第六十五、七五話 対明長期戦略
「やはり、津田領から輸入した品はいいな」
とある明の金持ちが高額で津田領から輸入したミンクのコートを着て、その着心地のよさを絶賛する。
最近、高値で売れるからと明の職人達も頑張って同じものを作っているようだが、品質がまったく追いついていない。
その分安く買えるが、王侯貴族や大商人がそんなものを着ていたら赤っ恥だ。
高くても、津田領産の品を入手するのがまっとうな金持ちや権力者であった。
「早く織田とかいう日の本の支配者も諦めればいいのにな」
大国である明の金持ちですら、日本で天下人である織田信長と、高品質な品を多数生産、輸出している津田領は別の国だと思っている者も多かった。
中華世界の中心にいると思っている彼らからしたら、日の本も津田領も東の僻地で、住んでいる住民は蛮族という評価でしかないからだ。
その割には、津田領から毛皮のコートのみならず、ナマコ、フカヒレ、ホタテの干物、荒巻鮭、蝦夷産の昆布、ガラス製品、機械時計、和三盆、テンサイ糖、焼酎など、多くの品を輸入している。
生産している品はいいが、津田領は僻地で住民は蛮族。
このように考えるのが、明の上流階層に属する人達であった。
「旦那様、あれは手に入りますでしょうか?」
「やはり、ないと手入れが面倒か?」
「そうですね、専属の人手が必要となります」
「そうか……」
使用人が主人に手に入れてほしいと強請ったものは、桐製のタンスや衣装入れであった。
これも、津田領で大々的に生産されている。
防湿、防虫効果に優れ、耐火性も高いので明で大人気となっていた。
中国にも桐や桐製品は存在したが、津田領の職人が加工した品は精密であり、芸術性と実用性を兼ね備えて高級品の代名詞となっている。
もう一つ、樟脳を使った防虫剤も明では人気となっていた。
高価な衣服が虫に食われないように、桐のタンスに入れてから防虫剤を入れておくのだ。
特に、絹製品と毛皮には必要な品であった。
これで、衣服が虫に食われていないか使用人が頻繁に確認する必要がなくなり、彼らは他の仕事ができるようになった。
防虫剤の材料は樟脳なので、定期的に新しいものを入れる必要があったが、樟脳は桐製品ほど高くはない。
津田領が生産を始めたので、明はこれを輸入するようになっていた。
勿論明にも樟脳は存在する。
それでも津田領から輸入するのは、正確には樟脳を用いた防虫剤の使い勝手がいいからだ。
他の材料も配合してあり、タンスや衣装箱に入れると半年は虫を寄せ付けない。
便利で効果抜群なので、次第に輸入量が増えていた。
ただ明も、津田家が台湾や琉球で樟脳の材料となるクスノキのプランテーションを広げているのには気がついていなかったようだ。
明から台湾と琉球を奪ったのは津田家なのだが、明に住む民衆に織田家と津田家の区別などつかなかった。
奪われた場所も、明の人間からすれば自分達の領地や冊封国だという感覚もない場所である。
それよりも、津田家がもう少し商品の生産量を増やして値段を安くしてくれないかなと思っている金持ちは多かった。
「まあ、今はいくらでも稼げるから、多少高くても問題あるまい」
この金持ちは、伊達政宗が王になっている沿海州との朝貢交易に参加できる身分にあった。
交易ルートが限定されているからこそ、それに参加できる自分が稼げているという自覚もあったのだ。
戦争と経済は別というわけで、両者の取引は活発だ。
明側は、中国磁器、工芸品、書籍、絹製品を交易の対価として輸出している。
あとは津田領は金を欲したので、これも交易の代価として支払っていた。
津田家側も……この場合は交易を中継ぎする伊達家であったが……永楽通宝と共に津田領産の銀貨を支払う事も多かった。
すべてほぼ同じ銀の含有量、重さ、綺麗な刻印がされてあり、津田領の匁銀貨は明のみならず南蛮人も交易の代価として決済に使う事が多くなっている。
ただの銀を交易に使うと、重さや含有量を見極めるのに時間がかかって面倒だからだ。
実は明の貨幣政策は、永楽通宝を製造した国とは思えないほど御粗末である。
最初に宝鈔という不換紙幣を発行したが普及に失敗、銅銭もないので民衆は海外から入ってきた銀を使うが、明は何度もこれを禁止した。
それはいいのだが、代わりの貨幣を普及させられなかったので、結局銀の使用を黙認する事になる。
