第七十.五話 森成利という男
「津田殿、ようやく終わりました」
「そうですか……それで、成利殿はこれからどうしますか?」
「私の石山での仕事は終わりました。これからは自分の領地を治めていく事になるでしょう」
信長が亡くなり、島津家と信孝討伐の後始末が終わった直後、信長の側近衆であった森成利が光輝に挨拶にきた。
彼は長く信長の側近衆を務め、自分の領地を家臣に任せているので一度も訪ねていないほどだ。
それだけ信長が傍から離さなかったわけだが、今はもう違う。
信忠は自分に親しい側近衆を用い、信長の匂いが強い成利を避けた。
役目を解かれて領地に戻る事になり、その前に光輝に挨拶に来たわけだ。
側近衆に命じられる者は、領地が少ない者が多い。
軍事力と経済力は宿老クラスの家臣には遠く及ばないが、その代わりに絶大な権限を有していた。
勝家や秀吉ですら、信長と謁見するためには側近衆に伝えてアポを取らないといけないのだから。
側近衆がその人物を嫌っていれば、信長との謁見を認めてもらえない可能性だってある。
当然諸将は、側近衆に普段から贈り物などをする事が多かった。
賄賂と言われればそれまでだが、側近衆は自分の領地に戻れないほど忙しい。
領地を家臣に任せてしまっているのでなかなか領地の開発が進まないし、側近衆として必要な経費は自分で出さないといけない。
季節の挨拶を貰うくらいは、信長は黙認していた。
強欲にそれらのものを欲して信長の不興を買う危険性もあったが、その匙加減ができない者は最初から信長から側近衆に任じられない。
今は出羽織田家の筆頭家老である堀秀政も、そのような問題で足を引っ張られた事などなかったのだから。
「確か、信濃に領地がありましたよね?」
「それが、備後に移封となりました。五万石ほどですね」
「加増はなしですか?」
「大殿の側近衆で、加増があった者はおりません。信忠様は我らを評価し難いのでしょう」
それもあるが、信忠から側近衆に命じられた者の中には領地が少なすぎる者もいて、彼らの加増のため成利達が割を食った形だ。
信長の傍にあって功績をあげていないと言われると、言い返せないと成利は言う。
特に朝鮮の件では、失態と言われても仕方がないのだから。
「代が変わるというのは、こういう事なのでしょう。上様には、上様が気に入っている側近衆がいるというわけです」
成利は、信長は亡くなった以上は自分は潔く身を引くのみだと光輝に語る。
「それに、今の上様の傍では大殿の時のように楽しくありませんから」
確かに、信長は領地が増えて身分が上がっても、フットワークの軽い殿様であった。
光輝ほどの重臣でも、信長と謁見するためには成利達にアポイントメントを取らないといけない。
それは事実であったが、信長の方が勝手に光輝の屋敷に足を運んだり、光輝に無茶な命令を出し、成利もそれに合わせて色々と動く事になったりと。
成利は、あの信長との時間は何よりも楽しく素晴らしい時間だと感じていた。
そして、信忠の傍にいてもあの楽しさはないであろうと思っていたのだ。
「五万石で十分です。私は領地を上手く統治して過ごそうと思います。加増は……森家はちょっと特殊ですからね……」
今回の転封の前、森家の領地は信濃にあった。
亡くなった成利の父森可成に信濃の大半が与えられたが、信長はお気に入りの次男長可、三男成利、成利と同じく側近衆であった四男長隆、五男長氏に分割して領地を与えるようにと命じている。
可成が亡くなると彼の分は嫡男可隆が継いだが、他は弟達の取り分が認められていた。
つまり、森家は五人で信濃の過半を領有していたわけだ。
そして、信忠がそれに目をつけた。
信忠がその武勇を評価している長可を豊後に加増、移封し、可隆、成利、長隆、長氏は信濃からバラバラに移封された。
長可の加増分優遇されているともいえるが、兄弟の領地をバラバラにされたとも言える。
何にせよ、これで森家の政治的な影響力はかなり落ちてしまったのだ。
他の信長の側近衆も同じだ。
菅屋長頼と福富秀勝は信忠がそのまま用いたが、矢部家定と大津長昌は亡くなった後に後継者は畿内に領地を持つ小大名に転落、長谷川秀一も備前に転封となっている。
代替わりで今まで権勢を振るっていた者が左遷される。
光輝は、成利達が大企業のサラリーマンみたいだと感じていた。
「今までお疲れ様でした」
「お疲れ様は、津田殿もですよね?」
「そうですね、大殿は急に思いついて色々と頼むから」
「そうでしたね、私も準備に苦労しました」
光輝と成利は、信長の思い出話に花を咲かせた。
信長は光輝達が口にしている食べ物をすぐに欲しがり、光輝がやっている事を自分もやりたがった。
そのために、二人はその準備を急ぎとり行っていたのだから。
「大殿は、すぐに決められてしまいますから」
「その果断さが、天下取りに生きたのでしょう」
すぐに決めて先制するというのは、何事でも大きなアドバンテージを有する事ができる。
光輝も成利も、信長の強みをひとつだけ上げるとすれば、間違いなく決断の早さをあげるであろう。
「今の上様にはないものです」
「だから、もう未練はないと?」
「はい。私が今の上様に亡くなられた大殿と同じものを求めたら、私は嫌われ、嫌がられる存在になるでしょう。最悪、処罰されるかもしれません。だから、これでいいのです」
成利は、側近衆の身分にもう未練はないようだ。
彼は織田家の側近衆ではなく、織田信長の側近衆なのであろう。
「わかりました、今日は泊まって行ってください」
「ありがとうございます」
光輝と成利は、今日子も加わって共に夕食を楽しんだ。
メニューは、みんな信長が大好物だった料理やデザートばかりであった。
「大殿は美食が趣味でしたからね」
成利は、信長が好きだった料理をすべて確認するかのようにゆっくりと口に入れていた。
「成利殿、これをどうぞ」
そして今日子は、成利にプレゼントも準備していた。
今日子はイケメンの成利がお気に入りだったので、密かに準備していたのだ。
「これは大殿の……」
「同じ生地を使って作りました。形見分けはされていないのですよね?」
「はい」
信忠は、信長の遺品を形見分けしなかった。
スーツなどは、サイズを直して自分のものにしている。
「少しくらい分けてもいいと思うけどな……」
「津田殿、上様は大殿のすべてを受け継ぎたかったのでしょう」
二代目である信忠には、常に『これが大殿ならば……』、『大殿の時代はよかった』と批判されていく事になる。
精神的に大きなストレスとなるはずであり、だからこそ偉大な父信長の遺品をすべて手元に置いて安心したいのかもしれないと、成利は推論する。
「すべてか……」
「それは難しいのですけどね。今日子殿、大殿とお揃いのすーつをありがとうございました」
翌朝、成利は光輝と今日子に丁寧にお礼を述べてから、新しい領地のある備後へと旅立つ。
彼の領地の前領主は織田信孝なので、特に大きな問題もないはずだ。
津田家との交易も、成利の領地とは続ける事になった。
備後の他の領地は、光輝にもどうなるかわからなかったが。
「成利殿、寂しそうだな」
「そうだね、大殿の事を尊敬していたものね」
光輝と今日子は、成利の背中が見えなくなるまで彼を見送った。
これ以降、森成利は大人しく自分の領地を治めていく事になる。
更に領地の開発を促進し、津田家との交易も強化した彼は、地元の領民達から名君として慕われるようになっていく。
だが、二度と中央でその頭脳を活用する事はなかった。