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銭(インチキ)の力で、戦国の世を駆け抜ける。(本編完結)(コミカライズ開始)  作者: Y.A


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第八十話 津田幕府成立

「殿! 一大事ですぞ!」


 血相を変えて飛び込んできた滝川忠征に対し、その主君である滝川一忠は腑抜けた顔を見せた。


「どうかしたのか? 忠征」

 

「(殿、あなたは……)」


 主君の気が抜け、腑抜けた表情はいつもの事であったが、さすがにこんな時まで同じ調子だとイライラしてしまう。

 この石山近くの町にも、織田幕府軍大敗北、将軍信重と細川幽斎が少数の軍勢のみで石山城に向けて敗走中の報が流れてきており、上は大名から下は末端の兵士まで大きく動揺していた。


 みんな、最後まで織田幕府に忠誠を尽くすか、それとも津田家に鞍替えするかで大いに悩み、どちらも選べなくて領地に逃げ出そうとしている者も多い。


 そんな中で、一忠のみがいつものようにやる気のない表情を見せている。

 この期に及んで、なぜそんなやる気の欠片もない表情のままなのだと、報告にきた滝川忠征は思ってしまうのだ。


 一忠の父は、言わずと知れた滝川一益である。

 彼は外様ながらも織田信長の信任厚く、死の直前まで九州探題として織田家中において重鎮中の重鎮であった。

 ところが彼の死後、その跡を一忠が継いでから滝川家の没落が始まる。

 それでも三ヵ国を領していたが、弟の一時、辰政と相続争いが起こり、領地は一ヵ国ずつに分割された。

 統治が得意な一忠は播磨を維持し続けたが、一時と辰政は領内統治に失敗して、但馬と因幡を織田幕府から没収されている。


 当然、織田幕府が没収した二ヵ国が一忠に返還されるはずもなく、世間ではわざと統治が苦手な一時と辰政にも領地を分け与えて失敗させ、それを口実に滝川家から領地を奪うのが目的であったのであろうと言われていた。

 

 挙句に、津田家の反乱で延期されていたが、一忠は備後に移封される予定もあった。

 誰が見ても、織田幕府による滝川家へのこれら一連の処置は理不尽で不公平に見えたが、当の一忠は心をへし折られたようで、今では一言も文句を言わずにこれらの命令に従っている。


 津田家討伐においても、滝川家は目立たない存在であった。 

 それもそのはず、滝川軍は幽斎の命令で物資の輸送と護衛を行っていたからだ。

 幽斎としては、功績をあげられて、滝川家に復活されてしまうと困るのだ。

 それと、一忠が幽斎の命令に一切逆らわないという点もあった。


 彼はどんなに地味で嫌な仕事でも黙々とこなし、それにケチをつける事はない。

 功績にならなくても文句すら言わず、織田幕府において新たな実力者となった幽斎にも従順だ。

 そんな一忠に、幽斎は石山から近江に食料を輸送する仕事を与えた。

 織田幕府が津田家との間諜を使った戦いに破れており、いつでも空から攻撃を行える飛行船の存在もあって、後方の輸送路が攻撃される危険性が増えていたからだ。

 

『承知いたしました』


 一忠は幽斎の命令に従い、石山と近江の間で輸送部隊の護衛任務についている。

 前線に一切出ていないので、津田家との戦いで一人も犠牲を出していない。

 だが、戦闘に参加しない以上は、滝川家の功績はゼロに等しい。

 織田幕府は補給の大切さを津田家から深く学んでいたが、後方で補給を行う将兵を評価するほど人事制度が進んでいなかった。


 前線に出て津田軍を撃破、その領地を占領する。

 これを行う事こそが功績を得る一番確実な方法のため、滝川家中では家臣や兵達に不満が広がっていた。

 後方で輸送部隊の護衛ばかりでは、犠牲も出ないが加増にも繋がらない。

 かつての滝川家の力を取り戻すためには、前線に出なければいけないと、忠征などは思っていたのだ。


「殿!」


「ほう、織田幕府軍は負けたのか」


「はい。見るも無残な大敗北だそうで……」


 九州、四国勢も津田軍に加わり、織田幕府軍は三方から袋叩きにされて崩壊。

 本陣は無傷のままであったが逃げ出す大名や兵達が多く、石山城にて軍勢を再編、籠城で勝機を見い出すため信重と幽斎一行が撤退中であると、忠征が説明をした。


「そうか、敗れたのか」


「はい。ですから、殿はいかがなされるのですか?」


「どうするかだと?」


「はい」


 忠征は、段々とイライラしてきた。

 とにかくどちらでもいいから、滝川家当主として判断してくれと思ったからだ。

 いくら敗走したとはいえ、織田家はまだ畿内を有しており、石山城は全国でも屈指の要害だ。

 籠城戦に徹すれば津田軍も攻めあぐねる可能性が高く、織田幕府軍に味方して恩を売り、戦後に加増を約束させる事も十分に可能であった。


 そのまま津田軍に参加して石山城攻めに参加し、今は亡き先代一益との関係を利用して加増を目指すという手もある。


 とにかく、どちらか判断してもらわないと忠征としても動きようがなかった。


「殿!」


「忠征は、織田幕府軍に参加して数少ない味方として恩を売るか、津田軍に急ぎ参加して石山攻めに参加するかのどちらかだと言うのだな?」


「はい」


「そうか……」


「殿!」


 忠征のイライラは限界に達しつつあった。

 このままでは滝川家は永遠にうだつが上がらないまま、そればかりか滝川家を見限って逃げ出す家臣も多かろうと、忠征が落ち込んでしまいかけたその時、突然一忠の顔に精気が戻った。


「忠征、お前らしくもないな」


「殿?」


「なぜその二つしか策を示せないのだ?」


「他にあるのですか?」


「あるじゃないか。我らは今どこにいる?」


「はあ……山城におります」


 近江にある織田幕府軍の食料保管所に石山から持参した兵糧を届けた帰りで、現在の滝川軍は摂津との国境付近にあった。


「我らは、幽斎よりも石山に近いのだぞ。なぜ、わざわざ幽斎をすり抜けて津田軍と合流せねばならない?」


「殿、もしかして……」


 忠征は、まさか一忠が幽斎を討とうとしているのではないかと思った。


「上様が巻き込まれてしまう。それは悪手だ。津田殿も、信重様を殺そうとは思うまいから、例え少数で敗走中でも、幽斎を狙うのは危険だ。石山城を落としてしまえば、幽斎などいつでも始末できる。領地に逃げ帰っても、碌に防戦すらできまい。石山城を無傷で落とし、そこにおられる織田家の方々を無事に確保する。この方が、津田殿の……いや大御所様から評価されるではないか」


