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第七十二話 破局

「お爺様、ご無理をなされては……」


「死なぬ程度には無理をせねば、我が北条家は滅んでしまうからな。まったく、このくたばり損ないに出番を回しおって……」


 津田家によりすべての領地を奪われ、多くの一族を殺された北条家は、上杉景虎による関東蜂起によって更に一族と力を失い、畿内へと流れて行った。

 同行する家臣も少なく、彼らは一族の纏め役兼長老である幻庵のツテで畿内に居を構えていた。


 得意である和歌の教授、目利きを生かした茶道具の転売、得意である鞍鐙と尺八の作成、庭園の設計。

 教養人というだけでなく多芸な幻庵は、女子ばかりになってしまった一族の大黒柱として忙しく働いている。


 幸いというか、織田家により治安が安定化した畿内では幻庵に多くの仕事が舞い込んだ。

 武士にも教養が必要だと、織田家臣が子供の家庭教師役に幻庵を指名するケースが多かったからだ。


 実は、関東を離れる時に津田家からかなりの額の餞別も貰っており、領地はないが生活はそう悪くなかった。

 幻庵が養育した一族の男子達も、徐々に織田幕府に仕官を果たしている。


 織田幕府が中央集権的な統治体制を確立するのに、関東において優れた統治体制を築いていた北条家の知識と経験は有用であったからだ。


 幻庵にも仕官の話がきていたが、これは幻庵自身が高齢なために断っている。


 このまま時が経てば、いつか北条家は織田幕府において大身となる事が可能かもしれない。

 これからの時代は、戦よりも政治や財政だ。

 そのように考えた幻庵には先見の明があったのかもしれない。



 ところが、将軍信忠の急死によって北条家を取り巻く環境が大きく変化した。

 まずは、生き残っていた北条氏政の子氏房が急に細川忠興と懇意になり、親友同士と呼んでも差し支えない状態だという報告を受けたのだ。

 他にも、氏房の弟直重、直定、氏政の弟氏規の子氏盛、同じく氏政の弟氏邦の子庄三郎も氏房と行動を共にするようになっている。


 彼らはみな、北条家が関東を失った時には子供であった者達だ。

 全員を幻庵が養育し、織田幕府に仕官させている。

 

