第七十一.五話 今日子、とある夫婦の喧嘩を裁く
大友家の改易後、旧大友家臣団は人生の荒波に翻弄される事となる。
豊後には、すぐに信長の四男於次丸信勝が領主として入った。
旧大友家家臣の大半は彼に仕える事となるが、信勝も自分の家臣達を連れてきている。
支配力強化のために信勝側近の領地を増やす必要があり、そのせいで所領を削られたり、それに逆らって改易された旧大友家臣もいた。
それでも信勝が領主として豊後を治め続けていれば問題は少なかったのだが、彼が朝鮮の地で病をもらってしまい、病死してしまった事から余計に旧大友家臣達は翻弄される事となった。
豊後は織田家預かりとなり、旧大友家臣団は一応織田家直属となっている。
だが、次第に織田家と津田家が奴隷売買をおこなう宣教師やキリシタンへの処罰を厳しくすると、それに反発して豊後を出て行ってしまった者達がいた。
大友宗麟に重用された、キリシタンの家臣達である。
彼らの大半は日向の蒲生氏郷に仕えたが、蒲生騒動で多くが討たれている。
以上のような経緯で、織田政権内において旧大友家臣達の存在感は薄い。
一時は六国を治めた大友宗麟を支えた者も多く、当然優秀な者も多いのだが、とにかく目立たない。
それでも、旧大友家臣には有名人が存在した。
その人物は立花道雪こと戸次鑑連、大友義鑑・大友義鎮の二代に渡って仕えた宿老であり、自分が総大将となった戦では負けなし、九州では軍神とまで呼ばれていた人物であった。
若い頃に雷に打たれて半身不随となった彼は、家臣に手輿を担がせて自らは輿に座り太刀を振るって奮闘し、軍神としての名声を高めた。
大友家に忠実ながらも必要とあらば主君への讒言も厭わず、大友家が改易されてからも道雪は、旧大友家臣団の象徴のような人物であったのだ。
ただ、その彼も天正十三年には病で亡くなってしまった。
彼の死により、旧大友家臣団は心の支えを失って崩壊していく事となる。
「旧大友家臣団の結束とはいっても、大友家が復活するわけがない。織田家、羽柴家、蒲生家、他にも主君を変えてしまった者が多い。義父道雪が生きていた事で、みんなが勝手に義父を心の拠り所にしていただけだ」
道雪には男子が生まれなかった。
そこで、同じ大友家家臣であった高橋鎮種……今は紹運を名乗っているが……から一人娘誾千代の婿として、その子宗茂を養子にしている。
その宗茂も、大友家改易から人生を翻弄され続けていた。
一応織田家に籍はあるが、その所領は大幅に削られた。
宗茂は道雪がその力量を見込んで婿養子にした人物であったが、彼は運が悪かった。
義父道雪は天正六年に起こった耳川の戦い以降、没落を続ける大友家を支え、織田家への降伏を促して大友家に豊後一国を保たせる事に成功した。
その時に立花家の所領も大幅に削られてしまったが、他の家臣もみんなそうだったので仕方がない。
宗茂は、義父道雪に従って織田家の九州平定作戦で大活躍した。
信長が道雪を大称賛して直臣に迎えると言ったが、彼は大友家への忠節を理由にそれを断っている。
以後も道雪は大友家のために懸命に働き、朝鮮にも兵を出した。
だが、大友家は宣教師と組んでの奴隷売買の罪で処刑、改易、今度は織田信勝が主君となった。
信勝は道雪や宗茂に目をかけてくれたが、その彼も病死してしまった。
立花家は織田家の直臣になったが、その頃には道雪は病床にあり、病床の老人は抜擢できないと信長も立花家に興味を失ってしまう。
宗茂も義父道雪に負けない力量があったが、世間は偉大な道雪は評価してもその陰にいた宗茂を評価しなかった。
道雪があまりに偉大すぎたからだ。
ならば朝鮮の戦で活躍しようとしたが、運悪く最初は信勝の死で中断、今はなぜか出兵を命じられていない。
宗茂が考えた、戦場に出て活躍し、偉い人の目に留まるという策は発動すらしていなかった。
「我が立花家は、ぱっとせぬな。内にも問題はある」
宗茂は、家庭内でも悩みを抱えていた。