「殿は、もう腑抜けてしまったのかと……」


「幽斎の独裁が続けば、死ぬまで腑抜けていただろうな。でなければ、滝川家は一国を保つのも難しかった」


 一忠は、幽斎による名門復活の動きを誰よりも警戒していた。

 このまま状況が推移すれば、多くの織田家譜代家臣が減封や改易に見舞われてしまうだろうと。

 日の本の土地に限りがある以上、誰かの領地を増やせば、誰かの領地を減らさなければならない。

 幕府の直轄地を削れば、今度は幕府の力が衰えてしまう。

 幽斎がその手法を取るはずはないので、ターゲットは間違いなく織田家譜代家臣であろうと、一忠は思っていたのだ。


「今は説明する時間が惜しい。俺が戦下手なので、軍を動かすのは一時と辰政に任せている。呼んできてくれ」


「畏まりました」


 忠征は久しぶりに精気が戻った主君一忠に喜び、急ぎ二人を呼び出した。

 四人は軽く打ち合わせをすると、そのまま全速力で石山城を目指す。


「俺は寄る所がある。少しだけ時間を貰うぞ」


 石山郊外にまで到達した滝川軍であったが、一忠はある場所に寄り道をする。

 それは、津田家が建立した信長を祀る『総見院』であった。

 

「養華院様にお会いになられるのですか?」


「お縋りして、お力を借りるのが一番であろう」


 養華院とは、信長の正妻であった濃姫の出家名であった。

 彼女は、信長と急死した信忠の妻と愛妾で出家した者達を取りまとめ、この総見院で静かに暮らしていた。


「あら、この世事に疎い御婆にどのような用事でしょうか?」


 織田信長の正妻として奥のすべてを取り仕切っていた濃姫は、以前と同じ威厳を保ったまま一忠に声をかける。

 一忠は極自然に頭を下げた。


「今は時間がありませんので、失礼をお許しください」


「そういえば、亡くなる少し前に殿が仰っておりました」


 一忠が濃姫に対し手短に説明をしようとすると、彼女の方が先に話し始めた。


「養華院様?」


「『天下とは、我の夢幻なのかもしれない』と……殿がお亡くなりになり、五年と経たずに織田家の天下が消える。どうやら、殿の仰っていたとおりで」


「……」


 一忠は、養華院に対しまだ何も説明していない。

 それなのに、既にすべてを知っている彼女に背筋が凍る思いをした。


「たまには石山に外出もよろしいでしょう。織田一族に犠牲者を出すわけには参りませんから。一忠、輿の用意を」


「ははっ!」


 滝川軍は養華院を輿に載せると、急ぎ石山城へと向かった。

 

「一忠、石山城には幽斎の走狗もいると思いますが、どうやって入ります?」


「陳腐な手ではありますが、ここは養華院様のお力に縋りたく……」


 一忠は、老成して生前の信長にも負けないオーラを放つ養華院に対し、完全に家臣として振る舞っていた。


「騙すようで悪いのですが……」


「このような世の中です。騙される方が悪いでしょうね」


 養華院の許可を得た一忠は、織田幕府軍敗北で動揺する石山城の守備隊に対し、こう口上を述べた。


「上様より、籠城に際し養華院様を石山城にお連れせよとの命令を受けた。入城の許可を!」


 石山城ほどの要害を通常の攻城戦で落としていたのでは、味方の犠牲が大きくなってしまう。

 そこで一忠は、自分が信重の命令で養華院を石山城に避難させるように言われたのだと嘘をつき、城門を開かせる策を実行しようとした。


「養華院様がいらっしゃるのか?」


「輿にお乗りになられている」


 留守部隊を統率する細川家の家臣が一瞬一忠に疑いを持つが、その疑いは輿から降りた養華院がその顔を見せた事で消え去ってしまった。

 彼女を連れてきたのが一忠である事実も、彼を安心させている。

 これまでの芝居により、彼が幽斎に従順な事を知っていたからだ。


「すぐに門を開けます」


「あとは、事前の打ち合わせどおりですか?」


「はい、一部細川家に組する者は斬らねばなりませぬが、他の者達は大人しく言う事を聞くと思います」


 巨大な城門の開門と共に、一時と辰政が指揮する滝川軍が、細川家に組する者達を排除するため石山城内に乱入した。 

 忠征が指揮する別働隊は、城内にいる織田一族の子女の保護に向かった。


「一忠殿! これはどういう?」


「知る必要はない」


 突然の滝川軍の乱入に、留守居役の細川家家臣が一忠に対し文句を言おうとしたが、背中から滝川一時に斬られて絶命した。


「兄上、抵抗する者はさほどおりません」


「そうだろうな……」


 織田幕府軍が大敗したため、もし石山城で最後の籠城戦を行うと幽斎から命令されたとしても、それに参加したくない者が大半であったからだ。

 

「我らは降伏する!」


「私もだ!」


 細川家の家臣が最後まで抵抗したが、幕臣や兵達は不利を悟って武器を捨ててしまったので、死ぬまで戦った者は少なかった。

 彼の派閥を形成していた名門家出身の者達、彼らは津田家討伐に連れて行ってもらえなかった時点で、幽斎から箸にも棒にも掛からないと判断された連中だ。

 最後まで抵抗する者はほとんどおらず、呆気なく降伏している。


「予想以上に脆かったな……」


「それもあるが、兄上が養華院様にお縋りしたおかげだな」


 一時が辰政に、今回の勝因について説明した。

 既に城内の制圧は終わり、滝川軍は石山城の警備と片付けを始めている。

 斬り殺した細川家の家臣の遺体を運び出し、血糊を掃除し終わらないと、これから臨時で石山城主となる養華院を城内に案内できないからだ。


「一番の懸案であった織田家一族の保護も成功した」


「とはいえ、これからが大変なのだ」


「兄上、それはどういう事です?」


「確かに織田幕府軍は崩壊した。だが、自らの軍勢を一切崩壊させず、この石山に軍勢を差し向けている可能性が高い男が……いや、絶対に姿を見せるはずだ。それまでに、石山を安定させないといけない」