「噂によると、北条家に武蔵一国を与えると……」


「何をバカな事を……」


 そんな事ができるはずがないと、幻庵は断言しながら吐き捨てた。

 北条家の者達の中には、自分達を関東から追いやった津田家を憎み、いつか関東を取り戻すのだと常々口にしている者もいた。


 特に若い世代に多かったが、幻庵は若い時分には仕方がないと放置している。

 いつか現実と折りあって、そのような無謀な夢を語らなくなるのが普通だと思っていたからだ。

 ところが、彼らを細川忠興が煽っているというのだから、これは危機感を感じずにはいられなかった。


「それで、何をやらされているのだ?」


「旧北条家臣とのやり取りのようです」


「バカ者どもが、利用されおって……」


 信忠死後、細川忠興とその背後にいる幽斎が津田家の領地を狙い始めたのだと、幻庵は気がついた。

 津田家に仕官した旧北条家臣達に連絡を取らせ、情報収集や調略も行わせているのであろう。

 いつもは守りが固い旧北条家家臣達も、旧主一族が頼めば津田家の機密を流してくれたり、裏切ってくれたりするのではないかという期待があるのかもしれない。


 だが、その認識が甘いのだと幻庵は思っていた。


「中には、今の自分の待遇が恵まれていないと思って氏房達に協力する者もいるかもしれないな」


 どのような大名家にも、そのような不埒な輩は存在する。

 幻庵も、若い時分はその手の輩を始末した事もあった。


 だが、逆に津田家にそれを報告してしまう者、そこまで行かなくても手を貸さない者の方が圧倒的に多いはずだ。 

 彼らは既に二十年近くも津田家の家臣であり、世代交代をしてしまった家も多い。

 むしろ、北条家に手を貸す者の方が圧倒的に少ないであろう。


「それに、風魔小太郎がいる」


 北条家の中枢で、風魔小太郎と彼が率いる忍達を使ってきた幻庵にはわかる。

 あの小太郎が、そのような情報漏えいを許すはずがないと。

 もし彼とその配下達を氏房達が引き抜こうと考えているのであれば、それは大きな間違いであった。


 代々の北条家当主達は、風魔一族を積極的に用いてきた。

 では彼らの待遇はといえば、汚い仕事をする連中として農民以下の扱いから一歩も抜け出せなかった。

 幻庵も、彼らの待遇改善など思いもよらなかった。


 ところが、津田家は風魔小太郎とその配下達を優遇した。 

 小太郎には重臣の、配下達にも家臣の席を準備、伊賀衆と合わせて巨大な諜報組織を作らせ、今では外地にもその活動範囲を伸ばしている。

 

 津田家は情報を何よりも重視し、それを集めてくる小太郎達を優遇しているのだ。

 そのような状況では、氏房達が声をかけても無駄であろう。


 そしてもう一つ、幻庵は細川幽斎が嫌らしい手を使うと感じた点があった。

 幽斎は、この件が津田光輝に漏れても構わないと思ってるのだ。

 むしろ氏房達を利用して、津田家の諜報組織に過度の負担を強いさせつつ、既に織田家の間諜組織も動かしている可能性があった。


 現在水面下では、風魔・伊賀連合対甲賀という戦いが繰り広げられているわけだ。


「氏隆、動くなよ。ただ石山で無難に働く体を見せておけ」


 幻庵は長男時長を病で失い、次男綱重、三男長順は津田家との戦で討ち死にしていた。

 唯一残った男子は綱重の子である孫氏隆のみであり、だからこそ大切な孫を失うわけにはいかなかったのだ。


「お爺様は、織田幕府が津田家に負けるとでも?」


「少なくとも勝ちはない」


 津田家に一方的に破れてしまった幻庵であったが、それだけはすぐに理解した。

 彼らとその軍勢は、ただ異形で強いのだと。

 自分達には真似をするのが難しく、いつもの敵だと思って戦ったら破れてしまった。

 武田家も強かったが、それでも何とか互角に戦う事はできた。

 ところが、津田家相手にはそれすらできなかったのだから。


 運よく囚われの身となった幻庵は、ただ動かずに生き残った一族を纏めるので精一杯であった。


「お前は動くな。細川一族とも距離を置け。氏房達が上手く行ったら、ワシはみんなの面倒を見てきたのだ」

 

 その線で、氏房が当主となる北条家でも一定の地位を保てる。

 もし津田家が勝って氏房達が処分される事になっても、自分と氏隆は生き残れる。

 既に百歳近い幻庵であったが、彼の頭脳はまったく衰えていなかった。

 戦国武将として、生き残るために妙手を打ったのだから。


「家を分けるですか」


「まあ、そういう事だ。津田家へも少し恩を売るか」


「それでしたら……」


「ワシが勝手にやっている形にする。お前は手を出すな」


「もし幽斎達が勝利した時、あくまでもお爺様が勝手にやっていた事という形にするためですか?」


「ワシは、織田幕府に仕官しておらぬからな」


 ならば、津田家にも恩を売るには好都合と、幻庵は自分のツテで仕入れた情報を津田家に流すようになるのであった。







「やはり予想どおりだな」


「みっちゃん、名門ってそんなにありがたいのかな?」


「条件によると思うな」


 新将軍織田信重が婚姻し、その妻の実父である細川幽斎は外戚として大きな権力を手にした。

 織田幕府は、二代目にして外戚の専横でその力を失ったのだ。


「大友義乗を豊後にねぇ……」


 元々、祖父大友宗麟が奴隷売買を黙認どころか、手を貸していたから信長に改易されたのに、ただ名門大友家の当主だからという理由で義乗に所領が与えられるという。

 まずは数万石程度らしいが、最終的には豊後一国すべてを大友家に任せる予定らしい。

 当然、豊後に所領を持っていた者達はビリヤードの玉のように移封させられる予定だ。

 正直、とばっちりで移封させられる前領主達が可哀想だし、幽斎による情実人事にしか見えない。


「南近江に六角定治、播磨に別所吉治、小寺氏職、赤松則房って、滝川一忠殿はどうなるの? みっちゃん」


「備後に移封だそうだ」


 明らかに減封なので一忠が苦情を言うと、『父一益は武功があったが、お前にはない! 一国の領主で残れるのだから文句を言うな!』と筆頭大老である勝家に叱責されてしまったそうだ。