道雪の娘で、妻である誾千代との仲が悪く、今では碌に話しすらしない状態であったからだ。
誾千代は宗茂との別居を望んだが、今の減封により貧乏になった立花家にそんな贅沢は許されない。
仕方なしに同じ屋敷に住んではいるが、碌に会話すらない、これが未来ならば家庭内別居とでもいうべき状態だ。
立花家としては跡継ぎが生まれないと御家断絶なので、これは由々しき問題であった。
こういう場合は宗茂が側室を娶るのが普通だが、宗茂は娘婿である。
道雪の血を引く誾千代に妊娠の可能性がある以上は、他の女性が産んだ子供を跡継ぎにするわけにはいかない。
こうなってくると、道雪という存在が次第に重荷になりつつある宗茂であった。
「一体、なぜこうなってしまったのか……」
大した仕事もなく、貧乏で、妻とも折り合いが悪い。
まだ若いのに、宗茂は人生を悲観するようになっていた。
「誾千代、なぜここまで意固地なのか……」
宗茂と閨を共にするどころか、会話すら碌にないのだから。
今の彼女は、空いた時間に武芸の鍛錬に励むようになっていた。
道雪の娘という事もあり、昔から薙刀や弓、刀、鉄砲まで巧みに使える女性であったが、今はその腕前に拍車がかかっている状態なのだ。
他にする事がないという最大の理由があったが、宗茂としてはそれなら家事くらいはして、立花家を支えてほしいと思っていた。
今の立花家は、ない袖は振れないという状態だ。
使用人を減らすために、手伝いくらいはしても罰は当たらないと思うのだ。
宗茂がそれを誾千代に言うと、彼女の機嫌は極端に悪くなってしまう。
誾千代からすれば、今の立花家が貧しいのは不甲斐ない夫のせいだと思っているからだ。
それに、お嬢様育ちの彼女は家事などした事がない。
プライドも高いので、家事ができませんとは口が裂けても言えなかったのだ。
これでは、夫婦仲が悪くて当然だと周囲は思っていた。
それを誾千代に指摘する勇気のある者は一人もいなかった。
「こんな妻を持っているのは、俺くらいだろうな……」
「あのぅ、殿様。津田様の奥様は有名な武人だそうです」
傍にいた下人が、宗茂に津田今日子の存在を知らせる。
「そういえばそうだったな」
宗茂も、今日子の噂は聞いた事があった。
恐ろしく強く、軍勢の指揮も上手で、津田軍の育成ではむしろ旦那の光輝よりも功績が大きい。
津田家の家臣で今日子に挑むような無謀な者は、今はほとんどいなくなっていた。
たまに勘違いをした新参者が今日子に挑み、コテンパンにのされてしまうそうだ。
「だが、同時に津田今日子は多才だとも聞くぞ」
軍才のみならず、医者としても優秀で、料理、裁縫にも造詣が深く、外国の言葉もいくつか話せると聞いている。
子供も沢山産み、夫である光輝とも仲がいいと聞くので、宗茂は自分の妻とは大違いだと思っていた。
「はあ……誾千代に、津田今日子の爪の垢でも煎じて飲ませたい心境だな」
宗茂が漏らすように愚痴るが、やはり彼は運が悪かった。
たまたまそれを、誾千代が聞いてしまったのだから。
「ふんっ! そのような女に私が負けるわけがありません! 私を誰だと思っているのですか?」
誾千代は、父道雪の存在を誇りに思っていた。
そしてその娘である自分は、道雪のように強くなければいけないと思っている。
それなのに、男性ならともかく四十すぎの女性には決して負けないと思っていたのだ。
「あなたは、どう思っているのです?」
「比べるまでもない。津田今日子の方が上であろう」
宗茂は、迷う事なく誾千代よりも今日子の方が強いと断言した。
今までの宗茂なら、婿としての立場を実感して誾千代の方が強いとお世辞で言っていたであろうから、よほど彼女の態度に腹を立てていたのだ。
婿養子ゆえに、宗茂は誾千代に配慮してきた。
それでもこの有様なので、いい加減彼女に気を使うのに疲れてしまったのだ。