 石山城から細川家の影響を排除した一忠は、養華院を臨時の城主とし、石山の町の掌握も急いで行った。

 やはり幽斎の息がかかった連中が抵抗したが、それも短時間で排除されている。

 織田幕府軍大敗の報で、幽斎に死ぬまで付き合うつもりの者が少なかったからだ。


 一忠は石山の町の鎮静化にも成功したが、その直後、放っていた密偵が石山に接近しつつある軍勢の存在を報告した。


「率いる将は、蒲生氏郷です」


「やはり……」


 一忠の予想は当たり、彼の推察力に一時、辰政、忠征が感心した。

 実は、蒲生軍と織田信雄軍の連合軍であり、表向きは率いる軍勢が多い信雄が総大将なのだが、織田家家臣でその事実を気にする者は少ない。

 いくら総大将でも何の影響力もなく、実質氏郷が指揮する軍勢であったからだ。


「兄上、どうする?」


「籠城戦で迎え撃つ……のは逆に危険だな」


 何しろ、相手はあの蒲生氏郷だからだ。

 キリスト教狂いで幽斎から嫌われていたが、その幽斎ですら能力は認めて信雄の御守役を続けさせていた。

 もしこのまま籠城しても、思わぬ方法で石山城を落とす可能性がある。

 こちらに降伏した者達を城の守備や石山の町の統治で使わなければいけない以上、再び、今度は蒲生家側に裏切って内側から攻撃してくる可能性があった。


「野戦で蒲生氏郷を討つのか?」


「できそうか? 一時」


 一忠は、戦が上手な弟に質問した。


「『蒲生氏郷になど負けはせぬ!』と言いたいところであるが、難しいだろうな」


「辰政はどうだ?」


「無理だ」


 氏郷の能力は、信長の厚遇を見るに折り紙付きであった。

 それは織田家の家臣ならば誰もが理解している。

 そう簡単に討てると安請け合いなどできないというわけだ。


「籠城して、津田軍が来るまで時間を稼ぐしかないのか……」


「降伏した連中はどうする? あいつらは少しでも戦況が不利になると裏切るぞ」


「石山城の守りを滝川軍のみにし、石山の町は一時放棄するか?」


「それで蒲生軍に火でもかけられたらどうする? 石山の町は重要な場所だ。何かあると不都合が多いぞ」


 兄弟三人で善後策を協議していると、そこに臨時女城主となった養華院が姿を見せる。

 彼女は保護された織田一族に顔を見せて安心させてから、一忠達の所に姿を見せたのだ。

 

「一忠、どうかしましたか?」


「それが……」


 良案が思い浮かばないので、一忠は養華院に蒲生軍の襲来を告げた。

 信雄軍の襲来も告げたが、彼女も信雄を特に気にしていないようだ。


「氏郷は厄介ですね」


「こちらに味方してくれるわけがありませんので」


「私も一忠の考えに賛成です。殿が認めた者なのに、まさか宗教に気触(かぶ)れて己を見失うとは……」


 信長は、一向宗との戦いで大いに苦労した。

 彼の天下統一を一番阻んだのは、どの大名家でもない。

 一向宗なのだ。

 その信長の苦労を身近で見てきた氏郷が、キリスト教に過度に傾倒してしまっている。

 それだけの才能があるのにと、養華院は残念でならなかった。


「私も、野戦で決着をつければいいと思います」


「しかし、養華院様……」


「氏郷は出来人ですが、一つ大きな欠点があります。それは籠城戦では利用できません」


「氏郷に欠点が?」


「はい。それは……」


 養華院は、生前の信長から聞いた氏郷の弱点を一忠に説明する。

 それを上手く生かせば、滝川軍は勝利できるであろうと。


「わかりました。やってみましょう」


 一忠は、滝川軍と一部降伏した軍勢の中でもあてになりそうな者達を連れ、石山郊外で蒲生軍の襲来を待ち構えた。

 もしここで敗れれば、氏郷が石山城を占拠し、信重と幽斎を迎え入れて激しく抵抗するであろう。

 速やかに津田幕府へと政権交代が行われなければ、再び日の本が戦乱状態になってしまう。

 それだけは避けたい一忠であった。


 滝川軍が防衛主体の陣形を組んだ直後、前方に蒲生・織田信雄連合軍が姿を見せる。

 その数は、やはり滝川軍よりも多かった。

 

「一忠殿、どういうつもりか?」


「どうもこうも、我らは石山において君側の奸細川幽斎の影響を排除し、津田殿に石山城に入っていただく所存」


 今も将軍信重が生存している以上、一忠も津田家に政権を渡すために石山城を占拠したと表立っては言えなかった。

 奸臣である幽斎の代わりに、光輝に石山城に入っていただこうという表現に留めて氏郷からの問いに答えている。

 養華院の助力を得たのも、この建前を世間に誇示するためであった。


「津田光輝は、上様より追討の命を下されたではないか! 戯言を言わないでいただきたい!」


「……(氏郷は痩せたか? 顔色も悪いような……)」


 一忠は、氏郷の返答は想像の範囲内であったが、彼が前に顔を合せた時よりも痩せており、顔色も異常に悪い事の方が気になった。

 何か大病でも患っているのではないかと思ったからだ。


 一忠の予想は当たっており、実は彼は胃癌が大分進行していた。

 氏郷ほどの身分ならば今日子からの治療も受けられたはずだが、彼は光輝を嫌っている。

 その妻から治療を受けるなど、彼のプライドが許さなかった。

 そこで氏郷は、宣教師が連れてきた西洋医の診察を受ける。

 この時代の西洋医学と、日の本の医学。

 どちらが優秀かと問われると判断に迷うところだが、西洋医学は症状に直接効果がある治療を優先する傾向にある。

 氏郷を診察した西洋医は、現時点で手の施しようがないと判断した。

 だが、今彼に死なれてしまうと、日の本の同朋はどうなってしまうのか?


