第七十.七五話 眼鏡と目玉焼き
「うーーーむ」
「大殿、いかがなされましたか?」
「いや、別に何でもないぞ」
石山城内で書状を見ていた信長は、その字の見え難さに困惑していた。
書状の字が小さくて汚いというわけではなく、大分目から離さないとクッキリと見えなくなってしまったのだ。
信長も既に五十の半ばをすぎており、つまり彼は老眼になっていたのだ。
段々と字が見え難くなっているという自覚はあったが、ここ一か月ほどで余計に酷くなったように信長は感じた。
「父と同じですね」
「マムシがか?」
書状から目を離しながら内容を確認する信長に気がついた濃姫は、晩年の斎藤道三がまったく同じ事をしていたと説明する。
「人間、年を取ると目が悪くなるものです。今日子に眼鏡を頼めばいいのですよ」
この時代にも眼鏡は存在しており、信長も南蛮人から献上されている。
だが、見えやすさからいえば、今日子が診察をしてから津田領で作ってくれる眼鏡の方が圧倒的によく見えた。
ちゃんとプロの医者である今日子が検眼をし、症状に合わせてレンズを加工しているから当然である。
「そういえば、清輝も眼鏡をかけていたな」
最近、顔を合さなくなった光輝の弟清輝は、眼鏡をかけていたのを思い出す。
「今日子から聞きましたが、彼は目が悪くないそうです」
「では、なぜ眼鏡をかけているのだ?」
「お洒落だそうです」
「なるほどな。そういう理由で眼鏡をつけるのか。津田家の人間らしいな」
清輝の眼鏡は、伊達眼鏡であった。
その昔、右目に封印してある魔王を抑えるためにという彼独自の設定により、彼は眼鏡をかけていた。
そんな理由なので、年を取った現在ではたまにかけ忘れる事もあったが、それで仕事をするのに困るわけでもない。
今日子は、この事実を濃姫に話さなかった。
話しても理解してもらえないし、下手をすると迷信などを本気で信じてしまう人が多い時代だ。
異端者として攻撃されかねなかった……というのは表向きの理由で、彼女は身内の恥だと思っていた。
「南蛮人の眼鏡は、かけ心地も悪いからな」
この時代の眼鏡とカナガワの工場で作られる眼鏡なので、大きな差があって当然であった。
フレーム部分は最新のデザインを参考に優秀な職人が担当して作っていたが、レンズの精密さを真似できるはずがないからだ。
「そうだな、今日子に頼むとするか」
信長は濃姫の勧めに従い、今日子に眼鏡を作ってほしいと津田屋敷に使いを送った。
「それほど度は強くありませんが老眼ですね。近くの物が見えにくくなるのですよ。殿、これは見えますか?」
「駄目だ」
「では、これは」
「何とか見えるな」
「大体わかりました」
信長は、左右の目で順番に今日子が差す本の文字を読んでいく。
老眼度数測定用の本と、通常の視力検査表は、津田家では毎年健康診断で実施されている陳腐化したものであった。
今日子はわずかな検診で信長が老眼だと診断し、早速眼鏡の注文書を書き始めた。
これを清輝に渡すと、彼がカナガワでレンズを加工してくれるのだ。
「サングラスにも度を入れますか?」
「そうだな。頼もうか」
前にスーツと一緒にもらったサングラスであったが、これもレンズに度を入れないと見えにくくなってしまう。
信長は、サングラスのレンズ交換も頼んだ。
「手際がいいな」
「最近、うちの家臣でも眼鏡が必要な者が増えましたから」
隠居した堀尾泰晴、山内康豊を筆頭として、特に文官に眼鏡の愛用者が増えていた。
書類仕事の時には必須という家臣も増えている。
見えにくい状態で仕事をするよりも効率が上がるので、津田家の家臣には眼鏡の割引購入制度があるほどだ。
「ミツもそうなのか?」
「ちょっと老眼が始まっていますね。書状の字を見る時に眼鏡をかけていますよ」
「そうか、みんな年を取ったものだな……」
