祝いの席に参加する予定の日根野弘就が、泰晴の下にお祝いを持って姿を見せる。
「弘就殿、わざわざすまんの」
「気にするな、しかし二十以上も年下の嫁か。私など屋敷に戻ると、骨董品の妻が待っておるからな」
日根野夫妻は共に健康であり、弘就も女よりは仕事というタイプなので若い愛人などは囲っていなかった。
彼の妻も、斎藤家滅亡で苦労した口だ。
夫婦仲も悪くないので、弘就は冗談で泰晴を羨ましいと言ったのだ。
「そんな事を言うと、奥方が怒るぞ」
「向こうも、たまにワシの事を死に損ないというからな。お互い様、破れ鍋にとじ蓋のような夫婦だな」
お互いに悪口も言い合い、喧嘩もよくする。
それでも、日野根夫妻は仲がいいと津田家中では有名であった。
「泰晴殿は、わざわざもう一度夫婦という牢獄に戻られるか。これは、ワシが差し入れをしないといけませんな」
弘就の次にお祝いを持ってきたのは、松永久秀であった。
彼は大分前に妻を失っている。
それからは、人に知られないようにして上手にやっていた。
期間限定で愛人を囲ったり、上手く女性を口説いたり、文化人で金があり粋な趣味人である久秀は女性にモテたのだ。
そして、久秀にとって女性は健康の源でもあった。
「ここで、ワシの準備した秘伝の指南書が役に立つな」
久秀は、曲直瀬道三から性技指南書である『黄素妙論』を伝授されており、それに注釈と独自の理論を載せた本を泰晴にお祝いとして渡した。
「いくつになっても男と女は変わりませぬからな。参考にして仲良くされるがいいでしょう」
「はあ……」
そんなわけで、みんなに祝福された泰晴と直虎の再婚であったが、ただ一人だけ大反対を述べた人物がいた。
「反対です! 断固反対!」
それは、直虎の義息子である井伊直政であった。
「あなた、認めてさしあげたらいかがです?」
「そうだよ、直ちゃんの幸せを喜んであげないと」
妻や義母である今日子に説得されても、直政はガンとして首を縦に振らなかった。
直政の頑固さは、津田家でも有名である。
いくら他の同僚達が説得しても、絶対に首を縦に振らなかった。
「直政殿、何が不満なの?」
「とにかく反対です」
直政は、今日子の説得にも応じなかった。
そして反対の理由が感情的なものから来ているので、直政は反対とだけしか言わない。
しかも頑固であり、直政の性格と相まってお祝いの準備がここで止まってしまう。
「みっちゃん、ガンバ」
「直政、俺の説得を聞くかな?」
「大丈夫だよ、直政君はみっちゃんを心から尊敬しているから」
「あいつ、何であんなに有能なのに俺なんて尊敬しているのかね?」
「とにかく、直ちゃんと泰晴殿のためだから」
「やってみるけどね。せっかくの再婚話が進まないのはどうかと思うし」
直政の説得役として光輝が今日子から指名され、彼もこの結婚には賛成なので直政を説得する事になった。
問題は直政が、光輝の説得に素直に応じるかである。
「いくら大殿の説得でも、私は反対なのです。これだけは譲れません」
光輝の予感は当たり、真面目で頑固な直政は直虎の結婚に賛同しなかった。
だが、これは光輝の想定の範囲内であり、事前に考えていた言葉で彼を説得し始める。
上手く行くかは、これはもう賭けであった。
「直政、もういい加減に親離れをしろ」
「大殿、私はとっくに成人しておりますれば」
「いいや、お前はまだ直虎殿の幼い子供のように振る舞っているな」
「なっ!」
優れた武将で腕っ節も津田家で上から数えた方が早い直政に、下から数えた方が早い光輝が臆せずに物を言う。
この時代、いくら主君でも激怒した家臣にいきなり斬られる事案など珍しくもなく、直政は光輝の度胸に感心してしまう。
「直政と直虎殿の血は繋がっていないが、他のどんな親子よりも絆が強いのは理解できる」
故郷と領地を二人だけで追われ、津田家に仕官するまでは貧しい暮らしに耐えた。
直虎は、井伊家は滅んだのだから、直政など見捨てて自分の幸せを掴んでもよかったはずだ。
ところが彼女はそれを行わず、ずっと直政の面倒を見続けた。
直政はそんな彼女に恩義を感じ、自分を産んだ母よりも直虎を本当の母として慕ったのだ。