 そこで、次第に強くなる胃の痛みを緩和するために、自然と麻薬の類である鎮静剤を処方するようになった。

 これで胃の痛みは大分治まったが、それで食欲が戻るはずもなく、最近の氏郷は重湯ばかりを口にしており、痩せて当然であったのだ。


「上様を幽斎と忠興が甘言で惑わし、何の罪もない津田殿の討伐などという愚策を行わせた! 我らが討つべきは幽斎である!」


「一時殿は、上様のご判断に文句をつけるのか? 一体何様なのだ!」


 一時も氏郷に対し言上を述べたが、これはただ単に時間稼ぎである。

 氏郷が、自分の言葉を聞き入れるとは一時も思っていない。

 もし津田光輝が日の本の政権中枢に入れば、キリシタンの未来はない。

 それがわかっている以上、氏郷は信重と幽斎を支持しなければいけないからだ。

 彼らもキリシタンにいい感情は持っていないが、それでも光輝よりはマシだと氏郷も思っていた。


 それに、氏郷は自分の死が近い事を理解していた。

 もし自分の死後に日の本のキリシタンが弾圧されるような事態に陥ったら?

 それだけは絶対にあってはいけないと、彼はその命を削って戦っていたのだ。


 津田光輝についてキリスト教を棄教すれば蒲生家は安泰のはず。

 頭ではわかっていても、その選択肢を氏郷は選べなかった。

 鎮静剤の多用で、判断力が鈍っているという事情もある。


 死を前に、彼は頑なであった。


「お互いの言い分など披露しても無意味」


「それはわからぬぞ」


「ふんっ、時間稼ぎとは姑息な。津田光輝が石山に到着するまでに城を落とせばいいだけの事だ」


「仕方がない。受けて立とう」


 双方は話を止め、一忠は防戦の、氏郷は滝川軍撃破のために自軍へと戻っていく。


「養華院様の仰るとおりであったわ」


 彼女は隠棲したように見えて、かなりの情報を集めていた。

 まずは、氏郷の体調が最近優れないという噂。

 一忠は半信半疑であったが、まさかあそこまで具合が悪そうだとは思わなかった。


「殿、確かに氏郷殿は体調が悪いようです」


「忠征はどうしてそう思うのだ?」


「もし全盛期の氏郷殿なら、殿のお話など聞かずに滝川軍を撃破しているからです」


「なるほどな」


 ならば、養華院から氏郷の欠点を利用して彼を討てるかもと、一忠はその準備に全力を尽くす。


「多少卑怯な気もするが、仕方があるまい」


「別に卑怯でも何でもありません。氏郷殿も、津田殿が広めた新しい戦に対応できなかっただけの事です」


「そうか……鉄砲隊は伏せておるな?」


「はい、数は二百丁。全員に氏郷殿を狙うようにと」


「ならばいい」


 一忠は、忠征の手配に満足する。

 そしてその直後、蒲生軍に大きな動きがあった。

 彼らは時間短縮のため、一気に滝川軍を撃破しようと突撃を開始したのだ。


「かかれぇーーー!」


 氏郷の病人とは思えない号令で、全軍が一丸となって……信雄は氏郷から『信雄様は、大切な上様の御一族。後方にて家臣の成果を見定める事こそが肝要です』と言われ、素直に後方に退いていた。

 さすがの氏郷も、戦の最中に彼の面倒までは見切れないようだ。


「狙うは、滝川一忠の首ぞ!」


 氏郷はいつものように、軍勢の先頭に立って突撃を開始する。

 そう、彼の弱点とは、常に軍勢の先頭に立って戦う事であった。

 まだ信長が生きていた頃、彼はたまたま顔を見せた羽柴秀吉から氏郷の評価を聞いている。


 『氏郷が指揮する十万と上様が指揮する一万が戦えば、必ず上様が勝利します。氏郷が織田軍五千を討ち取っても、その中に上様はおりませぬ。逆に上様が蒲生軍の先頭一人を討ち取れば、それが氏郷ですから』と。

 

 その話を聞いた信長は大いに笑い、その事を養華院はよく覚えていた。

 そして、この話は別に冗談でも何でもない。

 氏郷の強さとは、自分も危険な場所に出て家臣のやる気を鼓舞する方法だという事だ。

 その効果は絶大だが、常に討ち死にのリスクを孕んでいる。


「正直半信半疑の話であったが、籠城戦ではさすがにそれは確認できないからな。野戦ならば、氏郷が先頭に立っているのが確認できるというわけだ」


「殿、本当に銀の鯰尾の兜が……鉄砲隊! 狙うは銀の鯰尾の兜だ!」


 忠征は氏郷が被る銀の鯰尾の兜を確認し、事前に集めていた鉄砲隊の面々にたった一つの目標を指示する。

 それは、滝川軍に向けて全力で突撃してくる蒲生氏郷であった。


「もし氏郷が万全の状態だったらどうなっていたかな?」


「当たらないかもしれませんが、それを確認する術はありません」


「そうか……」


 その直後、二百丁の鉄砲による銃声が鳴り響き、氏郷の体を十発を超える銃弾が貫いた。

 彼が被る銀の鯰尾の兜が地面の土に塗れ、総大将の死で混乱した蒲生軍は大きな犠牲を出してバラバラになってしまう。

 運よく後方にいた信雄は、信重と幽斎に石山城陥落という重大な報告を伝えるために撤退した。


 一忠もあえて信雄を討つ価値を見い出せなかったし、石山の治安維持の仕事もある。

 彼を放置して石山城へと帰還するのであった。






 

「本当、天下が回ってくるって感じだな」


「私まで官位を上げてもらったんだけど、いいのかな?」


「いいんじゃないかな? 箔付けには必要だから」


 織田幕府軍との会戦に勝利してから一か月、新たに石山の主となった光輝は、今日子と共に後処理に奔走していた。


「しかし、織田幕府がここまで脆かったとは……」


「派手に負けましたからな」


 敗北したとはいえ、織田幕府にはまだ石山城とそこに貯蔵してある大量の金銀財宝、食料などで籠城しながら戦えるという計算があった。

 ところが、それを根底から崩す存在が現れた。


『どうせ私は戦下手だ。その戦下手に無様に破れた気分はどうだ? 幽斎』


 織田幕府軍には参加していたが、後方で食料輸送を黙々と行い戦力を温存していた滝川一忠が、突如石山城を占領、光輝達を迎え入れてしまったのだ。

 さらに彼は、石山城の臨時城主として今は亡き信長の正妻お濃の方……今は出家して養華院を名乗っているが……を据えて、織田一族や留守居役についていた家臣や兵の動揺を抑えた。