二週間ほどで信長の元に老眼鏡が届き、信長は書状を整理する時に字が見えなくて困るという事がなくなった。
だが、自分が年を取ってしまったのだという事実に、彼は嫌が応でも気がつかされてしまうのであった。
「津田殿、これは?」
「万能鍋にもなるフライパンだ」
「ふらいぱんですか? 南蛮には変わった鍋があるのですな」
たまたま江戸に所用で来ていた掘秀政は、光輝に会いに行った。
共に美味しい料理を愛する同志で仲もよく、彼に改良を重ねている出羽産の果物をお土産として渡しつつ、同時に何か新しい料理のネタはないかと思っての事だ。
秀政の勘は当たり、彼は光輝から深底のフライパンを見せてもらう。
このフライパンは、実はカナガワの艦内でテフロン加工した品である。
現在津田領では、和洋を問わずに職人達が次々と調理器具を製造して販売している。
ちゃっかりと調味料を計るカップ、物差し、ハカリなどが統一され、便利な道具の普及と共に津田領内では『津田規格』が普及しつつあった。
その中で鉄や銅製の鍋やフライパンも作っており、それを清輝が個人的な趣味でテフロン加工したものであった。
「このふらいぱんとやらの表面は、鉄鍋とは違うようですな。ですが、何か利点はあるのですか?」
秀政は、すぐに両者の差に気がついた。
だが、具体的に何が違うのかはわからないようだ。
「これは、こびりつかないフライパンなのだ」
「何ですと! それは事実なのですか?」
こびりつかない鍋、そんな便利な物があるのかと秀政は大きな衝撃を受ける。
「論より証拠、試しに使ってみよう」
光輝は試しに、卵を割って目玉焼きを作り始めた。
加熱したフライパンに油を引かずに卵を割り落とすが、卵はこびりつかないで目玉焼きとして完成する。
他にも、油を引かずに魚や肉を焼いてその性能を秀政に見せつけた。
「油を使わずに焼けるので、健康を気にする人には最適だ。加えて、このように……」
使ったフライパンはわずかな水洗いのみで綺麗になった。
これが、下手な鉄製の鍋とかだと、こびりついた汚れの洗浄で大変な手間がかかるのを秀政は知っていた。
「おおっ! 素晴らしい鍋ですな!」
「だろう。まだ試作品だけどな」
フライパンの実演を披露してから、光輝と秀政は一緒に食事を取る事にした。
ちょうど昼飯の時間なのと、調理したおかずがあったからだ。
これをおかずに、ご飯と味噌汁を二人は食べ始める。
「津田様、この目玉焼きという料理は美味しいですな。ご飯に載せてから醤油をかけて半熟の黄味を崩す。これだけで至高の味が楽しめます」
「目玉焼き丼は美味しいよな」
光輝も、秀政の意見に賛成であった。
「兄貴、腹減った。何かない?」
光輝と秀政が目玉焼き丼を楽しんでいると、そこに清輝も姿を見せた。
朝起きてから作業に熱中しており、今まで食事を取っていなかったようだ。
「目玉焼きか。僕も欲しいな」
「清輝の分もあるぞ」
光輝は、皿に載った目玉焼きを清輝に差し出す。
「ご飯の上に載せて目玉焼き丼か……単純だけど美味しいよね。ソースをかけてと……」
「待てい!」
「待ってください!」
清輝が目玉焼きにソースをかけようとすると、光輝と秀政が強い口調でそれを止めてしまう。
「えっ? 何?」
「清輝、お前は目玉焼きにソースとかふざけているのか?」
「そうですぞ、清輝様。そーすでは甘すぎて、黄味の甘さと味が被ってしまうではないですか」
光輝は、目玉焼きにソースなど信じられなかった。
秀政も、理論整然となぜ目玉焼きにソースが駄目なのかを清輝に説明する。
「いや、別に味の好みの問題だからいいじゃん。第一、目玉焼きはソースの方が主流だし」
「出たよ、清輝のあからさまな嘘が。目玉焼きは醤油派が圧倒的じゃないか」
「そんなデータ! いつあったんだよ!」
「江戸の領民達に調査してみな。何万人に聞いても、醤油派が圧倒的になるから」
