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第七十話 甲信始末記

「亮政は、何をやっておるか!」


 流民の対応を巡る浅井軍と津田軍の対立から軍事衝突、更に浅井家当主亮政の討ち死にの報に、将軍信忠は激怒した。

 これら事件のある程度詳細な報告は、津田家経由で入っている。


 何かの間違いで一方的に津田家が悪いと思われては大変だと、父と母と叔父の薫陶を受けた津田信輝は、正確な報告を素早く信忠に送ったのだ。


 一方、浅井家側は何もできないでいた。

 一回だけ報告が来たが、感情的に津田家を非難中傷するばかりで、まったく報告の体を成していない。


 当主亮政と一緒に従軍した嫡男忠政も戦闘の混乱に巻き込まれて討ち死にしており、重臣赤尾伊豆守、海北善右衛門、雨森清広、寺村小八郎、阿閉貞大、渡辺了、磯野行長、宮部継潤、朽木元綱と多数が討ち死にしたために、浅井家側が大混乱に陥っていたからだ。


「上様、いくら何でも津田家はやりすぎです」


 細川幽斎は、大戦を起こしてしまった津田家を非難した。

 いくら何でも浅井軍を殺しすぎだと、そのおかげで信濃と甲斐はまたも統治者不在の状況に陥っている。

 津田家が嫌い云々よりも、将軍信忠のご意見番として幽斎は津田家を非難した。


「信輝は、浅井領内には一歩も足を踏み入れていないそうだ。実際に、亮政と重臣達の遺体は津田領内側で見つかったと書いてある」


「津田家側のねつ造では?」


「織田家の草は、もうとっくに現場にいるはずだ。彼らからの報告が入れば、嘘など一発で暴かれてしまう。あの信輝が自分の立場を危うくする嘘などつくか?」


「それはないかと……」


「ではそういう事だ。結局戦バカから抜け出せなかったな、亮政」


 信忠は、信輝の能力を認めていた。

 認めていたからこそ、姑息な嘘などつかない。

 ついても何ら得がない事を、信輝自身が理解していると。


 逆に、もう一方の当事者である亮政には失望するのみであった。

 家督相続で亮政を推さなかった件の詫びも込め、準一門衆として力を発揮してもらおうと二か国に加増したのに、その期待を大きく裏切られたからだ。


「第一、浅井家側は津田家への文句ばかりで何も報告してこないではないか。向こうの言い分のみを聞くなど、あきらかに不公平になってしまうぞ」


 浅井家の報告には、津田軍の卑劣な卑怯討ちで亮政達が討ち死に、浅井軍は壊滅した。

 だから、急ぎ救援をくださいとしか書いていなかった。

 まともな報告すらあげられない浅井家に、信忠はただイライラが募るのみであった。


「戦の原因の解明はあとでいい! それよりも、信濃と甲斐だ!」


 信忠の指摘どおり、新領主である浅井家の弱体化に気がついた旧武田国人衆が再び蠢動を始め、信濃、甲斐両国は騒乱状態に陥っている。

 唯一佐久郡で混乱を防いでいる真田信輝からは、応援の要請が毎日届いていた。


 いつ自領が騒乱に巻き込まれるのか、不安で堪らないからだ。

 彼は経済的には津田家に隷属していたが、別に織田家の家臣でなくなったわけではない。

 信忠に何とか助けてくれと、救援の手紙を送り続けていた。


「浅井家はどうして動けぬ?」


「兵の不足、家臣の大量討ち死にに、あとは家督争いです」


「こんな状況でか!」


 亮政の嫡男忠政の討ち死にで、浅井家は混乱の極致にあった。

 亮政の弟長明、政治、嫡男忠政の弟忠長の三名が、それぞれに支持を表明する家臣達を集め、自分こそが次の浅井家当主だと宣言して分裂してしまったのだ。


「長明殿は福島城、政治殿は飯田城、忠長殿は深志城に支持を表明する家臣達と籠っております」


「なぜ籠る? 浅井家の後継者を名乗るのであれば、まずは甲斐と信濃の騒乱を沈める方が先であろうが」


 信忠は、幽斎からの報告に顔を顰めさせた。


「津田軍との衝突で犠牲が多く、挙句に分裂しているのです。城に籠るのが精一杯なのでしょう」