「彼女は従軍もして、兵を率いて戦った事もある。特に銃の腕前は凄いそうだ。医者としても優秀で多くの患者を治療しているとも聞く。独特で美味しい料理を作り、新しい服を考案、試作して販売までしている。夫とも仲良く、子供や孫にも囲まれ幸せそうではないか。お前が彼女に叶う部分など、年齢が若いくらいではないのか?」
ここまで言うつもりはなかったのだが、つい今までの鬱憤のせいで誾千代をボロカスに言ってしまった。
どうせ今までも無視されてきたので、ここで誾千代を怒らせても状況は悪化しないと、宗茂は誾千代に容赦しなかった。
「(言ってやった! ざまあみろ!)」
普段は温厚な宗茂であったが、さすがに誾千代の態度には腹を据えかねていたのだ。
入り婿だから遠慮して気を使っているのに、誾千代の方は道雪の娘だからと夫である自分に気を使おうとともしない。
この時代の女子にしては珍しいが、七歳の頃に父道雪から立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲られているので、自分は宗茂と同等どころか上の立場だと思っている節があり、宗茂はその不満を表に出さないようにしているが、誾千代はそれを見破って腹を立てている。
誰が見ても、この夫婦が上手くいくはずがないのは明白であった。
織田家の九州平定作戦で大友家が豊後一国に減封となった時、宗茂は当時まだ生きていた義父道雪と共に豊後国内に減移封され、大友家の改易によって再び所領を減らされてしまった。
宗茂のせいではないのだが、誾千代は宗茂を立花家を没落させた駄目な夫だと軽蔑していたのだ。
「……」
「反論はしないのか? 俺は嘘は言っていないぞ」
宗茂は、黙り込んでしまった誾千代を放置してその日は仕事に出かけてしまった。
左遷されたに等しい宗茂の仕事は少ない。
彼の能力ならばすぐに終わってしまい、早めの帰りの途中で実父である高橋紹運の元に寄っていた。
実家も高橋家も、大友氏の減封、没落を経て大幅に所領を減らして没落状態にあった。
今の豊後は織田家の直轄で、中央からきた将軍信忠譜代の家臣が重臣となって優遇されており、旧大友家臣は外様扱いされていたからだ。
目端の利くキリシタンの家臣は日向に行ってしまい、九州探題羽柴家に仕官してしまった者も多い。
宗茂と紹運は、どちらかというと負け組の旧大友家臣であった。
「誾千代に言ってやりましたよ」
宗茂は、父紹運に先ほどの夫婦喧嘩の内容を嬉しそうに話した。
あの普段は威張り腐って可愛くもない誾千代を、お前は津田今日子よりも下だと言ってやった。
別に嘘は言っていないのだから、自分に非はないのだと宗茂は強気だ。
「お前、もう少し夫婦仲良くできないのか?」
大友家のためならば、この身が戦場で朽ちても構わない。
忠義の士であった紹運であったが、大友家の情けない最期に完全に燃え尽きてしまった。
所領は大幅に減ったが、別に食べられないわけでもない。
妻とも仲がよく、養子に出した宗茂の他にも跡継ぎの統増と四人の娘が生まれていた。
天下は織田家に定まったし、朝鮮への出兵もないので日々平和である。
目下、紹運の最大の悩みは、宗茂と誾千代との仲の悪さであった。
「父上は、義父道雪様と親子にも等しい関係にあった間柄。ですが、私と誾千代が理想の夫婦になれる保証などないのです」
「しかしだな……」
「父上は私が立花家に養子に行く時、『道雪殿を実の父と思って慕うように』と言い、道雪様と自分が争うことになったならこの太刀で自分を討てと、太刀をくださいました」
「そんな事もあったな……」
紹運は当時の事を思い出す。
結局、紹運と道雪が争う事もなかった。
将来、立花家と高橋家が争う事もまずないであろう。
九州の中での争いを超越した織田家という存在が、九州から戦乱をなくしてしまったからだ。
その時代を惜しんで織田家に逆らう者もいたが、そういう連中は容赦なく滅ぼされている。
国人同士の小競り合いと、天下平定の戦いとの差が理解できなかったのだから、紹運は滅ぼされた連中に同情しなかった。
「たまに、あの太刀で誾千代を斬ったらどうかと思うのです」
