第六十二話 浅井騒動
「朝鮮の戦況は膠着状態か。大変よな」
「誰も大殿に堂々と撤退を進言しておりませぬからな。我が殿でもハッキリとは言えないので、暫くはこのままでしょう」
越後平野の開拓工事現場において、視察に訪れた上杉謙信と津田家からの応援部隊を指揮する日根野弘就が茶を飲みながら話を続ける。
「信長は誤ったな」
明らかに朝鮮出兵は失政だが、それを本人は認めたくない。
明との講和交渉に活路を見い出そうとしているが、交渉締結までは兵を退けないと出兵が続き、兵を出している諸将の負担が大きくなっている。
有利な交渉条件を得るために、大軍を朝鮮に置いたままにしているからだ。
「既に、借金で首が回らない者もいるとか?」
「みたいですな。まあ、津田家も大金を使っておりますれば」
蝦夷、樺太のみならず、明への牽制で奄美群島、琉球、台湾、海南島と制圧して統治に入っている。
産物の交易で利益も出ているが、統治と開発にかかる費用も莫大なものとなっていた。
これらの新領地を維持するための、水軍も含めた軍事予算も日々増加している。
「その出費は必ず見返りがあるから構わないであろう。越後平野と似たようなものだ」
謙信の能力と津田家からの応援により、越後平野の干拓は予定よりも大分早く進んでいた。
農業生産量も大分上がり、越後の領民達は謙信に感謝している。
「国内の方も、少し混乱してきたな」
朝鮮出兵も理由の一つだが、一番の問題は信長と信忠による二元政治の弊害であった。
国内統制に腐心する信忠からすれば、一刻でも早く朝鮮から撤退してほしいのだ。
「両者の対立が、徐々に表面化しつつある」
謙信は、隠居した今でも情報の収集を怠っていない。
今の上杉家の領地では逆立ちしても織田家に敵うはずがない以上、御家存続のためには政治的に上手く立ち回る必要があったからだ。
謙信は、この分野でも天才的な才能を発揮した。
「浅井家の件ですか?」
「やはり知っておるか、日根野殿は」
「まあ、大殿と若殿経由ですが……」
「津田殿と、信輝殿はいい耳をお持ちのようだな」
朝鮮で疾病して帰国した浅井長政は、当初はすぐに完治すると思われていた。
ところが、今も定期的に発熱などをして寝込む事が多くなっている。
「今日子殿に診てもらったのであろう?」
「奥様が仰るには、特定の病ではないようです。体が弱ると発熱してしまう。時間をかけて療養するしかないと」
長政は死んでいないし、また死ぬほど重篤でもない。
だが、浅井家の政務が滞るので、嫡男の亮政が一部を代行する事になった。
「ここで問題が出ました」
戦では大活躍できた亮政であったが、統治は苦手で色々と問題が発生しつつあったのだ。
それを長政の次男で元服した信政が補佐する事になる。
彼は体は弱かったが、領内統治などでは手腕を発揮した。
母親が違うからか?
兄弟でまったく別の才能を持ってしまったわけだ。
「浅井家の領地近江は、重要な位置にありますからな」
織田家の本貫地、尾張、美濃、伊勢と、信長が本拠を置く石山との間にある重要な地である。
この地の混乱は許されず、信忠は『信政こそが浅井家の跡取りに相応しいのでは?』と考えるようになった。
自分と血が繋がった従弟であるという点も大きい。
「亮政様を気に入っておられる大殿と、信政殿が可愛い信忠様ですな」
今までであれば、このような争いは浅井家の重臣である遠藤直経が抑えたのだが、不運な事に彼は先月病で亡くなっていた。
長政の疾患と、浅井家を取り仕切っていた重臣の死。
家中は亮政派と信政派に別れ、更に悪い事に織田家も信長と信忠で判断が分かれていた。
信長は亮政を信政が補佐すればいいと言い、信忠は信政が浅井家の家督を継いだ方がいいと思い始める。
信忠も、ただ血の繋がった従弟可愛さで言っているわけではない。
実際に亮政が政務を滞らせているのは事実であったからだ。
おかげで、浅井軍の朝鮮派遣軍復帰は遅れている。
現在の浅井家中は混乱の極致にあるのだが、朝鮮派遣軍に参加している将達の中では、長政が朝鮮派遣で浅井家が疲弊しないようにわざとやっているのではと噂されている事が問題であった。
『なるほどな、当主が仮病で、子供達は跡取り争いで兵が出せないねぇ……今の時期に都合がいい事だな』