 その直後、一忠の策を見抜き、石山城再奪還のために蒲生氏郷が織田信雄をお飾りの総大将として軍勢を進めてきた。

 だが、氏郷は末期の胃ガンで判断力が衰えていた。

 養華院の策で呆気なく討ち死にし、その軍勢は崩壊。 

 後方にいた信雄は崩壊した自軍を纏めきれず、信重と幽斎に合流すべく小勢で逃げ去ってしまう。


 信雄から一忠の石山占拠と氏郷討ち死にの報を聞き、これに慌てた信重と幽斎は、石山城奪還を諦め、細川家の領地に逃げ込む事になった。


 だが、細川家は敗戦で嫡男忠興以下多くの家臣と兵を失っている。

 石山城に詰めていた留守居役の家臣と兵もほぼ全滅した。

 領地の守りは貧弱であり、今では若狭小浜城のみがその領地となっていた。


 一忠に保護された織田一族はすべて信房に渡され、信重に合流しようとしたわずかな諸将と織田一族は、畿内と細川領平定の過程で討たれるか降伏している。


 天下の織田幕府将軍は、既に居候の身となっていた。


 そんな事情もあり、今は光輝が石山城で全国の政務を見ている有様だ。

 信輝以下、これまで育てあげた津田家官僚団のおかげと、幕臣で降った者も採用して政務は滞っていない。


 丹羽長秀、羽柴秀吉、前田利家、松永久秀、滝川一忠、そして上杉謙信が石山城に詰めているので、織田幕府崩壊による混乱は発生していなかった。


 光輝は畿内平定の過程で京にいる後陽成天皇と謁見、従二位右大臣兼右近衛大将という信長の官位を数日与えられたあと、すぐに従一位太政大臣に任官した。

 今日子も散位ではあるが正二位を、信輝は信重の処遇が片付いてから征夷大将軍に任命される予定である。

 その他、津田家の家臣や諸大名にも官位がばら撒かれた。


 そのお礼ではないが、御所の新規建て替えと、貴族への家碌と俸給は津田幕府から銭で毎年一定額が支給される事となった。


 貴族が今までのように荘園などから収入を得ようとすると、武士の横領が発生する可能性がある。

 そこで、銭による支給に切り替えてしまったのだ。

 日本政府から皇室の費用が出ているのと同じような構図だ。


 下級貴族に対しては京都に大学の建設を提案、全国から集まる生徒達の教育を任せ、給金を払う事で彼らの生活を保証した。

 

 一定の権威を得た光輝は、所領の割り振りをおこなう。

 最初に津田家に頭を下げて臣下の礼を取り、戦でも抜群の働きをした上杉家には柴田勝家の旧領である越前と加賀を加増、北陸管領に任じて代々上杉家の世襲とした。


 ところが、謙信は越前の加増を断った。


『加賀のみで十分でございます』


 諸将は驚いたが、光輝には理解できた。

 越前まで上杉家の領地なれば、石高が二百万石に迫ってしまう。

 将来、津田家に警戒されて滅ぼされる危険性があったので、過分な恩賞を断ったのだ。


 その代わりに、光輝は謙信が進めている越後平野開拓に使ってほしいと大量の資金を褒美として渡した。


『ありがたき幸せ』


 謙信は、戦費を補って余りある銭と、越後平野の開拓が終われば越前の分は十分に取り戻せると計算していたので、心の中でしてやったりという笑みを浮かべた。


 出羽の織田信房は織田宗家の家督を継承、領地も尾張、美濃、伊勢、飛騨へと加増移封、中部管領に任じられている。

 飛騨の国主であった金森家は織田家の家臣に戻った。

 代々飛騨代官に任じられるという条件と、津田家から銭と名物で褒美を下賜されている。


 徳川信康は駿河と甲斐と南信濃を加増、東海管領に命じられてこれも世襲となった。


 駿河の松永忠長は大和と紀伊に加増移封、真田家は北信濃で加増となった。

 地味ながら真田家は、武藤喜兵衛の影響もあってずっと津田家についてきたからだ。


 伊賀の林通政は伊賀を安堵、石山城占拠と危険な男蒲生氏郷を討ち取る快挙を成し遂げた滝川一忠は備後への移封は中止となり、但馬、因幡、丹波を加増。

 前田家には越前、丹後と、現在小浜城が津田軍により包囲中であるが若狭を加増移封、空いた伊予は長宗我部家に加増された。

 