「頼むから、それは止めてくれ」
戦乱の緊張感がなくなり、左遷された二つの武家は家族関係に悩むという、後世から見たら非常に情けない状態に陥っていた。
「おかえりなさいませ、お館様」
「うん? 誾千代はいないのか?」
宗茂が実家で愚痴をこぼしてから屋敷に戻ると、妻である誾千代の姿がなかった。
出迎えに来ない件は今さらだが、こんな時間にどこに行ったのかと少し気になってしまったのだ。
浮気なら、父から授かった太刀で斬り捨てられるという危ない考えを胸に抱いていたが。
「一人で出かけたのか?」
「そのようです」
「あの女……」
いくら所領が大幅に削られても、それなりの武家の女が一人で外に出かけるなよと、宗茂は思ってしまう。
「まったく、あの女は……」
「お殿様! 大変です!」
宗茂が誾千代を非難しようとした時、彼の元に下男が慌てて飛び込んできた。
彼が一通の書置きを持っており、それを慌てて宗茂に差し出す。
「なになに……『津田今日子なる女如き、私の実力ならば余裕で勝てるはず。それを証明してきます……』って! アホか! あの女は!」
織田政権のナンバー2の妻で、官位まで持っている女性に喧嘩を売りに行く自分の妻。
宗茂は、今初めて道雪に『娘の育て方を間違えましたね』と心の中で批判するのであった。
「津田様でいらっしゃいますか?」
「そうだけど」
思い立ったらすぐに行動する。
ある意味父道雪の血を引き継いだ誾千代は、一人船を使って江戸まで移動した。
江戸までは陸路であったが、誾千代は安全な旅を楽しんだ。
護衛用兼決闘で使う太刀は安全な津田領では必要なく、誾千代は津田家の統治の素晴らしさに驚きを隠せない。
九州ならば、賊に襲われる機会も少なくなかったからだ。
街道の途中で茶店に寄ってダンゴとお茶を楽しみ、江戸では美味しい食事を楽しんだ。
さてどうやって津田今日子に会おうかと悩む誾千代であったが、立花家は小者でも一応織田家の直臣である。
夫の名を利用して、津田光輝に火急の用事があると江戸城の受付で面会申請を試みた。
すると、その日はたまたま光輝が江戸にいて、しかも時間があるので誾千代と面会するという。
「立花家? 九州豊後の? 何の用事だろう?」
本来なら無視されても当たり前なのだが、九州からの客で小身でも織田家の直臣である。
何か重要な用事なのかもと、光輝は誾千代と面会した。
「立花宗茂の妻誾千代と申します」
嫌いな夫ではあるが、津田今日子と戦うためにはその名も利用しなければいけない。
誾千代は、夫の名前を口にした時の嫌悪感を心に仕舞う。
「実は、今日子様にお会いしたいのです」
「今日子に?」
立花宗茂と誾千代に関する知識がない光輝は、彼女が何の目的で今日子に会いたいのかがわからなかった。
「殿……」
「すまん」
その時、光輝の横に控えていた大谷吉継が、一枚の紙を渡す。
そこには、立花誾千代に関する情報が記載されていた。
津田家では、風魔小太郎率いる諜報組織が国内、国外共に多くの間諜を送り、様々な情報を集めていた。
当然豊後にいる旧大友家家臣の情報も集めてあり、紙には彼女が立花道雪の娘である事や、夫である宗茂の事も書かれていた。
「(婿養子である夫と不仲ねぇ……まあ、気が強そうだからなぁ……)」
情報によると、現在の誾千代は十八歳。
美少女だとは思うが、目つきが鋭いので光輝は苦手なタイプの女性であった。
体形はスレンダー、背は平均的であったが、津田家の人間に比べると小さいように感じてしまう。
「今日子が会うというのならいいと思うけど」
「津田様が、今日子様に命令できないのですか?」
「今日子は忙しいし、強制なんかしたら俺が怒られてしまうもの。なあ、吉継」
「そうですね、私もそれは止めた方がよろしいかと……」
津田光輝という人間が自分のイメージと大きく違っていて、誾千代は驚きを隠せなかった。
多くの国人や大名を亡ぼし、関東、東北、蝦夷、南方に大領を得た英雄が妻が怖いというのだから。
