第六十六話 新体制
「朝鮮の地は得られなんだが、諸将らの勇猛さは明・天竺にも伝わったはず。みなの勇戦に対し褒美を与える」
朝鮮派遣軍は、秀吉の活躍もあり無事に撤収を終えた。
済州島は占領をしたままで、対馬とのラインで制海権を維持をする。
織田家の直轄地となった済州島には守備戦力が置かれ、あとは秀吉が救援や補給に責任を持つ事になる。
ただ、この七年にも渡る朝鮮との戦争で李氏朝鮮は水軍を壊滅させられた。
再建をしようにも造船所まで焼かれており、明の水軍も壊滅に近い損害を受けている。
自分達の建て直しが急務であり、朝鮮のために済州島を取り戻す余裕がなかった。
そんな中で、信忠は朝鮮派遣軍に参加した諸将を石山城に呼び出し、刀、茶器、金銭などの褒美を与えたが、その程度では嵩んだ戦費の足しにもならなかった。
織田幕府とて始まったばかりで安定しておらず、信忠も父信長の命に従って兵を出した者達に報いてやりたいが、その元種が心許無い。
信忠も苦渋の選択をしたのだ。
「あまりいい雰囲気ではないですな」
褒賞の儀を終えた諸将達は、それぞれ領地に帰還したり、仲がいい同僚達と会ったりして時間を過ごした。
石山にある津田家屋敷には、羽柴秀吉、小一郎、竹中半兵衛、黒田官兵衛などの羽柴家主従、前田利家、利長親子、丹羽長秀、長重親子、滝川一忠など、他にも仲がいい者達が沢山集まっていた。
「津田屋敷に呼ばれると、美味しい物が食べられていいですな」
津田家が押さえている領地の産品をふんだんに使った料理と、今日はデザートにアイスクリームも出ていた。
久しぶりに食べる冷たいデザートに、美食が趣味の秀吉も大喜びである。
実は茶々姫が嫁入り時に小型冷蔵庫や調理器具を羽柴家に持参したので、たまに茶々姫が手作りをしていたのだが、秀吉は朝鮮にいたので食べられなかったのだ。
「今は暑いですからな。こういう冷たいお菓子が出ると嬉しいものです」
「藤吉郎の言うとおりだな。ただ、少し歯が沁みるな……」
利家は虫歯があるようで、アイスを食べると歯が沁みて仕方がないようだ。
「又左、それは虫歯だ。今日子殿に見てもらえ」
「五郎左は大病してから、健康に気を使うようになったな」
秀吉、利家、長秀と、みんな五十歳をとうに超えた。
人間五十年と、亡くなった信長が敦盛でよく舞っていたように、そろそろ人生の終わりを意識する年頃である。
だが、三人は同時にこうも思っていた。
『自分は、まだ死ねない』と……。
こうも織田幕府が安定しないと、安心して息子だけに家と領地を任せてとは言えないのだ。
「我ら大老衆に加増がないのは仕方がないにしても、上様は若い奉行衆を引き立てようとして、不公平な加増をしましたからな」
できれば加増してほしいところだが、大老にもなれば、過剰な加増は未来の功臣粛清の第一歩とも考えられる頭脳は持っている。
何とか、嵩む借金を領地経営で返済していくしかないのだが、そんな苦労をしている横で、信忠の寄騎だったりお気に入りというだけで加増された奉行衆に対し、いい感情が抱けるはずもなかった。
「俺の場合は、何もしていませんからねぇ……」
阿漕な金稼ぎはしていたが、朝鮮に兵を出していない光輝も加増どころか褒美もなかった。
信忠から感状をもらっただけだ。
「いやいや、津田殿は補給で大いに貢献していたではないですか」
急速に拡大中の水軍と、次々に進水する船の戦力化のため、津田水軍は九州と朝鮮との間で補給任務についていた者もいた。
ただ、大半は蝦夷、樺太、琉球、台湾、海南島、フィリピン方面で活動している。
安全な交易のために護送船団を組み、脅威となりそうな倭寇や海賊化した南蛮船を狩り、たまに朝鮮沿岸を襲って軍船を焼いたりもした。