永楽通宝を含む銅貨も、明は国内での流通を禁止した。
あくまでも朝貢に来た外国に渡す貨幣だという認識であったからだ。
今では明国内での銅の産出も少なくなり、銅貨は生産されていない。
「しかし、津田領の連中は金が好きだな」
津田家との交易により明から大量の金が流出していたが、別に不足しているわけでもないし、その代わりに使いやすい銀貨が大量に入ってきたので明政府以外は喜んでいた。
銀を銀貨に交換する交易なども、実は密かに行われるようになっていたのだ。
明の上層部でも、蓄財に津田領産の匁銀貨を使う者が増えていた。
みんな同じ重さなので、自分の財産を把握しやすかったからだ。
「もう少しで、沿海州にいる商人との取引だ。桐の箪笥と樟脳を手に入れてこよう」
それから一週間後、その金持ちは北京にある自分の店で沿海州の商人と取引交渉を開始する。
いつもどおりに人気のある品を優先して買い取り、それを売った利益を考えてニンマリとしながら桐の箪笥と防虫剤も購入した。
「王様、実は津田領の商人から玉を預かっておりまして……」
「おおっ! 玉ですか!」
「はい、是非に見ていただきたく」
古来より、中国では玉はどんな宝石よりも高価な品とされてきた。
玉とは主に翡翠の事を差すが、これは日本でも採取できた。
『越後の糸魚川、越中の新川郡にある宮崎・境海岸で翡翠を採集せよと? 綺麗と言われれば綺麗だが、これが明では高く売れるのか……』
謙信が、糸魚川で採取された翡翠の原石を見ながら呟く。
日の本で翡翠の原石が拾えるのは、主にこの二か所であった。
共に上杉家の領地であり、彼は拾わせた翡翠の原石を津田家に売却、これは上杉家と伊達家は仲が悪いらしく、伊達家側が上杉家の朝貢貿易への参加を許可しなかったからだ。
『上杉家と伊達家って、仲が悪いのですね……』
『昔に色々とあってな……』
謙信が、光輝に両家の因縁を説明する。
『政宗君の曽お爺さんの代のお話ですか?』
『古い家は、過去の因縁に拘るからな』
『では、うちで仲介しましょう。政宗君は、俺には逆らわないんですよ。文句は裏で言いまくっていると思いますが』
そこで、代わりに津田家が明に玉の原石を持ち込み、これを金にしようとしていた。
他にもダイヤモンド、サファイア、エメラルドなどの宝石も持参したが、やはり明では高品質の玉の方が高く売れた。
金持ちは金の保有量を減らして宝石を財産として持つようになり、津田家はますます金の保有量を増やしている。
「これは素晴らしい! 高く買わせていただきますよ!」
上杉領産の翡翠の原石は高く売れ、持参した商人は安堵の溜息をついた。
もし売れなかったらどうしようかと思っていたからだ。
「品質のいい玉ならば高値で買わせていただきます。是非またお持ちください」
明の金持ちは、朝貢貿易で手に入れた品を明の国内で売却して多額の利益をあげた。
他にも、明の銀と津田領の銀貨を交換して手数料も稼いでいる。
帰りに桐の箪笥と防虫剤も手に入れて、彼は大満足であった。
朝貢貿易に噛ませてもらっているお礼に多くの賄賂も必要であったが、これも経費の内だと思えるほどの出費でしかない。
「噂では、朝鮮の王宮や軍の将軍達が織田軍から横流しされた物資を明に持ち込んで莫大な利益をあげているとか」
それに比べれば、自分達などまだマシな方だと金持ちは思っていた。
だが、所詮はドングリの背比べでしかない。
明は嵩む戦費を得るために増税をおこない、そこから津田産の贅沢品や玉を手に入れていた。
もっと多くの津田領産の品がほしいと、更なる増税や、賄賂を取る事ばかり考える役人と貴族が増え、次第に民衆との経済格差が広がって不満が溜まっていく。
金に続き、銀の流失も少しずつではあるが始まっていた。
質の高い匁銀貨を得ようと、銀貨に使っている以上の銀を津田家に渡すのだから当然だ。
明は匁銀貨の使用を禁止していたが、貧しい庶民は銀などあまり持てない。
むしろ、禁止している側の役人や貴族の方が大量に所有している有様で、取り締まりには効果がなかった。
普段の買い物に使うにも手間がかかるので、再び津田領から永楽通宝が密輸されるようになった。
私鋳なのは百も承知であり、偽物でも質がいいので喜ばれている。
これらの代価は、やはり銀か絹の反物で支払っていた。
日の本では、明製の絹織物が高額で売れた。