 しかもこの移封話、同じく備後に所領を持ってる森成利にも影響がある。

 せっかく今の領地に移ったばかりの彼も、どこかに移封されてしまう事が決まってしまったからだ。


 そして彼らが苦情を言うと、勝家がそれを押しとどめてしまう。

 幽斎はおだてやすい勝家を利用して、これらの領地割りを強行しようとしていた。


『勝家は、織田幕府の守護神であるな』


『上様、お任せあれ』


 将軍信重は細川親子に言われたとおり、勝家を織田家四代に仕える忠臣にしてご意見番だと褒めちぎった。

 実は勝家も幽斎が好きではないが、織田家への忠誠心には溢れている。

 信重に褒められると、喜んで嫌われ役を引き受けてしまう。

 理不尽な移封を命じられた同僚を押さえつける仕事は彼の役目であり、次第に同僚達からも嫌われつつあった。

 それでも勝家は、織田家臣で最大の閥を持つ人物だ。

 細川親子は、いつ死んでもおかしくない柴田勝家の派閥にはあまり手を出していない。

 他の目障りな他の派閥の家臣達の処置を終えてからでいいと思っているからだ。


「これは、とばっちりが来るな」


 ほんのわずかな時間で、細川幽斎はその野心を露わにした。

 まだ若い将軍の外戚として、自分に都合がいいように幕府を作り変えようとしているのだ。

 名門の領地を復活させようとしているのは、彼らに恩を売って自身の派閥を形成するためなのは明白であった。


「北条幻庵殿、北畠不智斎殿からも手紙が来ているね」


 津田家も、幽斎と同じかそれ以上の情報網を畿内に持っている。

 その中でつき合いはあった北条幻庵が、最近定期的に文を送ってくるようになったので、それに対する返礼はしていた。

 

 北畠不智斎とは、前の伊勢国司であった北畠具教の事である。

 公家となった彼は、禁裏を護衛する者達へ剣術指南をしながら、市井でも剣術道場も開いていた。

 今も津田家とは手紙のやり取りや、季節の贈り物の交換、具教の弟子に対する仕官紹介などで付き合いがある。


 その他にも、津田家は公家達ともつき合いが多い。

 畿内の不穏な情勢が、次々と光輝達にもたらされているのだ。


「『孫の昌教が細川忠興にそそのかされ、伊勢に復活できると無邪気に喜んでいる。嘆かわしい限りだ』か……」


 具教の孫昌教が勝手に幕府に仕官してしまい、具教は孫娘に中院通勝の次男親顕を婿養子に取って、北畠家を継がせるしかないと嘆いていた。

 確かに、公家である北畠家の次期当主が勝手に幕府に仕官してしまうと問題だからだ。


 しかも昌教にその事実を伝えると、『自分は伊勢で一家を立ち上げるから何も問題はない』と開き直られてしまったそうだ。

 家臣や旧臣の子弟にも唆され、すっかり調子に乗っているので縁を切ったと具教の手紙には書かれている。


 他にも、千葉家、多賀谷家、小山家、蘆名家、真壁家、結城家、相馬家、岩城家、南部家、津軽家、九戸家、葛西家、大崎家の者達も集まっていると、具教からの手紙には書いてあった。


「幽斎が何を考えてるのか、容易に想像がつくな」


 津田領の分割と、それを主導して細川家が大きな力を握るためであろう。

 