「ですが、津田様は津田家の当主ではありませんか」
「そうなんだけど、津田家内部だと今日子の方が偉いという現実があるんだよなぁ……。なあ? 吉継」
「そうですね」
津田光輝は、外の人間に平気で今日子の方が偉いと言ってしまう。
家臣の多くはその意見に賛同だが、外の人間はわざと光輝がそう言っているのだと思い、勝手に光輝が大胆で度量が大きいのだと勘違いした。
多分、信長、秀吉、長秀、利家、謙信くらいしかそれを事実だと思っていないはずだ。
九州の地は保守的で、誾千代を除けば女性が出しゃばると男性がいい顔をしない。
だからこそ彼女は、光輝の発言に大きな衝撃を受けた。
「それは、津田様が今日子様を押さえつければいいのでは?」
「無茶を言うなぁ……誾千代ちゃんは。俺が逆立ちしても今日子に勝てるわけないじゃない」
「そうですね、私も勝てません」
光輝の腕っ節がいまいちなのは昔からだが、文武に長けた吉継でも今日子に一対一で戦って勝てるとは思わなかった。
唯一優勢なのは指揮官訓練用の軍戯盤くらいで、それでもそのおかげで吉継は光輝の傍につく事が多くなっている。
このところの武藤喜兵衛は、伊達家が支配する沿海州への対策もあって、蝦夷、樺太太守である津田信秀の補佐として現地に赴く事が多かったからだ。
「というか、津田家で今日子様に勝てる者がいないのでは?」
大体、津田家に若い新参者が入ると、自分なら今日子に勝てると言って勝負を挑みたがる。
たまにそういう連中を纏めて今日子が相手をするのだが、今の今まで彼女に勝てる人間は一人も存在しなかった。
「います! 今日子様に勝てる者が!」
「いるんだ。誰?」
「私です! 父立花道雪の名を汚さぬように、私は鍛錬を怠っていませんので」
「そうなんだ……」
光輝の誘導というには初歩的な手で、誾千代が武芸で今日子に挑みに来たのだという事を知る。
女性で今日子に挑むのは珍しいし、気概もあるのであろうが、彼はまだ顔も見ていない立花宗茂に対して同情してしまった。
こんな女なら、夫婦仲が悪くても当たり前だと思ったからだ。
「(マス夫さんにして、妻がこの有様。俺なら、即離婚かも……)一応、確認を取ってみるよ」
光輝が今日子に連絡を取ってみると、今日はたまたま道場で棒術の鍛錬をしてると連絡が入った。
ついでだから、その誾千代とかいう娘の相手をしてもいいと言う。
「帰りもあるから怪我しないようにね」
「私が勝つので心配ありません」
誾千代は自信満々の態度を崩さないまま、今日子がいる道場へと侍女の案内で向かった。
「若さ故の無謀か、それとも本当に強いのかわからんなぁ」
「普通に負けると思いますけどね。あの誾千代とかいう娘が」
後に津田軍全軍を差配する事になる吉継は、ただ冷静に自分の見解を述べるのであった。
「直ちゃん、この娘可愛いね」
「なっ……可愛い……」
勇んで今日子の元に向かった誾千代であったが、初対面から今日子に可愛い扱いされてしまった。
五十に近い今日子からすれば、十八の小娘などみんな可愛い部類に入ってしまうから仕方がないとも言える。
それに誾千代は気が強かったが、別にブスではなかった。
十分美少女の範疇に入る女性なのだから。
「立花誾千代と申します。今日子様は、今日は鍛錬を?」
「たまにはしないとね。定期的に運動をしないと体が鈍るし、適度な運動は健康にもいいんだよ」
今日子ももう若くはないので、無理は控える年齢であった。
そんな彼女からすれば、棒術の鍛錬も健康のためというわけだ。
「そちらの方もですか?」
「直ちゃんは、昔は『女地頭殿』って呼ばれていて強かったんだよ」
「昔の話ですよ。今は、大分鈍ってしまいました」
直政の前に井伊家の家督を臨時で継いだ直虎は、若い頃は武芸の鍛錬に励んでいた。
若い直政に武芸を教えた事もある。
だが、今は津田家の洋裁工房の幹部として忙しく、休みの日も孫と遊ぶのに忙しかった。
結果的に、武芸の鍛錬は健康のためという理由でたまにしかおこなっていない。