ある将が、茶会の席で愚痴ったという噂も流れている。
苦労して出兵をやりくりしている他の諸将は、信長の義弟だからという理由で家内の混乱を理由に出兵のローテーションを守らない長政に隔意を集中させてしまう。
さすがに表立って批判はしないが、浅井家は依怙贔屓されていると思っている者が増えていたのだ。
「大殿は、困っているでしょうな」
浅井家は混乱しているが、別に内乱になったわけではない。
それに、信長と信忠では浅井家に対する意見が違うので下手に手が出せず、ただ一日でも早く混乱解決のキーマンである長政の回復を祈るのみという状況になっていた。
ところが、彼は少し疲れるとすぐに発熱してしまう状態だ。
今日子が薬を処方し、静養方法の指導などを行っているが、完全回復までにはまだ時間がかかるとの予想であった。
「厄介な病だな。俺も気をつけないと」
「奥様が仰るには、どんなに健康な人でも、一度大きく体調を落とすと回復に時間がかかる場合が多いそうです」
「しかも、症状が慢性的ではあるが、目に見えて重症というわけでもない。仮病を疑う輩も増えるだろうな」
謙信が一番の懸念を口にした。
朝鮮派遣軍に参加している将兵達の間では、その犠牲と負担の大きさから不満が渦巻いている。
なので、せめて派遣軍の参加ローテーションくらいは守ってほしいのに、長政のせいでそれができない。
浅井軍が朝鮮に来ないせいで、予定以上の長対陣になって負担が増えている将達から不満があがりつつあった。
「織田幕府は、創設の苦しみを味わっておるな」
謙信とて、過去の歴史くらいは勉強している。
鎌倉、足利幕府も発足当時は混乱が多数あった。
織田幕府にはそれがないなどと、微塵も思ってもいない。
せめて、上杉家が巻き込まれて没落せぬように動くしかないのだ。
景勝は朝鮮の地にあるが、くれぐれも無理はするなと命じてあった。
「こうなると、新領地の開発に傾注していて朝鮮に兵を出していない津田家の勝ちよな」
「まあ、苦労は多いですけどね」
支配領域が広大になってしまったので、蝦夷、樺太管区、東北管区、関東管区、南方管区と区分をして人員の補充等も行っている。
今まで内政を取り纏めていた堀尾泰晴が遂に隠居してしまったので、新しい人事が発表、実行されていた。
「ほほう、日根野殿は参加なさらないので?」
「私は既に家督を譲っている身、ここの手伝いも忙しいですからな」
泰晴の地位を継いだのは、山内康豊であった。
彼は関東の内政も担当し、その下に堀尾方泰、大谷義継、石田佐吉、長束正家、田中吉政などがいた。
本多正信、武藤喜兵衛、風魔小太郎の役割は変わっていない。
蝦夷、樺太は信輝の弟津田信秀が、東北は佐竹義重と光輝の娘婿になった嫡男の義宣が、南方は田中吉政、石田正継、正澄、福原長堯、益田元祥、北楯利長、板部岡江雪斎などが担当している。
南方は、能力がある若手や、仕官して間もない者達に実績を積ませる場としての側面もあった。
その他の諸将は、その能力に合わせて再配置されていた。
若手の登用を始めて、津田家家臣団の世代交代を上手く行おうとしているのだ。
弘就の息子達も南方の担当となり、孫達は信輝の傍で仕えていた。
その中で信輝に気に入られているのは、津田家中では目立たない存在であった岸教明の息子加藤嘉明と、近江から流れてきた藤堂高虎であろう。
高虎は拡張が続く水軍でも活躍を始め、他にも脇坂安治も水軍の将の一人として台頭していた。
「上杉家は、津田殿と懇意にしていた方が生き残れるかな?」
「危険な発言ではありませぬか?」
「隠居老人の戯言など、天下人信長は気にすまい」
謙信は、弘就が信長をあまり好きではない事を知っている。
自分も信長に頭を下げるのが嫌だから、隠居して景勝に家督を継がせて越後に引っ込んだ。
だから、この程度の発言なら弘就は漏らさないとわかっていた。
「近江が揉めると、越前と加賀に響く。何とか解決してほしいものだな」
ところが謙信の願いも空しく、それから暫く混乱は続き、その中でいきなり長政が急死するという事態になる。
「まさか、そんな急死するような病状じゃあ……」
「それは本当か? 今日子よ」
「はい、間違いありません」
現時点で、長政は四十四歳であった。
この時代だと不意の病による急死の確率も多少上がるかもしれないが、不自然なのは事実であった。