明から銅銭で絹を入手し、これを日の本で売り捌いて巨利を得る。
現在津田領でも、養蚕と絹織物の自給を試みていたが、量は津田領内の分だけで精一杯、品質もまだまだ明の物には及ばないのが実情だ。
なので、明の絹で稼ぐ手はまだ使えた。
「王様ほどのお方ともなれば、さぞや明の高官の方々に知己が多いのでしょうな」
「まあ、いなくはないな。何がしたいのだ?」
「王様にも美味しいお話です」
「聞こうか」
津田領の商人は、ある物を明に売りたいのだと金持ちに話す。
「塩だと! それはいかん!」
塩は古来より、専売制によって国家が流通を管理していた。
そのため、その国家が末期になって衰えると塩の密売人が顔を利かせる事になる。
塩の密売人から成り上がって、新国家を打ち立てた者すら存在したのだ。
よって、中国の王朝は塩の密売には厳しい罰で臨んでいた。
「塩に手を出せば、一族郎党が処刑だ。さすがに塩には手は出せんよ」
「いえいえ、我々は塩の密売を狙っているのではないのですよ。実はですね……」
津田領の商人は、金持ちにそっと耳打ちをした。
「なるほど……提案してみる価値はありますな」
「お話だけでもしていただけたらありがたい」
津田家の次の悪事は、塩の専売制に潜り込む事であった。
津田家が密かに明に塩を卸し、それを明の政府が通常の値段で売ると、今までよりも利益が上がるという仕組みだ。
「しかし、そんなに安くて大丈夫なのですか?」
「はい、これは我々津田家の誠意の証しだと思っていただければ……我らも、織田様に一刻でも早く朝鮮での戦を止めてほしいのですよ。ですが、津田家でも立場がありまして、織田様にそれを直接言えないのです」
「なるほど……」
金持ちは、話の筋は通っていると思った。
津田家は朝鮮での戦争など止めて、もっと明との交易を増やしたいと思っている。
だが、今は戦争のせいでそれができない。
織田家への配慮で、下手に戦争を辞めろと言えるような立場にないのだと。
だから、密かに明へと利益供与をおこない、戦争終結を早めようとしているのだと金持ちは思った。
「お話はしておく。期待はしないでくれ」
「お話だけでもしていただけたらありがたい」
金持ちは、複数の明の高官とツテがあった。
彼らに津田領から安い塩が手に入ると教えると、早速食いついてくる。
「しかし、その塩は大丈夫なのか?」
「これが見本だそうです」
金持ちは、津田領の商人から預かっていた塩を高官に手渡した。
「辛いな。味はすっきりとしているか……」
「調理などにも使ってみましたが、特におかしな点はありませんでした」
津田家が見本として提供した塩は、塩化ナトリウム九十九.九パーセントの精製塩であった。
海水をイオン交換膜で非常に効率よく濃縮し、最終的に乾燥させて作る。
未来に住んでいようと、人間には塩が必要であった。
よってカナガワにも食塩が大量に積まれていたのだが、万が一遭難した時のためにその惑星の海で塩を生産可能なよう、カナガワにはイオン交換膜の製造機械が積まれていたのだ。
この塩を津田領内に流通させると経済に悪影響なので、密かにキヨマロ達に製造させ、これを明に売って金を稼ぐ事にしたというわけだ。
「これを政府で売れば、国内で塩作りをしている連中から買い取るよりも利益が高いな」
明の塩が全部これになれば問題だが、少しくらい津田領産の塩が混じったところで問題はないはずだ。
それよりも、多くの利益が出て朝鮮での戦争で財政が破綻寸前の状態を少しでも救ってくれるのなら、喜んで塩を買い取ろうと明の高官は考えた。
ついでに、その利益から賄賂も抜ける。
今は色々と大変なので、そのくらいの役得は許されるであろうとその高官は考えた。
「しかし、朝貢貿易と同じ経路はまずいぞ」
「そこで、津田家側から提案です」
それは、先日津田家が押さえたマカオ経由で、明に塩を売る計画であった。
「あそこなら誤魔化しやすいな。よかろう、許可を出そう。ただし、漏らせば……」
「はい、十分に心得ております」
最終的には明政府が販売するので密売とは微妙に違うが、一種の私貿易なので絶対に内緒にしなければいけなかった。
もし織田家に漏れると、今度は津田家の方が塩を止めてしまう可能性がある。
慎重に事を進めなければいけないのは、子供にでもわかる理屈だ。
目の前にある利益のため、話を持ちかけられた高官達は秘密を保ちながら真面目に仕事をした。