たまに今日子につき合うくらいで、毎日血が滲むような鍛錬をする年齢でもないというわけだ。
「(何だ、それなら勝てるじゃないか)」
今日子と直虎の話を聞き、誾千代は今日子に勝てると確信した。
自分は毎日稽古に励んでいるので、鈍った今日子など楽勝だと思ったのだ。
「実は、勝負をしていただきたいのです」
「九州からご苦労様だね。それに免じて勝負するね」
今日子は、誾千代との勝負を受け入れた。
直虎が審判役を務め、今日子は木製の棒で、誾千代は木刀を借りて勝負を開始する。
「始め!」
「てぇーーーい!」
先手必勝で誾千代が今日子に切りかかるが、彼女はほとんど体を動かさないで誾千代が持つ木刀を棒で軽く跳ね上げた。
誾千代は木刀を手から離してしまい、木刀は宙を舞ってから道場の床に落ちてしまう。
「これで木刀を離してしまうという事は、基礎がなっていないのかな?」
「そんなバカな……」
誾千代は今日子から未熟者だと言われてしまい、その場に茫然としてしまう。
子供の頃からの鍛錬は一体何だったのかと、次第に悔しさがこみ上げてきた。
「わずか一手で引き下がるわけにはいきません!」
「納得するまで相手はするけどね」
それから約一時間、誾千代は今日子に勝負を挑み続けた。
だが、いくら斬りかかっても、すべての攻撃が当たらず、簡単に木刀を弾かれてしまう。
大人と子供の勝負であり、加えて無駄な動きが多い誾千代は疲労感から道場の床に倒れ込んでしまった。
「そんな……私を教えてくれた家臣は筋はいいと……」
「筋は悪くないと思うよ。でも、あの有名な立花道雪の娘に厳しい鍛錬はしないんじゃないかな?」
「それはどういう事ですか?」
「だって、誾千代ちゃんを怪我でもさせたら、道雪殿に怒られてしまうもの。手を抜いて当たり前だね」
いくら一時的に立花家の家督を継がせたとしても、それは本当に一時的であった。
婿を入れ、その婿と誾千代との間に子供が生まれなければ、立花家は後継者不在で改易されてしまう。
養子という手もあるが、家臣達は思ったはずだ。
偉大な主君道雪の血を継いだ子を誾千代に産んでほしいと。
「だから、誾千代ちゃんの顔や体に傷をつけて、誾千代ちゃんの旦那様がそれを嫌がったらとか、当たり所が悪くて子供が産めない体になったらとか考えると、本気を出せないでしょう。道雪殿に怒られるだろうし」
今日子の指摘に、誾千代は何も言い返せないで顔を下に向けてしまう。
「誾千代! 大丈夫か?」
とそこに、誾千代が今日子に勝負を挑むと聞いて驚いた宗茂が江戸まで追いかけてきたようで、道場に飛び込んでくる。
「誾千代! お前は何を考えているのだ! 立花家を潰すつもりか!」
「くっ! そのようなつもりはない!」
「そんなわけがあるか! 津田様の奥方殿を相手にこのような騒ぎを起こして!」
今の宗茂と光輝は、同じ織田家家臣という立場にある。
だが、小身である宗茂と、数百万石以上の大身である光輝が本当に同じ立場のはずがない。
光輝が信長に誾千代の無礼を報告すれば、あっけなく立花家は改易されてしまうのだから。
それがわかる宗茂は、誾千代を激しく注意した。
「私は、ただ勝負に来ただけだ」
ところが、誾千代は宗茂の注意に聞く耳を持たない。
自分の何が悪いのかと開き直る有様だ。
誾千代は、自分の武芸に自信があった。
女性なら間違いなく日の本一だと思っていたのに、今日子に手も足も出ず、プライドをズタズタにされて臍を曲げていたのだ。
立花家の一人娘として甘やかされたツケが出てしまったのであろう。
「誾千代!」
「何か文句でもあるのですか? あなた」
宗茂は誾千代を殴ろうとしたが、そこで今までの癖が出てしまいそれを躊躇してしまう。
『あの偉大な義父立花道雪の娘を殴っていいのか?』という考えが頭を過ぎり、手を振り上げたところで動きを止めてしまったのだ。
「その手は何ですか? 私を殴るのですか?」
「それは……」
誾千代に睨まれ、宗茂は口ごもってしまう。
