第一話 編み物しながら死にたい
カフェのテラス席で、人目もはばからず、俺は毛糸を編んでいた。
佐藤悠人、大学三年生。趣味は編み物。きっかけは、高校の文化祭でたまたま手芸部の出し物を手伝わされたことだった。無心で毛糸を編んでいる時間が、驚くほど自分の性に合っていることに気づいた。以来、気づけば六年、暇さえあればかぎ針を握っている。
「なあ悠人、また編んでんの? そろそろ引かれるって、マジで」
向かいの席で、友人の田中がアイスコーヒーをかき混ぜながら苦笑していた。
「引かれてもいい。今日中にこのマフラーを仕上げないと、母さんの誕生日に間に合わない」
「彼女いない歴イコール年齢の理由、それだと思うぞ」
「余計なお世話だ」
友人にドン引きされようが、道行く人にジロジロ見られようが、かぎ針を動かす手は止まらない。むしろ、そうやって編み目を数えているときだけは、就活の不安も、単位の心配も、綺麗さっぱり頭から消えてくれる。これは俺にとって、ただの趣味というより、一種の避難場所のようなものだった。
「にしても、毎年よく続くな。誰にでもそうやって編んで渡すのか」
「母さんくらいだよ、さすがに。あとは自分用と、たまに気が向いたときに人にあげるくらいで」
「律儀だな……ま、そういうところ、嫌いじゃないけどな」
田中がそう言って肩をすくめたとき、ふいに、通りの向こうから大きなクラクションの音が響いた。
「今日中に仕上げないと……」
次の模様の完成に気を取られていたせいで、車道から迫るクラクションに気づくのが、一瞬遅れた。
顔を上げたときには、もう遅かった。テラス席に、車が突っ込んできた。
視界が真っ白になる直前、頭に浮かんだのは、意外にも冷静な一言だった。
「どうせ死ぬなら、編み物しながら死にたい」
手にしたかぎ針を、最後まで離さなかった。
◇
次に目を開けたとき、俺は見知らぬ森の中にいた。手には、あの日と同じかぎ針が握られたままだった。膝の上には、編みかけのマフラーと、毛糸玉がひとつ。
「……嘘だろ」
見たこともない木々、聞いたこともない鳥の声。スマホは圏外どころか電源すら入らない。鑑定スキルもチートもない。ただの冴えない大学生が、編み物の道具だけを携えて、異世界に放り出されていた。
「まさか、本当に……異世界転生ってやつか?」
自分で言っておいて、笑えなかった。
放心していると、茂みの奥から低い唸り声が聞こえた。見上げるほど大きな、猪のような魔物が、牙を剥いてこちらに向かってきていた。全身を覆う毛は針のように逆立ち、赤く濁った目がまっすぐ俺を捉えている。
「うわ、うわ、うわ……!」
逃げ場もなく、俺は反射的にその場にしゃがみこんだ。頭の中が真っ白になる中、手だけが勝手に動いていた。さっき頭上を横切っていったコウモリの姿を思い出しながら、毛糸を掛け、かぎ針を進める。恐怖を紛らわせるように、無心で編み続けた。
「化け物と戦うくらいなら、こっちを完成させたい……!」
情けない理由だと、自分でも思う。それでも、指先は止まらなかった。
編み目が、なぜか淡く光り始めた。完成した手のひらサイズのコウモリの編みぐるみが、ぽとりと地面に落ちた瞬間――ぐん、と膨れ上がった。
見上げるほどの大きさになった毛糸のコウモリは、翼を広げると、迫っていた猪型の魔物に体当たりした。魔物は吹き飛び、木々をなぎ倒しながら森の奥へ消えていった。
「……は?」
俺は、地面にへたり込んだまま、目の前の巨大な毛糸コウモリを見上げていた。コウモリは、律儀にこちらを振り返り、ぺこりと頭を下げるような仕草をしてから、静かに姿勢を低くした。まるで「乗れ」とでも言うように。
「お前、俺を、助けたのか……?」
返事の代わりに、コウモリは大きな翼で、俺の頭を優しく撫でるように包んだ。ふわふわとした毛糸の感触が、なぜか涙腺を刺激した。異世界に一人放り出されて、初めて感じた「安心」だった。
「……よし。お前には、名前が必要だな」
しばらく考えて、俺はその毛糸のコウモリを「バット丸」と名付けた。安直だと自分でも思ったが、バット丸はまんざらでもなさそうに、翼をぱたぱたと揺らした。
夜が近づき、森の中は一気に気温を下げていく。頼れる灯りもない中、俺はとにかく火を熾すことから始めた。乾いた枝を集め、火打ち石代わりに転がっていた石をこすり合わせること数十回、ようやく小さな火が灯った。
「……よし。ひとまず、今夜は生き延びられそうだ」
焚き火の傍らに座り込み、ようやく人心地がついたところで、今度は現実がじわじわと押し寄せてきた。元の世界には、もう戻れないかもしれない。友人にも、家族にも、二度と会えないかもしれない。そう考えると、指先が小さく震えた。
その震えを見透かしたように、バット丸がそっと体を寄せてきた。毛糸特有の、ふわふわとした温もりが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「……ありがとな」
誰にともなく呟いた言葉に、バット丸は答える代わりに、小さく翼を震わせた。
◇
バット丸に守られながら、俺はその日の夜、焚き火の前でかぎ針を握り直していた。
「さっきの、もう一回できるか試してみよう」
今度は、小さなネズミを編んでみる。同じように編み目が光り、手のひらサイズのネズミが実体化した。でも、こちらはただ床をちょこちょこ走るだけで、戦う素振りは見せない。
「……なんでコウモリは戦って、こっちは戦わないんだ?」
試しに、コウモリのときと同じ編み目――羽の部分に使った、特殊な交差編み――を、ネズミにも取り入れてみる。すると、実体化したネズミは、小さいながらも牙を剥き、俺を守るように身構えた。
「そうか……効果を決めてるのは、モチーフじゃなくて、編み目の方か」
その夜だけで、俺はいくつもの編み目を試した。ある編み目は硬さを、ある編み目は素早さを、ある編み目は力強さを与えるらしい。まるで、編み目そのものが呪文だった。細編みを重ねれば硬い装甲のようになり、長編みを緩く通せば俊敏さが宿る。玉編みを連ねれば、腕力に似た力強さが宿った。
「編み物歴六年、伊達じゃなかったな……」
試行錯誤の末、俺は簡単な早見表のようなものを頭の中に作り上げていった。この編み目は防御、この編み目は速度、この編み目は――と、まるで魔法のレシピ本を編纂しているような気分だった。
中には、失敗作もあった。適当に思いついた編み目を試したところ、実体化したウサギがひたすら跳ね回るだけで、まったく制御が効かなくなったこともある。慌てて追いかけ回す羽目になり、結局、朝方までかかって捕まえた。ぐったりしながら、俺はその日の学びをこう結論づけた。
「編み目は、思いつきでやるもんじゃないな。ちゃんと理屈を組み立てないと」
バット丸は、そんな俺の様子を、満足げに見下ろしていた。時折、俺の手元を興味深そうに覗き込んでは、正しい編み目ができると翼を小さく震わせて喜ぶ。どうやら、こいつにも感情のようなものがあるらしい。