「多賀谷家、結城家、真壁家はうちに仕官していたよな? 他にも一族が仕官している家が多かったような……」


 傍流や分家が多かったが、そもそも本家の血筋は討ち死にしたケースが多かったから仕方がない。

 それよりも、今畿内で細川家に尻尾を振っている連中はどこから沸いて出たのだという疑問があった。


「義重に聞いてみたら、歴史の長い名門には御落胤の話なんていくらでもあるんだと。本当かどうかは怪しいところらしい」


 正式に織田幕府に仕官して領地をもらっている名門は、血筋が確かであった。

 だが、細川親子が密かに集めている者達は、津田領を解体してから使う予定の者達で、血筋が怪しいのを知っている幽斎の方が立場が上という関係なのだ。


 津田領を解体してから織田幕府が……正式には幽斎が正式な血筋だと認めて領地も与える。

 これで、ますます幽斎の派閥が増えていく仕組みであった。


「有能そうな人はいるのかな?」


「いや、いらないんだろう」


 名門の一族はそれなりの教育は受けているから、極端に駄目なのを除けば言われた事くらいは無難にこなせる。

 派閥のボスとなる幽斎からすれば、そのくらいの連中の方が使い勝手がいいのであろう。

 あまり有能な者を入れると、その派閥が有能な者に乗っ取られる危険性もあるからだ。


 幽斎は、大企業の経営者と同じ考え方をしていた。

 幕府の力を利用できる以上、不利な状況を打開できるほど有能な人物はいなくてもいいというわけだ。


「最悪、幕府命令で織田家の家臣は動かせる。面倒事はそういう者達に任せて使い潰すという手を使うだろうな」


 津田家と、織田幕府創設の功臣達が潰し合う。

 細川親子からすれば、とても好都合というわけだ。


「今日子は、どう思う?」


「思っていたよりも、幽斎殿の動きが早いわね」


 今日子は、将軍信重の外戚となった幽斎が津田家に手を出してくると予想はしていたが、その動きが早すぎると思っていた。


「年齢の問題があるからだろう」


 人生五十年の時代なので、幽斎は自分が死ぬまでに津田家を潰しておきたいと願っているのであろうと光輝は予想した。

 自分達がいなくなれば、忠興でも天下は治まると思ってるのかもしれない。


「準備しておくしかないか……」


「風魔小太郎からも報告が入っているものね」


 畿内にいる北条一族と、津田家に仕える旧北条系家臣達との接触。

 大半の者が無視しているが、一部に情報漏えいと、内応の可能性ありとの報告があった。

 他にも、最近津田領に入り込もうとする幕府方の間諜と争いが酷くなっている。

 津田領内は一見平穏だが、風魔小太郎率いる諜報部隊に平和な時などない。

 織田幕府や他の織田家家臣が送り込む間諜と、常に激しい戦いを繰り広げていたのだ。

 

「大殿は、ある程度察してくれたから楽だったのに……」


 信長は津田家の間諜と争うと損害ばかりだと、あまり無理をさせていなかった。

 信忠もこの路線を継承していたが、それを破ったのは信重の代になってからである。

 おかげで、両家の諜報部門は極端な過重労働状態が続いていた。


「これは駄目かもな……」


「そうだね、もう限界かも……」


 光輝と今日子は、織田幕府との手切れが近いのを確信した。


「お市も覚悟しておけ。もう駄目かもしれない」


 光輝は、将来津田家と織田家が争う可能性が高くなったとお市に話す。

 もし不満があるのなら、織田家に戻ってもいいと伝えた。


「承知いたしました。ですが、今となっては私は津田家の女ですので残らせていただきます。それに、織田家は残りますから……」


 聡いお市は、信重の傀儡ぶりに愛想をつかしていた。

 もし兄信長が健在なら、お市は津田家よりも織田家のために動いたであろう。

 甥信忠なら、どちらを選ぶか迷ったかもしれない。

 だが、信重ならば確実に夫と津田家を選ぶと。


「あなたは、兄信長にも、甥の信忠にも、妻である私にも誠実な男性でした。私はあなたに嫁げて満足しています。兄がいなくなった以上は、もし理不尽な扱いを受けるのであれば、お覚悟を決めてもいいと思います」