「そんな事はないね! ソース派の方が多いはずだ」
光輝と清輝は、再びくだらない事で兄弟喧嘩を始めてしまう。
「清輝様、落ち着いてください。目玉焼きがいくら醤油派が主流とはいえ……」
「こら、秀政! お前は本気で仲介する気があるのか? 目玉焼きはソースです!」
当事者が二人から三人になったくだらない言い争いは暫く続き、それを聞きつけた今日子が仕方がないと仲介に乗り出した。
「三人共、いい大人が止めなさいよ」
「しかし、奥方様。目玉焼きは醤油ですぞ」
「いいえ! ソースです!」
今日子は、仮にも津田家の当主とナンバー2と出羽織田家の筆頭家老が、よくもこんなくだらない話題で喧嘩ができるなと、ある意味感心した。
「そんなのは、どちらでもいいじゃないの」
「よくないですよ! これはとても大切な事です! では、奥方様はどちらだと思うのですか?」
秀政は、その怜悧な頭脳で今日子も醤油派だと予想していた。
ここで彼女が醤油だといえば、三対一で醤油派が優勢となり、清輝に勝利できると考えたのだ。
「私? 私は、塩胡椒ね」
「何と……」
ここで第三の答えが出た事に、秀政は衝撃を受けた。
そして、ある考えに至ってしまう。
「塩……私も料理を大分勉強いたしました。確かに、塩梅というくらいなので料理に塩気は重要です。ですが、それだからこそ逆に生まれてしまう。『とりあえず塩って言っておけばツウだと周囲に思われる作戦』ですな? お気持ちはわかるのですが……」
「……」
秀政の発言に、光輝と清輝は凍り付いてしまう。
塩系の味が好きな今日子に、ツウぶっているから塩を選んだというのは禁句であった。
前にそれで、光輝と清輝は酷い目に遭ったからだ。
確か、あれはラーメンの味で喧嘩した時の事である。
「確かに、塩にも藻塩や岩塩などがありますし、最近では琉球の塩なども出回っております。ですが、塩のみでは……胡椒もありましたか」
「秀政殿、人の味の好みに口を出す時は、戦に出向く時と同じ覚悟をしてからにしなさい」
「はい……」
今日子は冷静な表情のままであったが、秀政はその背後に修羅を見てしまった。
それ以降、今日子に味の好みで論戦をしかける人物は二度と現れなくなる。
秀政もその日の日記に、『世の中には、決して口を出してはいけない領域があるのだと知った』と記すのであった。
「久太郎にしては、珍しく勇み足であったな。今日子に料理の事で喧嘩を売ってはいけない」
後日、信長は秀政が恐怖した経験を光輝から聞いて笑っていた。
「特殊なふらいぱんか。確かに、綺麗に目玉焼きが焼けるな」
信長も献上されたテフロン加工のフライパンで目玉焼きを焼かせ、そのできに感心する。
「油を引かずに済むのはいい。油を取りすぎると、今日子がうるさいからな」
目玉焼きが焼き終わると、他の料理と共に食卓に置かれ、光輝と信長は一緒に食事を取る事にした。
「目玉焼きは、こうしてご飯に載せると美味しいな。目玉焼き丼とはいい命名だ」
「そうですね」
光輝も、自分の分の目玉焼きをご飯に載せた。
「これに何をかけるのか? 塩胡椒、醤油、そーすか。まあ、我に言わせるとなぜ争う必要があるのか不思議に思えるがな」
そう言いながら、信長は自分の横に置いてある調味料入れから一つの小瓶を取り出した。
「目玉焼きには、味噌だれなのにな。ミツ、味噌だれこそが至高なのだぞ」
「はあ……」
光輝は相手が主君なので反論せず、彼に勧められて味噌だれで目玉焼き丼を食する事になる。
「(美味しいけど、これ味噌の味が強すぎるよなぁ……)」
光輝は、味噌だれは味噌の味が強すぎると感じてしまったが、相手は主君なので何も言わない。
味噌好きな信長らしいチョイスであり、もう一つ、目玉焼きを味噌だれで食べる人物は今のところ信長一人だけであった。