 毛利家や宇喜多家とは違い、長宗我部家は津田家につくと旗幟を鮮明にし、嫡男信親は織田幕府軍との戦いでも大活躍した。

 そのために、わかりやすい優遇をおこなったのだ。


 丹羽家は海を挟んでしまうが備後と備中を加増、明智家は石見と出雲を加増され、明智光慶と斎藤利三の顔を綻ばせた。


 九州は、羽柴家が九州探題職の世襲と豊前と豊後を加増、鍋島家は肥前一国のみであるが、松浦家が津田水軍の所属となったので、松浦領が実質加増されている。

 肥後は蒲生家が領主のままであったが、当主は討ち死にした氏郷からその兄である氏信に変わっている。

 島津家は、薩摩と大隅を正式に与えられて復活した。


『お義爺様、おいはよか領主になって桃姫に相応しい婿になるけん』


『いい領主にはなれ! 桃の件は別だ!』


 島津家は家久が隠居を宣言し、豊久が当主となった。

 彼と光輝の噛み合わない会話はいつものとおりである。


 九州勢は、羽柴軍に参加した秋月家と伊東家、相良家などは津田幕府の幕臣に推挙された。


 志摩、近江、山城、摂津、河内、和泉、日向は津田幕府の直轄地となり、ここに強固な力を持つ中央政権寄りの政治体制が完成する。


 旧織田家臣と在地の地侍勢力は、津田家か他の大名に仕える家臣となるか、琉球、台湾、フィリピン、ニューギニア島へと移民する事となる。


『この地を開拓できれば、領主に返り咲けるぞ!』


 という夢を抱きつつ、各地へと旅立っていく。

 光輝は、彼らに援助を約束した。

 そして、あの人物であるが……。


「長可殿は、外地の開発許可がほしいのか」


「日の本じゃ頭打ちですからね。津田幕府が全面的に援助してくれるとなれば、ここは大領主を目指して進むしかないというわけです」


 森長可は、津田家による領地再編の余波で土地を失った旧織田家臣とともにニューギニア島へと旅立つ事になった。

 国内で一国、二国を貰うよりも、将来の大領主を目指すというわけだ。


「兄貴は大人しいので、適当に加増していただけたら」


「美作と伯耆に加増移封する予定だけど」


「ありがたき幸せ。兄貴も人手不足だと思うので、長隆と長氏に手伝わせます」


 森家本家は可隆が当主のままで弟二人が家臣として補佐を、長可は別家の当主として外地開拓へと向かう事になった。


「成利殿には残ってほしかったな」


「そうね。信輝を補佐してほしかったわ」


「私如きをそこまで評価していただき感謝します。ですが、兄には抑え役も必要でしょうから」


 そして長可を補佐するため、津田夫妻からの誘いを断った成利もニューギニアへと旅立つ事になった。

 できれば幕臣になってほしかったのだが、成利の意志は固かった。

 森家の末子忠政も、長可の手伝いをするために外地へと向かう。


「成利、人を危険人物扱いするなよ」


「兄上、大御所様が仰ったとおり、現地の住民とは交渉を主体に交流しませんと。あと、忠政も心配ですから」


「忠政はまだ若いからな。俺だってバカじゃないから、いきなり現地の奴らを討伐とかしねえよ。反抗すれば、大義名分ができるけどな」


 その時は戦になるし、そうなったら容赦しない。

 正しくはあるのだが、光輝と今日子には長可が新たな戦に心躍らせているようにしか見えなかった。


「というわけでして……」


「頼むよ、成利殿」


「はい」


 ニューギニアには、多くの現住民族が存在する。

 長可が根切りにしないよう、成利が上手く交渉する必要があるというわけだ。


「これから会えるかどうかわからないけど、またの再会を。俺は大領主になるぜ」


「申し訳ありません。兄の事もありますが、私はやはり織田信長の側近衆なのです」


「そうか、なら仕方がないな」


 光輝は、成利の言い分に納得した。


「成利殿、お元気で」


「今日子様もお元気で」


 森長可、成利、忠政兄弟は、津田水軍が編成した大移民艦隊でニューギニア島へと旅立っていく。

 それからの森兄弟の活躍は、多くの歴史ファンを楽しませるものとなった。

 長可と、実は彼と同じくらい『いい性格』をしていた忠政は、攻撃的な原住民族相手に無類の強さを発揮し、華麗に勝利したあとは外地森家の知恵袋である成利が上手く交渉して領地を広げていく。

 外地森家は、後に『扶桑島』と名付けられたニューギニアにおいて最も有名な一族としてその名を歴史に刻むのであった。






「清興殿、まだ小浜城は落ちぬのですか?」


「頑強に粘っていますな」


「早く若狭の完全掌握を行いたいものです。前田家も総攻めに参加しましょうか?」


「いえ、大御所様がこの数で十分だと仰っておりますから。越前と丹後の把握に努めた方がよろしいでしょう」


「手伝わないと悪いような気がしまして……」


「利家殿が、そこまでお気になされる事ではありませんよ」


 話を少し戻し、ここは若狭。

 石山城に逃げ込めなかった敗残者達は、小浜城で絶望的な籠城を続けていた。

 その面々は、織田信重とわずかな一族と供廻りに、幽斎と細川一族だけだ。

 それも全員でない。


 信重の正妻である幽斎の娘は石山城にいたので滝川軍によって保護され、幽斎の次男で忠興と不仲であった興元が剃髪して降伏したのでその身柄も預かった。

 幽斎と共に小浜城に逃げ込まなかった家臣やその家族も保護している。


 興元は頭を丸めて光輝に拝謁したが、すぐに許されて津田家に仕官している。


『大御所様は、父や兄と不仲であったと聞きましたが……』


 すぐに許されたので不思議に思った興元は、光輝に恐る恐る聞いてみた。


『俺と幽斎は仲が悪いし、忠興は一方的に俺を嫌っていたな。だが、興元とは不仲でも何でもない。別の細川家として、津田家のために働いてくれる事を期待するぞ』


『ははっ!』


 興元は安堵しつつ光輝に感謝したが、やはり細川の姓では色々とやり辛い面もあり、すぐ長岡に改名している。

 他にも、幽斎が織田幕府内に名家派閥を作りあげた時に暗躍した足利義昭も、本人は小浜城に逃げ込んでいたが、彼の嫡男義尋とその弟義喬、義在は光輝に降った。

 彼らは津田家に仕官し、朝廷との連絡役としてそれなりの地位を与えられて牙を折られた。


「興元め! 裏切りおって!」


「我が子達が、揃いも揃って父である余を心配せぬとは!」


 小浜城の中で、幽斎と義昭が子供達の顛末を聞いて激怒した。

 とばっちりを嫌って二人には誰も近づかず、二人は時間があれば光輝へ呪詛の言葉を吐く時間が増えた。


 全国への始末と、経費削減のために小浜城を包囲する軍勢の数は三万にまで減った。

 だが、その指揮官は島清興であり、小浜城に籠城している人員も二百名を切っている。


 許された興元と義尋達の元に逃げ込む者があとを絶たなかったのだ。

 そして、津田家はそれを邪魔しなかった。


「なあ、今から降れば俺は織田信長の息子だ。一国くらいは領地を与えられないかな?」


 小浜城は、包囲している清興がよく『蟲毒の巣』だと評していた。

 幽斎と義昭がいるからだが、もう一人大バカ者扱いで織田信雄もいたからだ。


 既にわずかな近習以外に何もかも失った信雄である。

 領地は島津家などに戻り、日向にいた家族は信房預かりとなった。

 家臣達も、他の大名家に仕官したり、海外への移民準備に入ったりしており、今から信雄が大名に復帰できるはずもない。


 それなのに、まだそんな事を口にする信雄をみんなバカ扱いしていた。


「こんな城、一気に総攻めで落としたいのだが……」


 清興は、大砲の連射で瓦礫にしてしまった方がよほど時間と経費の節約になると思っていたのだが、それはある理由からできなかった。


「また説得に失敗したでおじゃる」


「関白様、本当に幽斎を口説き落せるのですか?」


 細川幽斎が古今伝授の伝承者という事もあって、光輝は後陽成天皇から助命を懇願されていた。

 そのため、関白近衛前久が毎日小浜城へ行って幽斎を説得していたのだ。


「麿は貴族で武家の事は詳しくないでおじゃるが、寛大な条件だとは思うのじゃ。幽斎殿は何が不満なのでおじゃるか?」


 勿論、前久が武家に詳しくないなど大きな嘘であった。

 彼は朝廷の権威を復活させるため、全国をまわって諸大名から献金を集めたり、上洛を促すため停戦交渉などに従事している。

 そのネゴシエーターぶりは、武家でも知らない者がいなかったほどだ。

 朝廷外の事をよく知らないフリも、語尾にわざとらしく『おじゃる』とつけるのも、彼による芝居であった。


「ご子息の件もありますからな」


 子息忠興の討ち死には不幸であったが、これも武士の定め。

 細川家の血筋は興元が当主となるので残る以上、完全に出家して残りの人生を古今伝授に費やしてほしい。

 前久は光輝が思ったよりも簡単に甘い条件を出したので喜んで交渉に向かったが、幽斎は『津田光輝と自分、どちらかが死なねば決着はつかない!』と依怙地になり、説得を義昭に頼んでも『元征夷大将軍として、この城で討ち死にするまで!』と助けにもならない。