 幽斎は自分なりの意見を述べるが、そこには無意識で浅井軍を殲滅してしまった津田家への非難も混ぜた。

 信忠ももう少し手加減してほしいと思ったが、非が浅井家側にありすぎるため、それを口に出す事はなかった。


 第一、戦で手加減などあり得ないと自分が一番理解していたのだから。


「そんなバカな話があるか! 流民への対処もまだ終わっておらぬではないか!」


 再び旧武田家臣が蜂起した事により、津田領のみならず、松永家の駿河、三河と遠江の徳川家、織田家直轄の美濃にまで流民が押し寄せ始めた。

 それなのに、当事者の浅井家は後継者争いで分裂して領主としての役割を果たしていない。


 甲斐などは完全に旧武田家臣達の支配下に入ってしまい、信忠の怒りは頂点にあった。

 民政家である信忠からすれば、流民を出す浅井家こそが一番の元凶に見えたからだ。

 軍事的にも、反乱勢力に一国を支配され、織田幕府の権威は失墜しつつある。

 信忠は将軍として、急ぎ両国の混乱を鎮める必要があるのだ。


「早く両国を安定させるように命令するのだ。それができた者こそ、浅井家の後継者に相応しいはずだ」


 ところが、信忠の出した命令は事態を余計に悪化させた。

 なぜなら、元々兵力不足なのに三者を激しい競争に駆り立てたからだ。


「ふんっ! 政治と忠長には負けぬわ!」


「この政治のために奮闘せよ、俺に従った者達には十分に報いようぞ!」


「この忠長こそが、浅井家の当主に相応しいのだ!」


 三者は元から少ない兵力を三つに割り、協調体制どころか互いの足を引っ張り合い、鎮圧どころか逆に一揆勢力に破れる始末であった。

 長明と政治は一揆勢に討たれ、忠長は少数の供と一緒に美濃に逃げ出す羽目になる。


「謹慎しておれ!」


 一人おめおめと逃げ出してきた忠長に、信忠は改易と謹慎を命じる。

 どのみち浅井家臣団は壊滅しており、今の浅井家に信濃と甲斐の統治は不可能であった。


「周辺の大名に応援を要請しろ」


 信忠は、徳川信康、松永忠久、上杉景勝に一揆鎮圧命令を出した。

 松永忠久とは、先月に病死した松永久通の嫡男である。

 皮肉な事に、長寿で八十を超えても健康な久秀よりも先に、子の久通の方が先に亡くなってしまったのだ。


「あとは、信輝にも援軍を……」


「お待ちください!」


 信忠は義従弟にあたる津田信輝にも援軍を要請しようとするが、それを幽斎が止める。


「なぜ駄目なのだ? 幽斎」


「駄目というよりも、津田軍が既に勝手に兵を入れているようですぞ」


「真田家の要請か?」


「はい」


 津田信輝と同じ名前の真田信輝は、津田家の軍師として活躍している武藤喜兵衛の実の兄である。

 領地が佐久郡のみで一揆勢力に囲まれた真田家を救うため、津田軍は蜂屋貞次が指揮する五千人の兵を真田領に入れていた。


「唯一平穏な真田領を守るためか」


「しかしながら、勝手に他の領地に兵を入れるなど。これは後で処罰しなければいけません」


 仕方がない、緊急処置であるという意見の方が強いであろうが、これは織田幕府の権威に関わる重要な問題であると、幽斎は津田家の行動を批判した。

 いくら正しくても、幕府の命令もなしに兵を動かす事などあってはならないのだと。


 これも正論ではあるが、幽斎は気がついていなかった。

 いや、あえて気がつかないフリをした。

 自分が津田光輝を嫌いなので、どうにか処罰してその力を殺ぎたいと思っているのだと。

 幽斎にとって津田光輝の力を落とす事は、自分の公人としての使命と、私人としての復讐を果たせる一石二鳥の行動なのだ。


「父ならば、信輝の判断を尊重すると思うがな」


「大殿は初代で創生の人でした。上様は、創られた織田幕府を維持していく事が肝要なのです。いくら結果が最善でも、勝手な振る舞いは許されませぬ」


「わかった。ではこうしよう。信輝にはこのまま真田領の治安維持に務めてもらう。浅井軍との戦闘で犠牲も消耗も大きかったが、これに対する恩賞は命令違反のためなしにする」