あきらかに国内の製塩事業者の仕事を奪っているのだが、彼らはそんな事は気にしない。
気にするくらいなら、明はここまで腐敗していないはずだ。
「王、楽しみだな」
「はい」
こうして、津田家から大量の精製塩が明に密輸された。
安値で輸入した精製塩を明の政府は今までの値段で販売し、巨額の利益を得る。
この利益で明の財政はひと息つき、販売益から誤魔化した金は明の高官達と金持ちの懐に入った。
「王、これでまた大量の津田領産の品が買えるな」
「実は、いい玉が入ったと知らせを受けているのです」
「仕入れたら、是非見せてくれよ」
懐が温かくなった金持ちと高官は、沢山津田領産の品を買おうと次の交易の日を楽しみにするのであった。
「えっ? また塩の量を増やすのか?」
「量のコントロールが難しいけど、頼むよ。清輝」
「そうだなぁ……こっちに逆輸入されないように上手く調整してみるよ」
津田家は、信長の死後も徐々に精製塩の密売量を増やして明から金を稼いだ。
明は一時的には財政に余裕が持てたものの、国内の製塩業者を敵に回してしまう。
明の力が衰えると同時に、国家を介さない塩の密売で密売商人とともに稼ぎを得るようになり、長期的には余計に明の混乱を助長してしまうのであった。
密売精製塩の量のコントロールは、暫く津田家当主による秘密の仕事となった。
「しかし凄い話だな……しかし財政が少しだけマシになった明が、朝鮮派遣軍との決戦を急がないのか?」
「その心配はないですね。逆に、戦は治まっています」
両国で講和交渉の最中であるし、ここでまた明、朝鮮連合軍が敗北して損害を受ければ余計な出費が増えてしまう。
それに、前線にいる明の将軍と朝鮮の王宮は、缶詰などの密売に手を染めて利益を得ている。
逆に、朝鮮派遣軍との戦を避けたいのが彼らの心情であった。
ようするに、現場と本国の意見が一致したというわけだ。
そのように仕向けているのは、津田家であったが。
「実際に、明の高官から朝鮮派遣軍との無駄な戦闘は避けるようにと命令が下ったそうです」
「賄賂と密輸の利益で、戦闘が止まるか……」
「睨み合いでも食料と物資は消耗しますが、戦になるよりはマシなはずです」
「大違いだ」
兵は戦闘になると普段よりも沢山食べる。
負傷者は治療しないといけないし、死ねば補充しないといけない。
睨み合っているよりも経費が嵩んでしまうのだ。
「(そうやって、仲がいい羽柴筑前を助けているのか……やはり、とんでもない御仁だな)」
謙信は、光輝の悪知恵に感心するばかりであった。
「謙信殿、上杉領内の翡翠が高く売れるのは内緒にしてくださいよ。利益はちゃんと折半しているのですから」
「当然だな。あの利益は助かっているからな」
謙信は翡翠の売却益も惜しみなく注ぎ込んで、越後平野の干拓と領内の開墾を進めていた。
それにより、毎年越後の石高は更新されており、とてもありがたいと思っていたのだ。
柴田家にケチでもつけられたら面倒だと、謙信は光輝と秘密を共有する事を硬く誓う。
「信長には内緒か?」
「内緒にしていますが、気がついているかもしれませんね」
かなり際どい、見方によっては光輝が明に利益供与をしているようにも受け取られかねない。
だから内緒にしているが、そのおかげでこのところ戦闘は発生していなかった。
なので光輝は、信長は気がついていても黙認しているのではないかと思っていたのだ。
「かもしれぬな。ただ、唯一の不安定要素はある」
「勝家ですね」
今、彼は越前で政務を見ていたが、また数か月ほど朝鮮に渡る事になっていた。
もし彼に知られてしまうと、色々と面倒な事になってしまう。
「羽柴秀吉が押さえるか?」
「そのはずです。秀吉殿は、俺の策をほぼ理解していますから」
秀吉は経済にも詳しい。
だから、光輝のやり口がよく理解できるのだ。
だが、勝家はそのやり方を絶対にできないであろう。
光輝を裏切り者だと糾弾するはずだ。
「相変わらずの戦狂いよ。俺も人の事は言えない……言えなかったか」
謙信は昔の自分を思い出して、随分と無茶をやっていたのだなと思ってしまう。
「俺と津田殿と、筑前で上手く隠すしかないな。戦が終わっても、翡翠は売れるのがありがたい。採掘を急がせるか……」
密貿易の利益と謙信の奮闘により、越後平野の開拓は後世の歴史学者が驚くようなスピードで進むのであった。