今までの癖で、なかなか誾千代に対し強気に出られなかったのだ。
「駄目だねぇ……ちょっと、宗茂殿」
二人の様子を見ていた今日子は、宗茂を自分の方に引き寄せると、そっと耳打ちをする。
「(いい機会だと思うけどな)」
「(いい機会ですか?)」
「(そう、宗茂殿はいくら、婿養子でも立花家の当主なんだよ。宗茂殿が当主として君臨しなければ、誾千代は宗茂殿を侮り続けるし、家臣達も不安になると思う。女性を殴るのは感心しないけど、時には荒治療も必要だと思うな。ここでガツンと言っておかないと、あなた達はずっと本当の夫婦になれないと思う)」
「(本当の夫婦ですか……)」
「(やり直すいい機会だと思うけどね)」
今日子は立花夫妻の情報など知らなかったが、女性なので二人の様子を見ているだけでこの夫婦が上手く行っていない事は理解できた。
そんな今日子が宗茂に言ったのは、『一度でもいいから本気で殴って叱れ!』だ。
確かに暴力はよくないが、たまにはそれが必要なケースがあるというわけだ。
「(やり直す機会……)わかりました」
宗茂は、今日子の助言を受け入れた。
「このバカ者が!」
宗茂は、容赦なく誾千代を殴った。
いくら武芸に自信があったとしても、お嬢様の習い事と、何度も戦場に出た武将では実力が違いすぎる。
宗茂はかなり手加減をしたが、それでも誾千代は吹き飛ばされた。
「お前の無謀な行動で、立花家が潰されるかもしれなかったのだぞ! お前は義父道雪様が残した立花家を大切に思っている癖に、なぜこんな無茶をしたのだ?」
誾千代を殴った宗茂は、本気で彼女を叱り始める。
その怖さに、誾千代はおろか、様子を見にきた光輝も身を竦めた。
「この兄ちゃん、若いのに迫力あるなぁ……」
「みっちゃんは情けないなぁ……あと、大切なところだから『シィーーー』ね?」
「はーーーい」
光輝は今日子を殴った事なんてないし、そんな事は怖くてするつもりもない。
それでも夫婦は上手くいっているので、今回の宗茂の暴力は例外的な処置というわけだ。
普段の今日子は、妻や娘を殴る家臣や領民には厳しく注意する女性なのだから。
「それでも、大事にならなくてよかったな」
立花宗茂という人物は、本来は温厚でとても優しい人物である。
誾千代への説教を終えると、優しく倒れた彼女を立ち上がらせた。
「(凄い! イケメンにしてリア充で、女性にモテる要素をすべて兼ね備えた男だ!)」
光輝は、宗茂の行動を見て自分には真似できない。
しても、宗茂ほど様にならないと思ってしまう。
自分と宗茂との差に、ある種の敗北感を覚えていた。
「今回の件は俺も悪かった。俺も一緒に今日子殿に謝るから」
「申し訳ありません、あなた」
「気にするな、俺達はまだやり直せるよな?」
「はい」
初めて男性に殴られた誾千代は、それからは憑きものが落ちたかのように大人しくなった。
夫宗茂を立花家の当主として認め、妻としての彼を支えようと決意するようになる。
「(やっぱり、イケメンは違うよな。俺なんて、女性を殴ったら顰蹙ものだからな。やっぱり、『※』の法則は正しかったんだ)」
「みっちゃん……」
宗茂と誾千代は、突然勝負を挑んだ件を光輝と今日子に謝った。
そして、二人はもう一つの人生の選択をする事となる。
「このまま豊後で燻っているよりは、津田様に仕えようかと……夫婦でやり直すには環境が変わった方がいいかもしれませんし」
「えっ? 本当にいいの?」
立花家は、石高数千石程度にまで領地は減っていたが、それでも織田家の直臣という扱いであった。
それを捨てて陪臣になるというのだから、光輝は驚いてしまったのだ。
「元々立花家は、大友家の豊後減封に従って新しい所領を与えられた身です。これがなくなってもあまり未練はないのです。それに、津田家の方が面白そうではありますし」
「うーーーん、大殿に許可をもらってからだな」
「ならば、今回の件を伝えてもらって構いません」