「近江に入るぞ!」
信長は、光輝、今日子、長秀などを連れて近江に入る。
浅井家の居城となっていた安土城で長政の遺体と対面した今日子は、医者としての知識ですぐに長政の死因を見抜いた。
「毒殺ですね……量の計算は難しいですが、上手く飲ませれば病の悪化に見せかける事も可能です」
今日子は、長政の検死を行ってすぐに彼の死因が毒殺である事を掴んだ。
「何者が長政を殺したのか? 犯人を見つけて磔にしてやる!」
お気に入りの義弟を殺されて激怒した信長によって葬儀の準備と並行して犯人探しが始まったが、なかなかその正体は掴めない。
それよりも、葬儀会場における亮政派と信政派の対立の方が深刻であった。
厳かな葬儀が亮政が喪主となって行われたが、それが終わると跡継ぎを巡って深刻な対立が発生した。
「大殿?」
「亮政に任せればよかろう。第一、亮政が喪主を務めたのだ。そういう事であろう」
信長としては、早く亮政が軍を率いて朝鮮に戻ってほしかったのだ。
信政は留守番をして近江の統治を見ればいいのだと。
「大殿の仰るとおりに、亮政様が浅井家の跡を継げばいいのだ!」
「確かに亮政様は戦が上手いが、重要な要衝である近江を混乱させたではないか! 信政様こそが相応しいのだ!」
急死した主君を慰霊するどころではなく、浅井家の家臣達は二つに割れて争いを激化させた。
長政は、父久政がクーデターを起こしたせいで一度領地を没収されている。
それを懸命な働きで取り戻したのだが、領地を奪われた空白期間のせいで家臣達に大きな壁が生じていた。
朽木家、宮部家、阿閉家などの一度織田家の直臣に取り立てられた者達と、久政に属して当主が討ち死に自害したので長政が連れて行って面倒を見た赤尾家、海北家、雨森家などの者達だ。
前者は信政を、後者は亮政を推しているというのは、運命の皮肉かもしれない。
この中でも長政について行くために所領まで捨てた遠藤直経は別格で、彼は亮政を次期当主として推していたが、彼の嫡男孫作長経は信政を、次男長直は亮政を推すという奇妙な状態に陥っていた。
遠藤家も混乱の極致にあり、次男長直は兄長経を裏切り者だと非難する有様だ。
もっとも、長経にも言い分はある。
浅井家存続のために、織田家の血を引いた信政を跡継ぎにする方が現実的だと判断したに過ぎない。
信長は亮政を気に入っているが、信忠は信政を可愛がっている。
年齢的に見ても、信長よりも信忠が長生きする以上は信忠の意向に従った方がいい。
国内の統治に腐心している信忠からすれば、領地の統治に不安のある亮政に問題があると思っているのだから。
そして、そんな中でとんでもない事件が起きた。
遠藤長直が、浅井信政を白昼堂々と惨殺してしまったのだ。
「信政が殺されただと!」
この件で、再び信長は激怒した。
普通に自分の甥は可愛かったからだ。
犯人である長直は自分が泥を被って信政を殺せば、亮政が問題なく浅井家当主になれると思ったらしい。
「そんなわけがあるか。あの忠臣直経殿の子供とは思えない男だな。第一、自分の家の事は考えなかったのか?」
信長についてきた長秀が、遠藤長直の愚かさを批判する。
彼の予言は当たり、激怒した信長によって遠藤家の人間は男子はすべて磔、女子は寺に入れられてしまう。
女子は助けられただけ、信長も年を取って丸くなったのだと周囲は噂した。
長政毒殺の犯人も、証拠は完全ではなかったが、長直が犯人という事にされて幕を降ろしてしまう。
それよりも、早く浅井家の体勢を立て直してもらいたいと考える信忠の意向であった。
この件でも、長政暗殺犯の確定に拘る信長との対立が表面化したわけだ。
「父上、亮政への処分はしないわけには……」
「わかっておる」
そして亮政は可愛いが、何も罰を与えないわけにはいかない。
信長は浅井家に対し、今回の一連の騒動に対する処分を下す。
「亮政、紀伊への転封を命じる」
浅井家は紀伊へと転封され、その領地を大幅に減らされる事となった。
多くの家臣達も領地を失い、禄が減っても浅井家に仕官する者と、他家へと仕官する者とに分かれて大きく力を失ってしまう。
今回発生した『浅井騒動』によって、織田家にはまだ多くの問題が残っている事が露呈してしまうのであった。