 挙句に、信雄から用事もないのに話しかけられ『織田宗家は信房が継いだとか。俺はそれを認めるので尾張をくれと信房に伝えてください』と言われて、『実はとんでもない難題を引き受けてしまったのでは?』と後悔し始めていた。

 もう少し、光輝が甘い条件を認めた背景を知っておくべきであったと。


「なるほど、清興殿の言うとおりに『蟲毒』でおじゃるな」


 この世の駄目な要素が沢山集まり、濃度を増しているのが今の小浜城のように前久も思えたからだ。


「面倒ですから、大砲で吹き飛ばしましょうよ」


 多少の罪悪感はあるが、面倒な仕事は終わる。

 清興としても、早くこんな退屈な包囲戦を終わらせたかった。

 別に彼だって暇ではないのだから当然だ。


「麿もその方がいいような気がするでおじゃるが、主上の勅命なので交渉を続けるしかないのでおじゃる」


「大御所様が、京に大規模な大学を作られるとか? 一旦失伝しても、そこで研究して復古させた方がいいような気がします」


「その意見も、主上には言ったでおじゃる」


 前久としても、幽斎に生き残る意志が薄いのでどうにもならないと思ってはいた。

 それでも、勅命は勅命だ。


 もう終わっている義昭や、バカな信雄など死んでも構わないが、幽斎だけは何とかしないといけない。


「幽斎に一国を与えて、懐柔するとかできぬでおじゃるか?」


「不可能ですな」


 幽斎の光輝嫌いは本物だ。

 下手に力を残して生かしておくと、暗殺でも計画されかねなかった。

 清興からすれば、とっとと殺してしまえばよかった人物なのだ。


「万が一にも大御所様が暗殺でもされたら、京の大学建設が中止になるかもしれませぬぞ」


「それは困るでおじゃる」

 

 現実問題として貴族に政治を任せるわけにはいかない以上、大学の設置は光輝からの利益供与であったからだ。

 後世に文化と学問を伝え、これからは新しい分野の学問の研究も進める。

 その担い手として、貴族は名誉と生活の糧を得られるというわけだ。


 下級貴族達は大学講師の職を切望しており、もしこの計画が流れたら前久が彼らに恨まれて最悪暗殺される可能性すらあった。


「実は少なくない下級貴族達から、一度古今伝授が失われても、自分達で研究して復古させるからと、うるさいのでおじゃる」


 それを大学で研究している間は、貴族は飯にありつける。

 大学の講師として、全国から集まる予定の生徒達からも尊敬を受けるというわけだ。

 確かにこの計画が流れたら、前久は八つ裂きでは済まない最期を迎えるかもしれない。


「津田殿は、優しそうに見えて怖いでおじゃる」


 前久は、光輝の貴族対策の巧みさに背筋が凍る気持ちであった。

 今までは織田信長の陰に隠れて勤王家の面しか見せていなかったが、権力を握ってから、その本性が出てきたのだと前久は感じる。


「そろそろ食料が尽きると思うので、条件を呑むかもしれませぬ」


「麿も、そうなってくれると嬉しいでおじゃる」


 小浜城は海に接した城であったが、細川水軍は津田水軍によって全滅させられており、海から補給を受ける事も逃げる事も不可能であった。

 食料なども、長期の籠城をするには厳しい量しかない。

 

 包囲が続いている間にも城から逃げ出して降伏する者があとを絶たず、既に二百名ほどしかいなかったが、それでもあと一週間くらいが限界であろうというのが清興の見立てであった。