「そうか、おかげで肩の荷が降りたよ。婿殿は、こちらに味方してくれるかな?」


「信房殿は、あなたを尊敬していますから」


「そういう男じゃないんだけどな」


 光輝の予想どおりに、続けて理不尽な移封命令が続く。

 駿河の松永忠久を飛騨に移封、その跡には今川氏真が、そして光輝に甲斐、信濃の没収が告げられた。

 そこに、武田盛信、武田信貞、武田信清の三兄弟を入れて安定化させるのだそうだ。


「代替地はなしですか?」


「中納言、そなたは領地が多いのだ。我慢せい」


 まるで腹話術の人形のように言う新将軍織田信重に、光輝は愛想を尽かした。

 信長のような果断も、信忠のような偉大な父を持ってしまった苦労も、この目の前の信重には欠片も感じられない。

 ただ細川親子の言うとおりにやっていれば楽なので、そうしている風にしか見えなかったのだ。


「(その幼さで将軍になってしまった点は同情します。ですが……)代替地はなしですか……」


「そなたは領地が多いのだ。あまりケチ臭い事を言うな」


「はあ……」


 まだ若いので可哀想だという意見もあるが、それでも将軍は将軍だ。

 光輝は、目の前の少年を自分の敵だと断定した。

 細川親子に関しては、もう言うまでもなかった。


「両国の受け渡しの準備を、信輝殿に命じておけよ」


 信重の横で、幽斎がニヤニヤと笑っていた。

 いくら津田家でも織田幕府に逆らっては討伐されるだけ、このまま徐々に領地を削ってやると顔に書いてあったのだ。


「それとこれからは、津田殿は奥方と共に常に石山に滞在するように」


 幽斎は、領地の引継ぎは信輝に任せ、光輝と今日子は石山から離れないようにと命じた。

 本当は幽斎にそんな権限はないのだが、それに異議を唱える者はいない。

 すぐに信重がオウムのように同じ命令を下すから……いや、みなが幽斎の怒りを買うのを怖れているのだ。

 今日はこの場に柴田勝家もおらず、余計に幽斎が威張り腐っていた。


「(我が世の春か? よかったな、幽斎)」


 光輝が呆れていると、彼の隣にいる松永忠久が能面のような表情を浮かべている。

 幽斎への怒りを押さえようと懸命なのであろう。

 今のところは領地の移動がない、徳川信康と上杉景勝は露骨に幽斎をにらみつけていた。


「わかったのか? 津田殿」


「ははっ!」


 仕方なしに頭を下げたが、既に光輝の覚悟は決まっていた。

 特に表情を変えるでもなく、信重と幽斎がいる評定の間から立ち去る。

 

「幽斎、このような命令を津田光輝に出して大丈夫か?」


 光輝が立ち去った後、領地の没収命令を出した信重は内心焦っていた。

 もし津田家が強く逆らってきたらどうしようかと思っていたからだ。

 彼は、動揺しながら幽斎に意見を問う。

 若い信重は、わからない事があると何でも幽斎に聞く癖ができてしまった。

 将軍としては、致命的な欠陥だ。


「織田幕府の力があれば、いくら津田家とて逆らえません。それに上様、津田家は所詮は家臣にすぎません。上様が遠慮なさる必要はないのです」


「それはわかるが……」


 だが、もし津田家が本当に怒って反乱でも起こしたらと、信重は不安そうな顔をする。


「その時には、全国から数多の大名と大軍が集まって津田家など簡単に粉砕するでしょう。御心配めされますな」


「最近、移封話に不満を感じている者もいると聞くぞ」


「ですが、それは織田幕府の安定のためです。いいですか、上様。総見院(信長)様と大雲院(信忠)様は、天下統一と幕府成立のために家臣達に力を借りました。ですが、上様は生まれながらにして将軍なのです。遠慮などしては、かえって彼らを増長させてしまいます。ここは、堂々と臣下に命じればいいのです」


「なるほど、確かにそうだな」


 幽斎の言い分に信重は納得し、津田家への後ろめたさや恐怖感が消えた。

 彼と忠興がいれば、津田家が逆らっても幕府は安泰だと思ったからだ。


「津田家の力は大きすぎます。このように徐々に領地を削っていき、最終的に毒にも薬にもならない存在にしてしまえばいいのです。そうすれば、幕府の力は増し、上様は偉大な将軍として歴史に名を残すでしょう」