「お前達は親子であり続け、直政にも子ができて直虎殿もお婆さんになる事ができた。だが、それだけでは片手落ちではないか?」
「それはどういう事です?」
「直虎殿は、お前の母であると同時に女でもあるのだ。このまま独り身で人生を終えるかと思ったところで、思わぬ機会が訪れた。直虎殿もこの結婚に積極的だ。相手も、泰晴だからお前もよく知っているだろう? そう悪い事にはならないと思う」
「はい……」
直虎は、光輝の言葉を神妙な態度で聞き続ける。
「年齢的に二人に子供が産まれるはずもないが、人生の最後に夫婦として仲良く暮らして行けるかもしれない。直虎殿が女性としての幸せを掴もうとしている時に、お前が反対してどうする?」
「それは……」
「第一、お前は母親である直虎殿に口は出せても、女である直虎殿に口など出せない。それでも、大切な義息子であるお前が反対しているから話が止まっているのだ。随分と酷な事をする息子だな」
光輝の指摘に、直政は何も言えなくなってしまう。
「ここは男らしく、直虎と泰晴の結婚を祝うくらいして当然だと思うぞ」
「大殿……」
直政の脳裏に、直虎との思い出が浮かぶ。
故郷の井伊谷を追われ、ついてきた家臣達も徐々に離脱して他の家に仕官してしまった。
遂に二人きりとなってしまい、津田家で仕事を得るまではわずかな食事を二人で分け合って暮らしてきた。
血は繋がっていなかったが、直政と直虎は本当の親子以上に深い繋がりがあったのだ。
その母が……初めて女性としての幸せを掴もうとしている。
これをお祝いできない自分は何と狭量な事か。
「大殿、義母上は幸せになれるのでしょうか?」
「大丈夫だ。何かあれば、今日子が直虎を守るからな」
「わかりました……」
光輝の説得で直政が折れ、堀尾泰晴と井伊直虎はこの時代には珍しい恋愛での熟年結婚をした。
お祝いは内々だけで済ませたが、今日子が婚礼衣装を縫い、記念撮影も行われた。
この婚礼衣装は堀尾家の家宝として残り、堀尾家の婚礼衣装として使われるようになる。
二人の写真も、大分未来において熟年結婚を勧める結婚相談所のパンフレットなどで採用されるようになるのであった。
「義母上、いらっしゃいますか?」
泰晴と直虎が結婚してから数日後、直政は二人が一緒に住むようになった直虎の屋敷を訪ねる。
すると、二人の代わりに若い使用人が顔を出した。
「これは直政様、お二人でしたら新婚旅行で蝦夷にお出かけです」
「新婚旅行?」
「はい。今日子様のお勧めで、結婚した二人が仲を深めるために行う旅行だとかで」
泰晴が門球協会の仕事で蝦夷に行く予定があったので、それが終わってから蝦夷の雄大な自然、登別などの温泉、豊富な海の幸を楽しむ旅行に出かけてしまったのだと使用人が説明する。
「聞いていなかったな……それにしても、結婚すると旅行に行くのか」
「はい、大殿様と今日子様も同じように旅行に出かけられたとか」
津田家では、結婚した夫婦が新婚旅行に出かけられるように勤務制度を整えようとしていた。
その走りというわけではないが、まずは津田家の重鎮であった泰晴と直虎に新婚旅行に行ってもらい、その素晴らしさを宣伝してもらおうとしたのだ。
できれば庶民にも、そう遠くはなくても近場で新婚旅行を楽しんでもらえるように観光地の整備を進める計画も発動していた。
「そうなのか……では、戻ってから出直すかな……」
そして一週間後、直政はようやく戻ってきた直虎と会う事ができた。
彼女は直政にお土産を渡しながら、泰晴と楽しそうに話をしている。
「あなた、摩周湖は神秘的な美しさでしたね」
「湖水がどこまでも透明でな。登別の温泉もよかった」
「はい」
とても楽しそうに話す二人を見て、直政は寂しさを感じてしまうが、直虎が楽しそうだから仕方がないと、ようやく二人の結婚を心から祝福するのであった。
「私も休暇を取って妻と旅行にでも行くかな……」
そしてこれ以降、徐々に新婚旅行に出かける者が増えていく事となる。
堀尾泰晴と井伊直虎は、日本で初めて新婚旅行に出かけた夫婦として歴史に名が残るのであった。