「(何とかして、起死回生の策を……)」


 そんな中で、幽斎は考え込む時間が増えていた。

 いかにして津田光輝に一太刀浴びせるか。

 それを考えるようになったのだ。


 今さら、降伏などできない。

 近衛前久が助命のために条件をもってくるが、そんなものを受け入れるつもりはなかった。

 幽斎にも矜持というものがあるのだ。

 古今伝授の失伝など、今の幽斎にはどうでもいい事であった。

 ならば油断させるために一旦降ればいいとも考えたが、あの津田光輝が自分の謀みを見逃すはずがない。

 イライラばかりが募っていき思考の渦に呑まれかけた時、幽斎の前に一人の男が姿を見せる。

 自分と同じくすべてを失って籠城している織田信雄であった。


「信雄様、何かご用件でも?」


 幽斎は、信雄が嫌いだった。

 ただ信長の息子だという理由で甘やかされ、戦をやらせても駄目、与えられた領地の統治すらまともにできないで他人に尻拭いをしてもらうほど。

 今回の戦でも、羽柴秀吉に代わって九州探題の地位を望むという、自分の能力も考えない要求を出して幽斎を呆れさせた。


 津田家との戦いでは役に立たず、大半の家臣と兵に見捨てられて小浜城に籠城する羽目になった。

 幽斎からすれば、味方にすると足を引っ張る人物という評価しか持てなかった。


 挙句に、幽斎と交渉している近衛前久に声をかけ『今降伏すれば、一国の領主になれるのか?』と平気で問い質す始末だ。

 現実が見えていないというレベルを超えており、今では顔を見るのも嫌な人物であった。


「なあ、幽斎。やはり降伏しないか?」


「お好きになされればよろしい」


 幽斎は、城から逃げ出して降伏する者を追わなかった。

 どこか諦めていたし、下手に残して反乱でも起こされたら困る。

 人数が減った方が、食料が保つという現実的な理由もあった。


 逆に幽斎からすれば、信雄が一番最初に逃げ出さなかったのは誤算だったくらいだ。

 意外と豪勇であったという理由ではなく、いまだに一国の領主にしてくれれば降伏してやってもいいという、バカみたいな夢を抱いて残っているという呆れた理由ではあったが。


「いや、幽斎と義昭公と俺で一国という条件で交渉するんだ。ここで一旦凌いでおいてから、義昭公の力で諸将を味方につけて津田光輝打倒を果たせば……」


 まるで現実味のない、子供でも考えられそうな信雄の謀略。

 そしてそれを、会心の策であるかのように語る信雄。


 そんな光景を見て、幽斎の心の奥底にあった芯が折れてしまった。

 自分には、もうこんな奴しか傍にいないのだと気がついてしまったのだ。


「津田家を滅ぼしたら、その領地の三分の二を俺、残りを幽斎にやるよ。義昭公には何か名誉的なものを……」


 信雄の夢語りは続くが、彼は最後まで自分の夢を語れなかった。

 なぜから、幽斎が素早く刀を抜くと信雄を袈裟切りで斬り捨てたからだ。


「なっ……幽斎……」


 幽斎は、塚原卜伝に剣術を学んだ達人である。

 信雄は痛みすら感じずに、その生涯を終えた。


「こんな剣術、覚えても津田光輝に切りかかる事すらできぬか……」


 幽斎は刀についた血を拭うと、その足で義昭の元へと向かう。

 義昭は、抜身の刀を持ったままで部屋に入ってきた幽斎に心臓が止まるのではないかと思うくらい驚いた。


「幽斎、何事だ?」


「もう終わらせましょう」


「降るのか?」


「今さら何を仰る。我ら全員で津田軍に切りかかり、最後の意地を見せるのですよ」


「そうか……今までの忠勤を感謝するぞ」


 義昭は、幽斎に付き合うつもりなど少しもなかった。

 思えば、この幽斎が信長に自分の行動を逐一漏らしたから、碌に反撃もできずに足利幕府は終わりを遂げたのだ。


 今回力を貸したのも、信長という邪魔者が死んだので足利家の復権を目指しただけに過ぎない。

 それが津田光輝に負けてすべてを失ってしまったのだ。

 それでも、幸いにして息子達は津田家に仕官できている。


 ここは素直に負けを認めて降るべきだと、義昭はやっと決心していた。


「何を仰います。義昭公もですよ」


「ななっ! 余に戦など……」


 若い頃は僧侶をしていたせいで、義昭には碌に武芸の心得がない。

 幽斎と斬り込んでも無駄に死ぬだけだし、戦場に出た経験もないので怖くてそんな事は御免であった。


「お笑い種ですな、泉下の義輝公がお笑いでしょう」


 義昭の兄義輝は永禄の変で自ら刀を振るって、三好軍と戦った。

 幽斎はそれと比べて義昭を笑ったのだが、義昭に言わせればそんな状態にまで追い込まれた義輝こそが征夷大将軍の資格なしと思っている。


 総大将が自ら剣を振るう必要などないのだと。


「確かに、征夷大将軍自らが剣を振るうのはどうかと思いますな」


「当たり前であろうが」


「ですが、ここぞという時に剣も振るえない。戦に出た事もない征夷大将軍など、世間のお笑いの種でしょう。信長公は、ここぞという時には自ら先陣に立ちました。その差が、今の境遇の差かもしれませぬな」


 幽斎は、義昭を小バカにしたような表情で見る。


「言わせておけば! 余も付き合おうではないか!」


 幽斎に乗せられ、義昭も無謀な最後の斬り込みに参加する事となった。

 なぜ幽斎が義昭を乗せたのかというと、ただの嫌がらせである。

 このバカな将軍に従って十数年を無駄にしたために織田家で出世が遅れ、津田光輝に破れたのかもしれないという思いがここ数日離れなかった。


 だから、義昭が降伏して再び優雅な隠居生活を送ると思うと、腹が立って仕方がなかったのだ。

 つまり、幽斎が自分の命を犠牲にした巻き込み策とも言える。


「そなたらは、我らが討ち死にしたあとに降れ」


 最後の斬り込みに参加する者は三十名にも満たなかった。

 若い者は除外され、全員今さら再仕官などできないと考えている老臣ばかりだ。


「ただ腹を切るのも悔しいのでな。最後に意趣返しよ」


 そんな者が多い中で、一人だけ若者が参加している。

 将軍である織田信重であった。


「上様は降ればよろしいのに」


「それで死ぬまで寺か? そんな生活は嫌だ」


「わかりました」


 信重の同行に、幽斎は何も言わなかった。

 ようやく自分で何かを決められた彼に、内心少し感心したくらいであろう。


「最後の最後で、津田軍に目にものを見せてやる!」

 

 幽斎の掛け声の後、突如真夜中に小浜城の正門が開けられ、合計二十八名が刀を持ち、鉄砲を撃ちながら津田軍へと突撃を開始する。


「この人数で夜襲か?」


 まさかの夜襲で警備をしていた部隊が混乱し、銃撃を食らって五名の重軽傷者を出したが、彼らの戦果はそこまでであった。

 

「撃て!」


 すぐに体勢を整えた津田軍による射撃で二十八名全員が討ち死に、その中に幽斎、義昭、信重の遺体があると報告があがり、清興は顔を歪ませた。


「関白様、こればかりはどうしようもありませぬ」


 遺体の身元確認を終えた清興は、前久に幽斎の死を報告した。


「意地でも、津田殿に膝を屈したくなかったというわけでおじゃるか。主上には、麿が詳しく状況を説明しておくでおじゃる」


 幽斎の討ち死に後、小浜城は無血開城した。

 討ち死にした者達の遺体と、残された家族、降伏した者達は細川興元、足利義尋らに預けられ、信重の葬儀は織田宗家当主織田信房が喪主となって大々的に行われた。


 古今伝授の失伝については、前久の報告と、光輝が復活のための研究予算を増額する事で後陽成天皇は津田家に失敗なしと認めた。


 以後、京には津田家支援の元で大学が設立され、貴族は研究者や講師として糧を得る者が多くなっていく。

 時を経るに従い、京は文化研究と学術の都として大いに栄えた。

 

 江戸、函館、仙台、新潟、名古屋、下関、高知、博多、鹿児島など、国内のみならず、外地にも多数大学の支校ができて研究者や講師の移動が盛んになり、後世に高等教育の基礎となるのであった。

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