そのおかげで、現在朝鮮軍には碌な軍船が残っていないはずだ。
援軍で水軍を出した明軍も、生きて戻れた船は少ない。
海外地においても、フィリピンへの浸透が進んでいる。
既にルソンの大半が落ち、あとは光輝の命令一つでコンキスタドール達を一気に殲滅する予定であった。
彼らは人数が少なく、フィリピン全土には津田家と組んだ寺院が現地人に布教を行いながら穏やかな支配を進めている。
強欲なコンキスタドール達に比べれば津田家の支配の方がマシという事で、フィリピン全土は津田家の手に落ちつつあった。
ただし、これらの活動については織田家はあまりよく把握していない。
津田家側の隠蔽が巧妙で、津田家は未開の外地を懸命に支配しようと大赤字なのに銭を大量に投じていると思っていたからだ。
津田家がルソンを抑えつつある。
織田家が知っているのは、この事実だけであった。
「このまま、領地の整備に時間をかける余裕ができればいいのですが」
「それでも、九州は問題だらけですよ」
九州探題である秀吉からすると、朝鮮出兵よりはマシだが、九州の統治も大変だというわけだ。
「大友家改易に伴う旧家臣達の反抗、奴隷売買の取り締まりもありますからな。島津の件も痛いし、佐々殿の後継者の件もある」
奴隷売買を黙認、もしくは密かに手を貸していたという罪で豊後大友家は改易された。
朝鮮での戦が終わった後、信忠はこの地に池田元助、輝政兄弟を入れた。
亡くなった彼らの父恒興は信長の乳母兄弟であり、元助と輝政も信忠と仲がいい。
かなり依怙贔屓の入った加増、転封であったが、彼らは旧大友家臣達の反抗に悩んでいる。
奴隷売買の件は、南蛮の宣教師も関わっていたせいで信忠は父信長よりも彼らとは距離を置いた。
彼らも宗教組織なので、仏教の坊主達と同じく、現世利益のために腐敗する事もあるのだという、至極当たり前の事実に気がついたというわけだ。
だが、家臣にも信徒が一定数いたので、完全な禁教政策は打ち出していなかった。
黒田官兵衛のように、キリスト教の将来は暗いと考えて興味は持ったが洗礼は受けなかった者も増えている。
この時代の人間からすれば、宗教にも現世利益がないと、それに殉ずる価値はないというわけだ。
『津田様はキリスト教に冷淡だとか? ならば、そんな宗教を信仰する理由はありませんな』
そんな官兵衛が選んだ宗教は、現在外地に布教するために津田家が教義の統合を進めている新しい仏教であった。
「佐々殿は、体調を崩しておられるとか?」
長年朝鮮で苦労していたために、六十をすぎた成政は帰国後に体調を崩してしまったらしい。
成政は、嫡男松千代丸が一向宗との戦いで討ち死にしており、あとは女子しか子供がいなかった。
しかも全員嫁いでおり、加えて婿養子にしていた勝之が領地である肥後で発生した一揆鎮圧の途中で病死してしまった。
負傷してから消毒を忘れたとかで、破傷風が原因だと秀吉は聞いている。
「これで、佐々家は後継者がいなくなりました。しかも、この肥後の一揆は島津家が裏で糸を引いていると……」
島津家は、さすがに薩摩一国ではという信長の判断で朝鮮出兵である程度活躍したら大隅を返還する予定になっていた。
そこに梅北一揆が発生したので加増話が消え、信忠は父の決めた大隅返還案の実行に躊躇した。
その理由は、朝鮮に代官として送り込んでいた旧国人や大名達の存在である。
帰国した彼らに領地を与えるのは織田家の直轄地が減るので認めるわけにいかず、今は金銭で禄を与えている状態だ。
そのため、今は直轄地となっている大隅を返還するのを躊躇してしまったのだ。
大隅一国分の税収で、どれだけの家臣を養えるか。
代官職の数が減ってしまうという理由もある。
『我らをバカにしているのか!』
そんな信忠の対応に、当然島津家はキレた。