 津田家側と細川家側、共に配慮した玉虫色の裁定であったが、これは逆に諸将には不評であった。


「古今伝授だか何だか知らぬが、あの腰ぎんちゃくジジイめ!」


 南信濃を担当する徳川信康は、現場にも来ないで偉そうにのたまう幽斎に不快感を示した。


「義昭公から、今度は上様か。天下人の宰相気取りとは恐れ入る。人を無教養人と見下して、歌でも教えていればいいのだ」


 祖父の教育を受けて松永忠久も教養人ではあったが、幽斎が嫌いなのは信康と共通であった。

 甲斐へと兵を進めながら、幽斎批判を口にする。


「上様も、あのような男を傍に置くから駄目なのだ」


「親子して、どうにもならない連中ですな」


 北信濃担当の上杉景勝と、その重臣である樋口兼続も同じであった。

 景勝主従と幽斎の息子忠興とは朝鮮出兵時に確執があり、その仲の悪さも有名になっている。


「ようやく朝鮮での無駄な戦が終わったと思えば……」


 それでも命令は命令だと、景勝も北信濃に兵を出した。

 真田領に兵を出した津田軍も合わせれば五万人を超える大軍である。

 信濃と甲斐はすぐに静かになった。


「ご苦労であった」


 騒動の元であった浅井家は、改易の危機からどうにか忠長が家督を継承したが、その所領は摂津一万石まで減少、信濃と甲斐は真田領を除いて織田家の一時預かりとなる。

 ところが、代官として遠山利景、団忠正、小里光明、梶原景久などが派遣された途端、再び一揆が発生してしまう。


 旧武田家臣達は、武田家の人間を甲斐と信濃に戻せと声を荒らげている。

 代官達は、高遠城で篭城する羽目になってしまった。


「また兵を出せとは言えぬぞ。なぜ、信濃と甲斐は治まらぬ? 甲斐は筑前と又左が領主の時は治まっていたではないか」


 逆に言えば、秀吉と利家だから治まっていたとも言える。


『藤吉郎なら単独でも可能であろうが、私はそこまで優れてはおらぬよ。津田殿の助力があってこそだ』


 甲斐の前領主であった前田利家は、津田家の協力があったからだと認識している。

 それでも統治は大変だったが、信雄が駄目だった伊予を上手く治めるいい経験になったとは思っていた。


『おかげで、信雄様には嫌われたがね』


 信雄が治められなかった伊予を、利家がすぐに治めてしまったのだ。

 あの嫉妬深い信雄が、利家を嫌わない理由はなかった。 


 こういう裏の事情が、信忠には伝わっていなかったのが痛かった。

 秀吉と利家を重用した信長は知っていたが、信忠はそこまで仲がいいわけでもない。

 仲がよくなければ、そんな裏の事情まで話すはずがない。

 信忠から能力不足と断定され、減封や改易でもされたら困るからだ。

 

「特に酷いのが甲斐ですな。甲斐が大本なので、甲斐を鎮める事こそが肝要です」


「だが、武田家の者には与えられないぞ」


 いきなり旗本に一か国を与えるなど、諸将の不満を爆発的に増やすだけだと信忠も理解していた。

 それに、一揆勢の要求に幕府が従ったりすれば、織田幕府の権威は奈落の底に落ちてしまう。


 旗本をしている武田三兄弟とて、一国を賜るまでの功績をあげていなかったのも大きかった。

 幽斎のように、的確な助言で信忠を助けたというような功績も存在しない。 


「幽斎、そなたに甲斐を与えようか?」


 息子忠興とは別に、幽斎に一国を与えようかと信忠が提案する。


「大変に光栄なれど、私は上様の御側にありたいのです」


「そうか。確かに幽斎の助言は貴重だからな」


 大きな褒美ではあるが、その前に一揆を鎮めないといけないし、山城出身で教養人である幽斎からすれば、甲斐などという田舎は御免蒙りたかった。

 地方の領地よりも、将軍信忠の傍にいる事こそが肝要だというのが一番の理由であったが。


「誰ぞ適任者はおらぬかの?」


 よほどの人物を送らなければ駄目であったが、候補者がいない。

 秀吉は九州から動かせないし、利家も伊予における信雄の不手際をようやく治めたところだからだ。

 第一、またすぐに移封などすれば、諸将に不満が溜まってしまうであろう。


「(適任者か……そうだ!)」


 幽斎は、ふといい案を思いついた。

 

「津田殿はどうですか?」


「いいのか?」


 信忠は、幽斎が津田家の力を落とそうと常に画策しているのを知っていたので、一国を加増する案を言い出すとは思っていなかったのだ。


「甲斐は難しい土地、ならば津田殿に任せましょう」


 どうせ失敗して罰を受けるだけ、もし成功したらあとで取り上げれば済むと、幽斎らしい光輝への嫌がらせでもあった。


「真田信輝殿にも迷惑をかけたので、加増という事でどうでしょうか?」


 真田信輝の領地は、信濃で唯一一揆が発生していない。

 幽斎に言わせると津田家に援軍を要請した時点で気に入らなかったが、織田家側も対応が遅れたという不手際があった。 

 それに、信濃と甲斐は一揆のために荒れてしまい、治めるのが難しく税も集まらない。


 真田家と津田家に押しつけるには都合のいい餌であった。


「諏訪、伊那、佐久の三郡を真田家に、甲斐と信濃の残り七郡を津田家に加増する」


 信忠から新しい沙汰が下り、両国を津田軍が接収に入る。


「我ら武田家臣団は、信玄公のご子息の誰かが領主なるまでは諦めぬ!」


 甲斐に割拠する国人衆は、織田幕府で旗本をしている武田一族の誰かが戻らなければ反抗を続けると息巻いていた。

 彼らからすれば、これは条件闘争の一種であったのだ。


 だが、ただの条件闘争にしては血が流れ過ぎた。


「はんっ! 津田家など何するものぞ!」


 浅井軍も織田軍も蹴散らした甲斐で一揆衆を纏める飯富左京亮が息巻くが、その時間は短かった。


「撃てい!」


 津田家は、逆らわない者には優しかったが、逆らう者には厳しかった。

 一向宗、雑賀衆と、津田軍によって多くを討たれた例を飯富左京亮は知っておくべきだったのだ。

 風魔小太郎によって一揆衆の陣容が全て調べられ、調略できなさそうな者はすべて討たれていく。

 現地に残っていた領民達に不安が広がるが、それは街道の整備や開発、産業の育成、税の軽減などの施政によってすぐに収まっていった。


「こんなはずでは……ええい! 津田光輝め!」


 自分の予想が外れ、統治の不手際で津田家を罰する事が出来なくなってしまい、細川幽斎はますます光輝への憎悪を増していくのであった。

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