宗茂の許可を得て光輝が信長に今回の件を伝えると、彼は渋い顔をした。
自分の直臣の妻が、その主治医に勝負を挑んだというのだから。
「確か、道雪の娘だったな?」
「はい」
信長の問いに、傍にいた森成利が答える。
これが男性で、津田家の家臣ならば信長も何も言わない。
口を挟むべき案件でもないからだ。
だが、今日子に挑んだのが直臣の妻であると聞き、信長は途端に不機嫌になった。
「道雪の娘婿は、妻の制御もできぬのか?」
「それで、その立花宗茂なのですが、津田家への移籍を希望しております。無礼のお詫びを奉公で償うと」
「直臣から陪臣か……」
直臣とはいえ、あまり記憶にもなかった者だ。
武芸には優れているという評価だが、今の織田家だとそれだけでは成り上がれない。
武芸だけ優れている者ならば、極端な話、日の本中を探せば一定数存在するからだ。
今の信長が必要な人材は、内政や財政、殖産などに優れた家臣であった。
それに、今の豊後は織田家の直轄地である。
勿論立花家の領地は違ったが、彼らが領地を捨てれば織田家の直轄地が増える。
そう悪い話ではないと、信長は思った。
この時代の武士は土地に拘るので、自ら領地を捨てるという宗茂を止めるほど信長は善人でもなかった。
彼は、宗茂の実力がよくわかっていなかったのだ。
当然、その実家である高橋家もである。
「許可を出そう。その代わりに領地は取り上げるぞ」
以上のような経緯があり、立花夫妻は江戸を生活の拠点とする事になる。
彼はすぐに津田家警備隊へと配属された。
「津田軍は面白そうな軍だな。ここで俺の実力が通じるか楽しみだ」
「そうよな、宗茂」
「父上、本当によろしかったので?」
「このまま豊後で安寧に暮らすという手もあるが、やはりまだ老け込むような年でもないからな」
立花家と同じく、高橋家も豊後の領地を捨てて津田家に仕官する事になった。
紹運はまだ自分も十分に戦えると、家族や主だった家臣を連れて津田家に仕官したのだ。
これにより豊後に一万石以上の土地が空き、信長としても好都合であった。
「津田家では厳しい訓練があるそうだ。楽しみではないか」
父紹運と、宗茂の弟である統増も同時に津田家へと仕官し、彼らは津田軍の将として活躍していく事となる。
そして、宗茂と誾千代の夫婦はその関係を修復しようと努力を始める事になる。
「誾千代、江戸の町は面白いな。休みには遊びに出かけようではないか」
「はい、あなた」
「今度の休みは美味しいものを食べて、誾千代の新しい服でも買いに行くか」
「楽しみにしています」
「そういえば、随分と家事をするようになったな」
「今日子様が覚えた方がいいと。周りの奥さんが教えてくれるので」
懸案事項であった家事も、今日子が夫婦円満のためだと家臣の妻を対象に教室を企画していた。
そこならば、素人も多いので誾千代も気にせずに料理などを覚えられた。
「そうか、また新しい料理を作ってほしいな」
「はい、あなた」
二人は休みになると江戸の町に出かけてデートをおこない、上手く夫婦関係を改善する事に成功した。
仲良くなる事に成功した立花夫妻は子供達が生まれてからも、休日になると家族で江戸の町やその周辺に遊びに出かけるようになるのであった。
「兄貴! 今日、江戸の町でリア充のカップルがいた! リア充なんて爆発して死ねばいいのに!」
「そんなの、探せば一杯いるだろうに。いちいち嫉妬していたらキリがないよ」
「いいや、一組のリア充を見かけたら三十組はいると思わないと」
「ゴキブリじゃないんだからさ……」
「アニメでもあるまいし! リア充は消毒だ!」
「もうわけがわからんな……清輝もかみさん連れてデートにでも行けば?」
「孝子は今、『どきっ! イケメンばかりの水滸伝 私は宋江でなぜか女の子!』の執筆に忙しいってさ」
「その作品は、どうなの?」
その日、たまたま江戸の町を歩いていた清輝は、デート中の立花夫妻を見つけてしまい、光輝に『リア充は死ね!』と、どうでもいい報告をするのであった。