梅北一揆は大失態であったが、その後の島津軍の活躍は目覚ましかったからだ。
彼らは途中から五千の兵力で参加し、撤退までに敵の首を五万以上も獲っている。
そのあまりの強さに、明、朝鮮連合軍では『あいつらは人間ではなくて鬼だから、戦場で出会ったらすぐに撤退するように。兵力の損耗が惜しい』とまで通達されていたくらいなのだから。
そこまで活躍したのに、島津家への恩賞は、感状とわずかな金子、茶器、刀のみ。
サツマイモが獲れるようになり、カツオブシの製造と販売でどうにか破綻は免れているが、これからも苦しい状況が続く島津家の不満は爆発寸前であった。
そんな状況の中で、島津家が豊後、日向、肥後などの国人一揆を煽っているのではという噂が絶えなかったのだ。
「火のないところに煙は立たないわけです」
秀吉としては何とか止めさせたいが、信忠に近い奉行衆や加増を狙う者達からすれば、島津家がしでかして討伐になった方がありがたいというわけだ。
「なかなか安定しませぬな」
父一益の軍才は継がなかったが、統治の上手さで播磨を無難に治めている一忠のような人物からすると、もういい加減に平和になってほしいというのが本音であった。
結局、領地を分与されたにも関わらず統治でしくじって一忠の世話になっている弟一時、辰政のような例もあるので、これからは銭計算や領内統治の才能こそが評価されるべきというわけだ。
「秀吉殿も大変ですな」
「右に左に奔走して、何とか戦を止めさせませぬと」
光輝との食事を楽しんだ秀吉は、急ぎ領地のある筑前、筑後に戻って九州の安定に身を費やすようになる。
ところが、秀吉の能力をもってしても豊後、肥後、日向の旧国人一揆は治まらない。
更に最悪な事に、この混乱の中で体調を崩していた佐々成政が急死した。
成政は跡継ぎを指名しておらず、葬儀も行えないまま居城を一揆勢に囲まれてしまう。
慌てて秀吉が黒田官兵衛に命じて援軍を出し、佐々家の家族の安全を確保する事に成功したが、事態は何も解決していない。
むしろ、肥後の一揆は成政の死で燃え上っている状態であった。
「筑前! 島津が裏で糸を引いているというのは事実か?」
「ほぼ間違いないかと」
秀吉は綿密な調査を行って、この事実を掴んでいた。
隠居はしていたが、今も実質的な島津家の当主義久の主導ではない。
彼は津田家の手助けで薩摩の国力が増大していたので、そんな無謀な謀略など行うはずがなかった。
首謀者は、朝鮮の地で苦労ばかりで何も得られずに絶望した名目上の当主である義弘と、梅北一揆で処罰を免れた者、朝鮮に出兵していた将などが参加していた。
同じく朝鮮に出兵した島津家久はこれに反対して義久に謀略の内容を伝えたほどだが、伝えた時には既に手遅れという状態で、それを調べた秀吉としてももはや見逃すわけにはいかないほど一揆が加熱していた。
信忠に対し、内心で苦渋の表情を浮かべながら報告している。
「朝鮮での戦も終わったというのに! 余をコケにする以上は討伐しかない!」
石山城で政務を執る信忠は、諸将に対し島津家討伐を命じる。
だが、秀吉に直接の戦闘は禁じた。
「私が島津を亡ぼせば、加増が必要でしょうからな」
秀吉は、信忠の考えを一瞬で読んだ。
自分には後方支援を任せ、信忠に近しい家臣達に島津家を討伐させ、後継者不在の肥後と合わせて彼らに所領を与えるつもりなのであろうと。
「島津軍と直接戦わずに済んでよかったのでは?」
「朝鮮での働きを見ればみんなそう思うよな、半兵衛よ」
「勝てぬとはいいませぬが、犠牲が多かろうと。加えて、彼らは後がありませぬ」
半兵衛の予想が当たり、島津討伐軍は信忠の思惑に反して多大な犠牲を出す事になる。
織田幕府の新体制は前途多難であった。