「そうだな、幽斎と忠興の力があれば」


「お任せあれ」


 娘婿だし、軽い神輿のままでいてくれたらお飾りで置いておいてやる。

 幽斎の脳裏には、将来織田幕府を事実上乗っ取った自分と忠興の姿が浮かび、信重に頭を下げながら、してやったりという笑顔を浮かべるのであった。






「さあてと、信輝に準備させるかな」


「そうだね、とっとと逃げ出さないと」


 光輝と今日子が屋敷に戻ると、早速屋敷の奥にある秘密の無線室へと向かう。

 普段はなるべく使わないようにしていたが、もう隠す必要もない。

 幽斎が自分達を人質にしようとしているとなると、今はスピードが命だ。

 光輝は、素早く江戸にいる信輝に連絡を取った。


『信輝、緊急事態だ』


『父上?』


 通信機を入れると、すぐに江戸の信輝に繋がった。


『津田家はこれより反逆者となる。万事準備を整えろ』


『わかりました』


 光輝の出来る息子信輝は、それだけですべてを悟った。


『ですが、早すぎませんか?』


『反乱するなら早い方がいいさ』


 一度でも幕府の領地返納命令を受け、何度目かで我慢できずに反乱したという風にしてしまうと、津田家の力が弱まったというイメージを世間に与えかねない。

 どうせ反乱するのなら、最初から逆らった方が外部の賛同者を得やすいからだと光輝は説明する。


『信濃と甲斐はまださほど戦力にはなりませんが、幕府に譲る津田家という印象はよくないですか……わかりました、急ぎ準備を進めます』


『頼むぞ』


 手短に話を終えると、光輝と今日子は急ぎ石山から退去する準備を始める。

 ここでしくじって、織田幕府に捕えられては意味がないからだ。

 同時に宣戦布告をかましておくかと、光輝の中に意地悪な考えが浮かんだ。


「小太郎はいるか?」


「ははっ!」

 

 光輝が呼ぶと、常に傍に控えている風魔小太郎が姿を見せる。

 彼も息子に諜報部門のトップを譲って引退していたが、まだ十分に働けるからと、光輝付きになっていたのだ。


「派手に逃げ出すぞ。準備をしておけ」


「畏まりました」


 小太郎が手配した者達により、突然夜中に石山の各所に織田幕府の機能停止を告発する立札が立った。

 津田家は、織田幕府による信濃と甲斐没収命令を不服としてこれと手を切り、宣戦布告をする。

 今の織田幕府は、幼い将軍信重が細川親子の言いなりとなっており、事実上細川幕府なので従えないと。

 

 風魔小太郎の手の者達はこれだけでなく、幽斎の命令で光輝達を監視していた間諜と警備兵を全員始末し、脱出をスムーズにするため石山各地にある兵士の駐屯所に火をつけた。


 火災はすぐに消し止められたが、消火作業で彼らは幽斎からの津田光輝捕縛命令に対応できなかった。


「幽斎の奴、いきなり露骨な手を使うなぁ……」


「古今東西は、そこまで甘くないだろう。俺達を人質にして、確実に信輝に領地を返還させる予定だったのさ」


「どのみち、手切れだったんだね……」


「信重の若造は、幽斎の言いなりだな。あれなら増長して当たり前か……」


「嘆かわしい事です」


 お市からすると、時に上に立つ人間が非情な策を取るのはおかしな事ではない。

 だが、それを自分がちゃんと把握していないと駄目だ。

 信重は領地没収命令を出しておきながら、それを確実に行わせるための津田光輝捕縛を幽斎が行おうとしていた事に気がついてもいない。

 彼への石山残留命令の意図をまるで理解していないのだ。

 そんな傀儡ぶりでは、もし信長が生きていたら呆れるばかりであろう。

 お市も、そんな将軍は駄目だと思ったのだ。


「旦那様、信重は将軍の器にあらずです」


「残念な事だな」


「兄上が生きていたら、やはり残念がったでしょうね」


 風魔小太郎による案内で、光輝一行は無事に石山の港に停泊している津田水軍の船に駆け込む事に成功した。

 出航準備を急がせていると、そこに他の乗船希望者達が姿を見せる。

 

「津田殿、我らも同行します」


「忠久殿はともかく、信康殿もか?」


 忠久は飛騨への移封を不服として、信康も明日は我が身と石山退去を決意したようだ。

 しかも、家族と家臣が全員揃っている。

 二人は光輝と幽斎のやり取りを見て、こうなる事を予想して早めに準備をしていた。


「さすがに、飛騨への引っ越しは承服しかねます」


「やはり、石山の雰囲気に慣れませんので……」


 二人も、織田幕府への反逆を決意した。


「おーーーい! 我らも連れて行ってくだされ」


 上杉景勝を筆頭に、石山に滞在していた樋口兼続と、他の家臣やその家族達も船に乗せて欲しいと姿を見せる。

 彼らも、津田家への理不尽な領地返納命令と、石山の町の不穏な空気に気がついて領地への脱出を図ったというわけだ。


「東国は、ほぼ反乱勢力か」


「津田様、ご隠居様よりの伝言です」


「伝言?」


 突然、樋口兼続が謙信から伝言があると光輝に声をかける。

 事前に彼から何かを聞いていたようだ。


「前から、こういう事になったら伝えておけと言われていたのです。『ようやく決心したか。手を貸してやるから、加賀一国を寄越せ』だそうです」


 謙信からの伝言をそのまま伝える兼続。

 その言い分に、光輝は思わず笑ってしまう。


「敗北して、すべてを失うかもしれないのに」


「ご隠居は、それはないと仰っておりました」


「越後の龍の保証か。じゃあ、勝ちに行くか」


 火災の混乱に乗じて、津田家、松永家、徳川家、上杉家の石山からの撤収は成功した。

 十隻もの大型船船団に分乗し、急ぎ江戸方面へと向かう。


「現地残留の間諜以外は全員脱出に成功」


「ご苦労」


 最後に船に乗り込んだ小太郎から報告を受けた直後、見張りの船員が大声をあげる。


「織田水軍だぞ!」


 それは、石山港にいた五隻ほどの船団であった。

 どうやら予想よりも早く、幽斎の命令で出撃……いや、待機していたのであろう。

 船団は鉄張りの大安宅舟で編成され、指揮官は確か九鬼主殿助のはずだ。

 主殿助は、織田水軍を仕切る九鬼嘉隆の四男である。


「どうしますか?」


「下手に戦うと、援軍が来る可能性があるな。逃走しながら、砲撃でもかましてやれ」


 光輝の命令で、留まっての戦闘は避ける方針となった。

 快速で知られる津田水軍は徐々に織田水軍の船を引き離していくが、時おり搭載している大筒を撃って九鬼水軍を牽制する。


「撃てる大筒のみで反撃せよ!」


 船団後方の船から織田水軍のものよりも高性能な大筒で砲撃が行われ、暫くすると数発が着弾して一隻の敵船が沈んでいく。


「一隻撃沈!」


「案外呆気ないものだな」


「大殿、そこは我らの弛まぬ訓練の成果というわけです」


 光輝の傍にいた砲撃指揮官が、このくらいは当たり前ですと答えた。


「ただ、逃げながらですとこれが限界ですかね?」


 他にも、二隻が被弾して速度を落とした。


「味方艦隊の援軍です!」


 それを狙ってかは知らないが、突然織田水軍の横合いから三隻で編成された新型蒸気船の艦隊が襲いかかる。

 彼らは偶然、石山近海にいたようだ。

 脱出する味方艦隊の援護のため、織田水軍に襲い掛かる。


「津田水軍の新造船だ!」


「何という大砲の装備数だ!」


 既に一隻を失っている九鬼主殿助は、敵船から見える大砲の数に絶句した。

 他にも、大きさも、速度も、防御力も勝てる要素がひとつもない。

 すべてが上の津田援軍艦隊から攻撃を受け、織田水軍は一隻残らず沈められてしまう。

 

 海に投げ出された敵船員が救い出されて捕虜になったが、その中に九鬼主殿助の姿はなかった。


「主殿助様は、砲撃の直撃でバラバラになりました」


 救出された捕虜の証言で、九鬼主殿助の討ち死にが確認される。


「これは、叔父御と義絶になるかもしれないな……」


 蒸気船団を率いていた九鬼澄隆は従弟を殺してしまったので一瞬気を落としたが、すぐに気を取り直して船団を組み直し、急ぎ江戸へと帰還するのであった。

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